最近の記事

2019.11.3「弟子の覚悟」(ルカ9:57-62)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章57-62節



続きを読む
posted by 近 at 20:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.10.27「たとえ受け入れなくても」(ルカ9:51-56)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
ごめん。ブログのことをすっかり忘れていました。数えたら12日ぶりの更新ですね。
しかも礼拝メッセージも一週間ずれていますが、近いうちに更新します。
ちなみに十日以上過ぎていますが、10/27は私の誕生日です。はっぴば〜すでぇ、お〜れ〜。むなしい。
 忙しすぎて、誕生日アピールも忘れていました。教会員は少ないのになんでこんなに忙しいんだろ。
頼まれると断れない性格だからかな。いや、地方の小さな教会にとっての宣教、それはすなわち人脈作り。
18年間牧会している中で、ナントカ委員という肩書きが山ほどできてしまって、クビが回りません。
 しかしブログは続けますよ!更新は忘れてたけど。7年間でコメント25件だって、めげません。
ええ、めげませんとも。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章51-56節



続きを読む
posted by 近 at 10:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.10.23「PBAスタッフ・山本和明兄の召天に寄せて」

notice.jpg

10/23(水)祈祷会メッセージ
新約聖書『ローマ人への手紙』10章13-15節
13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。14 しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。15 遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。

 今週の祈祷会は、もともとネヘミヤ祈祷会[当教会の会堂建築のために祈る会]を予定していました。
しかし明後日から来週にかけて、新潟福音放送協力会の地区総会が続けて行われます。
この金曜日、私は午後は中越、夜は上越の地区総会に出席、土曜日に上越から帰ってきて主日の礼拝に備えます。
この働きをより教会員に理解し祈っていただくために「放送伝道祈祷会」にしたらどうか、と妻から提案があり、週報にも掲載しました。
 そんな中、この月曜日、『ライフ・ライン』を制作するPBAから、各地の教会宛にメールが届きました。
日曜日の夜に、番組のスタッフ(ディレクター)であった山本和明兄が突然亡くなられたということでした。
そして今日の午後6時から、船橋市の中山キリスト教会にて、彼の前夜式が営まれています。
放送伝道のために祈る祈祷会で、急きょ放送伝道に生涯をささげたひとりの兄弟をおぼえて祈ることになりました。
このような事態に対して、ただ驚きを隠せませんが、主を証しし続けた山本兄に対して、心から感謝したいと思います。

続きを読む

2019.10.13「わたしの名のゆえに」(ルカ9:46-50)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
台風19号で被害を受けた方々の上に、創造主なる神の励ましがありますように祈ります。
明日はいよいよ教会バザーです。
最近、長すぎるとお叱りを受けている礼拝説教も、礼拝後のバザー準備があるので短くするようにという厳命を受けています。
先日、教団の研修会に参加したとき、5分でプレゼンを頼まれていたのですが、当日になって、持ち時間が3分に減らされました。
5分という時間がどれだけ貴重かということを思い知らされました。説教も、もっと緊張感をもって臨めば、濃縮された時間となるはずです。
昔は何を語ればよいかわからず、とにかく20分を持たせるのが大変だなあと思っていたのですが。
説教の長さで苦しむ日が来るとは考えもしませんでした。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章46-50節


序.
 かつてお昼に放送されていたテレビ番組に、視聴者からの電話の悩み相談に対して、出演者がそれにアドバイスするというのがありました。
その時間帯に電話できるという人はほとんどが専業主婦なので、内容はだいたい夫婦関係の悩みに限定されているのですが、
その中に60代の主婦からこんなのがありました。先日、夫が定年退職になりました。
会社で働いていたときには、毎日スーツを着こなし、夜でも携帯が鳴り仕事の指示を出したり、たまに部下を家に連れてきたり、
頭は少し薄くなっていたけれども、ああ、この人は立派なんだ、会社にとっても家族にとっても必要な人なんだ、と尊敬していました。
ところが定年になったとたん、昼近くまで布団に潜り込むわ、起きたと思ったら寝巻姿で新聞を読みながらご飯を食べるわ、
ゴミの分別も知らないわ、ご近所さんの顔と名前も一致しないわ、私がいちいち教えなければ何もできないわ、教えても反発するわ、
そもそも何度教えてもおぼえないわ、・・・・あとは省略しますが、100年の恋も冷めた私はどうしたらいいのでしょう、という質問内容でした。
 じつはイエス様が「このような子ども」と言われたのは、年齢の低い幼子ではなくて、こういうご主人のことなのだと言ったら驚くでしょうか。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、ギリシャ語には子どもを表す言葉として、「テクノン」と「パイディア」という言葉があります。
「テクノン」というのは文字通り子どもを表すのですが、「パイディア」というのは躾や訓練を必要としているという意味でのこどもです。
だからパイディアというのは、子どもだけではなく、奴隷、部下、家来、という言葉にも訳されることがあります。
そして今日の箇所で、「子ども」と訳されていることばは、このパイディアです。
もしかしたらイエス様が手を取ってご自分のそばに立たせられたのは、小さな子どもでなくて、そこにいた奴隷のひとりであったのかもしれません。

1.
 この箇所で、イエス様がまず弟子たちに語ろうとされたのは、次のようなことでした。
あなたが自分よりも下に見ている者、私がしつけなければならない者、訓練しなければならない者、そのように考えている相手に対して、
キリストの名のゆえに、「敬意をもって」受け入れなさい、と。それができる人こそが、喜んで自分の小ささを誇ることができる人です。
そして、そのような人こそが、あなたがたすべてのなかでいちばん偉い人なのです、と。
 ここでイエス様が、幼子のような者が偉い、と言っているのではないことに注意しましょう。
それは別の箇所で語られているので混同しやすいのですが、
ここでは、幼子のような者を、わたしの名によって受け入れることができる人が偉い、と言っています。
「一番小さい者」とは幼子のような人のことではなく、幼子のような者をも尊敬し、受け入れる者、ということです。
 人間というのは、自分よりも優れているという人のことは尊敬し、受け入れることができるのですが、
人の助けを借りなければ何もできない、自分がいなければ生きていけない、そういう人を受け入れることはたいへん難しいのです。
さっきみたいなご主人を受け入れるのは大変なことです。しかしこういうご主人こそがパイディア、訓練を必要としている人ということです。
定年を迎えた夫婦だけではないですね。ある教会で、若いお母さんたちの悩みを語り合う場を提供しているのですが、
お母さんたちがふだんの生活で怒りをおぼえる場面はどんなときか、アンケートを採ったら、みごとにふたつに集約されたそうです。
ひとつは、子どもがさっさと準備しないこと、もうひとつは、夫がそれを見ながらまったく手伝わないこと。どちらも躾と訓練が必要なパイディアです。 イエス様が、このような子どもをわたしの名のゆえに受け入れなさい、というのは、決して幼子だけを指しているのではありません。
あなた自身を基準としたら、受け入れることは難しい、いや、受け入れることは不可能です。しかし、わたし、キリストを基準としなさい、と。
自分自身も、イエス・キリストにとっては幼子のような者のひとりにすぎないのだ、ということを自覚する、
それがわたしの名のゆえに受け入れなさい、ということです。
 自分を基準にしたら、そこに到達しない人、子どもに限らず、大人でもそうです、彼らは教えて、しつけなければならない相手です。
そこに、「わたしの名のゆえに」という、新しい基準を設けよ、と。私もイエス様に教えられなければならない幼子なのだ、と。
私もまた、イエスの御名の下に、同じようにしつけと訓練を必要としている弟子のひとりにすぎないのだとへりくだることができるのです。
そのとき、自分よりも下に見ていた人からも多くのことを学びます。その人を従わせるのではなく、その人の声や姿に耳を傾けます。
相手の人格を心から受け入れ、屈服・矯正する相手としてではなく、ともに成長していくものとして見ることができます。

続きを読む
posted by 近 at 17:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.10.6「ひたすら十字架に向かって」(ルカ9:37-45)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
台風19号(ハギビス)が現在(12日の19:00頃)伊豆半島に上陸というニュースの中でブログを記しています。
新潟市は、雨・風ともに少しずつ強くなっておりますが、避難注意・指示などは発令されていないようです。
せっかく教会の玄関前に出しておいたバザーの看板も撤収しました。台風が過ぎたあと、また掲示します。
1909051268_01L_page-0001.jpg1909051268_01L_page-0002.jpg
関東や東海地方のニュースを見ながら、どうか守られますようにと祈ります。
ほんとうに、祈ることしかできません。
二千年前にガリラヤ湖上の嵐の中で怯えていた弟子たちと、現代の私たちの姿は基本的に同じなのだと思わされます。
自然の脅威に対して無力です。恐れます。しかし台風を恐れるのではなく、すべての創造者をこそ恐れたいものです。
キリストが「黙れ、静まれ」と荒れ狂う空に向かって語ってくださるその時を待ちます。
定期的にこのブログに目を通してくださる方々の中には、今晩、避難所で夜を過ごす方もおられるかもしれません。どうか休めますように。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章37-45節


1.
 今日の聖書箇所は、マタイの福音書、マルコの福音書の中にも出て来る有名な箇所ですが、
このルカ福音書での物語を、マタイ、マルコと比べると、肝心な箇所が抜けています。
マタイ、マルコでは、あとからそっと弟子たちがイエス様にこう聞くのです。「なぜ私たちには悪霊を追い出せなかったのですか」
するとイエス様が答えます。マタイでは、信仰が足りないからです。マルコでは、祈りと断食によらなければでていきません。
すでに弟子たちは悪霊を追い出す力と権威を与えられていたのですが、それは自動的に発動するのではない。
信仰、祈り、また祈りに専念するための断食、といったものを働かせていく、と、わかりやすく適用することができます。
 ところがルカの福音書では、そういうやりとりは一切ありません。
それは、十字架に至るイエス様の苦しみを一続きとして集中して描いていくために、あえてそのような信仰の教訓をカットしているわけです。
しかし次のことばだけは、三つの福音書で共通して、記されています。41節をご覧ください。
「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。
いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい」。
イエス様はこの言葉をだれに対して言っているのでしょうか。
これも三つの福音書に共通しているのですが、弟子たちに対してではなく、この父親を含めて、群衆に向かって語っているのです。
 このことに、私たちは混乱します。イエス様は苦しんでいる者たちをあわれんでくださるお方ではないのでしょうか。
それなのに、「いつまであなたがたにがまんしなければならないのか」などと、突き放したことを言われるなんて、そんなことがあるのだろうか、と。
しかしここに、私たちに対する大切なメッセージが隠されています。
それは、イエスさまに何かを求める前に、あなたはイエスさまが何を求めておられるのか、知ろうとしていますか、ということです。
人々は、イエスに今日の食べ物を求め、地上の安定を求め、病のいやしを求め、悪霊の追い出しを求めました。
イエス様はどんなにご自分が疲れているときにも人々を迎え、そして与えられました。
しかしこの、我が子のためなら真剣そのものである、この父親でさえ、イエスが進もうとしておられる十字架の道を想像できていませんでした。
辛辣な表現をすれば、彼らにとってキリストは、求めれば何でも出てくるATMでしかなかったのです。

続きを読む
posted by 近 at 19:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.9.29「彼の言うことを聞きなさい」(ルカ9:28-36)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
最近、関西電力関係者の贈収賄事件が連日報道されているのですが、
ふと気になるのは、背広仕立券だの何だのいろいろ贈ってた高浜町の旧助役(故人)についてはほとんど報道されないこと。
故人であるからということで、それこそ罪が忖度(そんたく)されているように思えてならないのは穿ちすぎでしょうか。
そして現・高浜町長もまるで他人事のように怒りの声を上げていますが、町民の責任は問われないのでしょうか。
私たちが福音書を読むとき、あるいは語るとき、群衆=哀れな羊という面が強調されるきらいがありますが、
実際にはイエス・キリストは、弟子たちよりも一般の人々に対して厳しい目を向けられることがありました。
(それは山上の変貌後の出来事のなかで、共観福音書が共通して語っていることです)
それにしても、いつも洋服の青○年末セールでツーパンツスーツばかり買っている私も、一度背広仕立券なるものを見てみたいものです。
送られてきても受け取れませんが。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章28-36節


1.
 イエス・キリストが30歳の時に故郷ナザレを離れ、十字架の死まで宣教活動をなされた期間は、約3年半と言われています。
これを公生涯と言いますが、今日の聖書箇所は、その3年半の公生涯のうち、最後の半年間のはじまりとなる箇所です。
新約聖書には、イエスの公生涯を記録した、福音書が四つありますが、どの書も三年半をバランスよく記しているというわけではありません。
このルカ福音書は、全部で24章あって、まだ9章ですから、イエスの公生涯の前半のように誤解しがちなのですが、
実際にはルカ福音書の大半は、最後の半年間にターゲットを絞って、イエスのことばや行いについて書かれています。

 今日の聖書箇所に描かれている出来事は、山上の変貌と呼ばれます。最後の半年間の出発点となる箇所ですが、
このときのイエス様はいったいどのような状態であったでしょうか。信じられないかもしれませんが、だれにも理解されない、ひとりぼっちだったのです。
それまでの約三年間、イエスはユダヤ全土を回りながら、病をいやし、悪霊を追い出し、神の国が来たと語り続けていました。
それは、一見、多くの実を結んでいたように見えました。イエスの元に集まってくる者たちは日に日に増え、休む暇のないほどでした。
しかしほとんどの人々は、イエスを罪からの救い主とは見ていませんでした。
やれバプテスマのヨハネがよみがえった、やれエリヤだ、いや昔の預言者の生まれ変わりだと言っても、救い主としては見ていません。
モーセのように空から食べ物を降らせてくれる、あるいはダビデのようにイスラエル王国を再興してくれる、そんな願いしか託していません。
十二弟子でさえ、イエスがエルサレムで十字架にかかり、殺され、そしてよみがえらなければならない、ということばを受け入れられなかったのです。
ましてや人々が、イエスさまの心を理解できなかったのは当然かも知れません。イエス様は、人々に囲まれてはいても、孤独でした。

 今日の、イエス様が光り輝く御姿に変わられた出来事にはどのような意味があったのでしょうか。
まずひとつには、人々が決して理解しなかった、十字架にかかる救い主としての道を、父なる神はよろこんでくださった、ということです。
この出来事の一週間前に、ペテロは「あなたは神のキリストです」と告白しました。
しかし実際のところ、何をもって神のキリストなのか、ペテロを含めて、弟子のだれも、よくわかっていませんでした。
神のキリストの答えが、ここにあります。イエス様は父なる神に、自分の心を聞いていただくために山に登り、この出来事を経験しました。
これは、キリストが自分の意思で、自らの力をもって起こした変化ではありません。父なる神が、神の子として輝かせてくださったのです。
たとえ人々があなたの選び取った十字架を理解しなくても、まさにあなたが十字架へと向かうからこそ、私はあなたをわが子と認める、と。
あなたの十字架への決意は、わたしのみこころに完全にかなっている、だからわたしはあなたをよろこぶ、という光に満ちた励ましでした。

続きを読む
posted by 近 at 23:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.9.22「わが救い主イエス」(ルカ9:7-9、18-27)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。うっかりしてブログを更新するのを忘れていました。
今日、何日ですか?10月1日になりました。いよいよ消費税も10%ですね。まさか10%だから10月にしたんじゃないですよね。
竹下内閣によって初めてわが国に消費税が導入されたとき、私は18歳でした。
3%なんて計算がややこしいから、10%くらいのほうがキリがいいんじゃないのとか思ってた高校生でした。
バカモノ、オマエは何もわかっていない。10%という数字の重みを・・・・(涙)ムキー
30年前の自分が目の前にいたら叱りつけてあげたい気分です。ああ、5%のうちに会堂建築を始めたかった。
こんな記念すべき夜に、ふと小学生の頃に友人の家にあった小説のタイトルを思い出しました。
フレッド・ホイル『10月1日では遅すぎる』(早川SF文庫)
変なタイトルだから、妙に頭に残っていました。古典過ぎて、もう絶版です。Amazonでもこんな写真しかありません。
消費税とは関係ない内容だったはずですが、タイムリーなタイトルなんで再版されるかもしれませんね。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章7-9、18-27節


ごめんなさい、今回録画に失敗して、メッセージ動画がありません。

1.
 インターネットで「イエス・キリスト」と打ち込み、検索すると、900万件以上の記事が出て来ます。
その900万件の中でイエス・キリストを救い主として教えている記事はどれくらいでしょうか。おそらく十分の一にも満たないことでしょう。
数え切れない人々が、イエス・キリストを偉大な人物として崇めています。900万件という数字は、その表れです。
しかし同時に、あまりにも多くの人々がイエス・キリストを単なる偉大な人物でまとめてしまい、救い主とは認めません。
もし救い主だと認めてしまったら、自分が救いを必要としていることを認めることになります。いいや、私は救いなど必要としていない。
自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の足で立ち上がることのできる、確固とした生き様を持っている人間なのだと信じたいのです。

 国主ヘロデも、そのような現代人と同じでした。彼は、自分に罪の悔い改めを迫っていたバプテスマのヨハネを殺しました。
しかし彼は、自分のプライドを守るため、成り行き上でヨハネを殺しました。そのことが常にヘロデの心を責めています。
小さいとはいえ、一国の王である自分が、その優柔不断さのゆえに流されていく現実に対して彼は彼なりに嘆いていました。
「ひどく当惑していた」ということばは、彼の中にあったそんな不安を物語っています。彼はイエスに会ってみようとも思いました。
もしそれが口先のものではなく、自分からイエスに会いに行くために立ち上がるほどの求道心であれば、彼の人生は変わっていたでしょう。
しかし彼は自分からは動きませんでした。自分からイエスに会いに動くためには、王としてのプライドを捨てる必要があったからです。
そして彼の人生は最後まで変わりませんでした。
まわりに流され続けた彼は、最後には身内に欺かれてローマ皇帝への反逆者として処罰され、遠い流刑地で寂しく死んでいったのです。

 現代に生きる、数え切れない人々が、ヘロデと同じ道を歩んでいます。
自分が不安を抱えていることを感じている。その不安は、いま自分が持っているものでは解消できないことも知っている。
しかし自分がその不安から解き放たれるために救い主を求めることは、おのれのプライドが許さず、他人の目も気になる。
イエス・キリストは、私たち一人ひとりにこう問いかけます。「あなたは、わたしをだれだと言いますか」と。
答えはたくさんあるように見えて、じつは二者選択しかありません。救い主か、そうでないかです。
私たちが人々の前で、イエスは救い主であると認めるならば、イエス・キリストも私たちを救われるべき者として認めてくださいます。
しかし私たちが、イエスを救い主として公に言い表さないのであれば、キリストも私たちを知らないと言うでしょう。
あなたは、イエスを人々に何と言いますか。人々の前で、この方を私の救い主と告白することは勇気がいることです。
しかし恐れてはなりません。イエスは、私の救い主です、と大胆に告白する人は、必ずそれにふさわしい恵みを受け取ります。

続きを読む
posted by 近 at 01:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.9.15「祈りの両輪」(ルカ9:10-17)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
このたびの台風15号で被災した方々、また停電の中で不便な生活を強いられている方々が励まされますように。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章10-17節


1.
 新約聖書の中で、「使徒」という言葉は約100回出て来ますが、福音書の中にはほとんど出てきません。
しかしそのわずかな、「使徒」という特別な表現が出てくる場面、それは弟子たちがとりわけ大切な訓練を受けている出来事を意味しています。
今日の聖書箇所の冒頭、10節では、まずこのように述べられます。
「さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。」
 これより前、弟子たちは、イエス様から力と権威を与えられて伝道旅行に遣わされていました。
華々しい報告を持ち帰った弟子たちですが、どの福音書でも、このあとイエス様は彼らを寂しいところへ行かせて休ませたと書かれています。
これがその、大切な訓練という意味です。使徒たちは、神の大きな働きに加わったあとだからこそ、本気で休む必要があったのです。
クリスチャンは聖霊の力に満ちているから疲れることはない、と言いたいところですが、聖書全体を読むと、そうは教えていません。
神様の働きに携わるからこそ、よく休まなければならない。休むのにも信仰が必要とされます。
イエス様でさえそうでした。自ら選び取って、朝早くから起きて、寂しい所で父なる神と向き合い、交わりの時を持っておられました。
 宗教改革の中心人物であったドイツのマルティン・ルターは、忙しいときにこそ、よく祈った人だったと言われています。
この場合の「祈る」というのは、完全に手を休めて、密室で神様に向き合って祈ったということです。
それは課題や願いを挙げていく祈りではなく、幼子が親に何でも語りかけるような、まさに魂の休息としての祈りの時でした。
 私たちは大きく分けて二種類の祈りの時を持っています。一つは、抱えている課題や願いを神様に訴えていくこと、
そしてもう一つは、何も願わず、ひたすら神様と心の中で語り合い、魂を休ませるものです。
この二種類の祈りの時は、車の両輪のようなもので、どちらかが欠けてもアンバランスな信仰になります。
ただ、私たちはもっぱら祈りを、願うことばかりに用いやすいことは確かです。
そして祈りが仕事のひとつのようになってしまい、人によっては祈ることが苦手になってしまいます。
しかしただ神様に現状を打ち明け、幼子が母親に言葉を聞いてもらうような、もうひとつの祈りの時、これは仕事ではなく、真の休息です。

続きを読む
posted by 近 at 16:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

みやま市長の文書について思うこと(2019.9.13)

 久しぶりの「牧会卓話」のカテゴリーへの投稿である。(このカテゴリーの投稿では、なぜか「で・ある調」になるがご容赦いただきたい)

 本日のヤフーニュースにて、西日本新聞からの配信として、以下のような記事が紹介されていた。

みやま市.png

 福岡県みやま市の松嶋盛人市長が、先祖の悪行は子孫の精神・身体障害、犯罪者の有無などに影響するとする文書を作成し、職員研修で配布していたことが分かった。12日の市議会一般質問で「差別と偏見に基づく表現だ」との批判を受け「そう捉えられるのは残念」と釈明。西日本新聞の取材に対し「道徳教育の大切さを訴えるつもりだったが、思慮が足りず反省している」と話した。識者は「優生思想につながる危険な考えだ」と指摘している。
 文書(A4判1枚)は「人間の『徳』について」と題し、8月26日の研修で講師役の松嶋市長が管理職22人に配布した。
 100年以上前の「アメリカの家系調査報告に残る記録」を挙げ、1720年にニューヨーク州で生まれた「怠惰な無頼漢」の家系は「6代を経る中で約1200人の怠け者、貧窮、精神や肉体を病む者、犯罪者の存在があった」「300人の嬰児(えいじ)が死亡、440人が病的な行為で肉体的に破滅、前科者は130人」などと記した。
 一方、同年代生まれの神学者の子孫は「65人が大学教授や学校長、100人以上が牧師や神学者」などとし、対比した子孫の一覧表も掲載した。これらはある月刊誌から引用し、一覧表は自ら作成したという。
 松嶋市長はこの比較から「一人の人間の『徳』の有無がいかに家族や子孫に大きな影響を及ぼすか」との自らの論考も載せた。取材に対し「差別の意図は全くなかった。『徳』の醸成の大切さを訴えたい一心だった」と話している。
 人権問題に詳しい西南女学院大の新谷恭明教授(教育学)は「成育環境などを無視した昔からある優生思想を基にした研究で、根拠はなく、これを持ち出すのは無知と言える。配布するのは軽率な行為だ」と指摘した。
 松嶋市長は元みやま市立中学校長で現在1期目。
 
(吉田賢治)


続きを読む
posted by 近 at 00:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 牧会卓話

2019.9.8「福音こそ人をいやす力」(ルカ9:1-6)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
このたびの台風15号で被災した方々、また停電の中で不便な生活を強いられている方々が励まされますように。
同盟教団に所属する教会の被災情報については、こちらをご覧ください。またお祈りください。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章1-6節


序.
 今から何百年も前の話ですが、あるお金持ちが、外国の商人からある大きな生きものを手に入れました。
ところがあまりにも大きすぎて、玄関に入らない。外につないで盗まれるのも困るので、いそいで倉のなかにその動物を入れておきました。
近所の人は、その珍しい生きものを見せてくださいと頼みましたが、金持ちは盗まれるのがいやで断り続けました。
そこで人々は塀越しに、倉の小さな窓からチラリと見える姿から、その生きものが何か想像したそうです。
ある人は、あれは大きな蛇だと言いました。おれが窓からみたら、灰色をした長い蛇がくねくね動いているのを見たぞ。
別の人が言いました。いやいや、確かに灰色をしていたが、あれは蛇なんかじゃなかった。翼をぱたぱた動かしているのがちらっと見えた。
さらにもう一人が言いました。いいや、あれは角のばかでかい牛だ。真っ白い、それは大きな角が、天に向かって突き出されていたぞ。
有名な話ですので、この生きものの正体が何かはおわかりでしょう。答えは象です。
蛇に見えたものは長い鼻、翼に見えたものはぱたぱた動く耳、そして角に見えたものは、大きく反り返った牙だったというわけです。
この話はある教訓を秘めています。それは、ひとつの同じものや出来事でも、人によって注目する点や受け取るものが違うということです。

1.
 今日の聖書箇所である、イエス様が12使徒を派遣するできごとは、マタイ、マルコ、ルカそれぞれの福音書に共通して記されています。
しかし先ほどの象の印象のように、福音書によって、強調されている点が異なります。
マルコの福音書から先に見てみると、そこでは、イエス様が伝道旅行に弟子たちを二人ずつ組にして派遣したことを強調しています。
マルコ自身は12使徒ではありませんでしたが、彼は後にペテロの通訳をしています。おそらくマルコはペテロから話を聞いたのでしょう。
ペテロは自分の兄弟であるアンデレとペアになって、遣わされたところでよい働きをしたのかもしれません。
マルコは、ペテロの通訳をする前に、いとこであるバルナバと、パウロの伝道旅行に助手としてついていった経験もしています。
コンビ伝道とでも言いましょうか、お互いの欠点を補い、長所を伸ばしていく、その伝道スタイルをマルコはとくに強調して記しているようです。
 では、マタイの福音書ではどうでしょうか。
マタイの場合、実際に派遣されたコンビのグループリストを挙げてはいますが、マルコほど二人組を強調してはいません。
代わりに彼が強調しているのは、イエス様が派遣前に語られた説教です。
マルコとルカが、派遣前の説教を注意書きのように数行しか語っていないのに対して、マタイはなんと2頁も費やして説教を記しています。
これは私の想像になってしまいますが、ペテロが兄弟のアンデレと組になって、気の合う兄弟と伝道を楽しんだのに対して、
マタイはパートナーとの信頼関係に不安をおぼえながら、頼るのはイエス様のおことばのみという思いで説教を心に刻んだのかもしれません。
ちなみにマタイの福音書では、マタイのパートナーはトマスになっています。ちょっと面倒くさい人だったのかも知れません。

続きを読む
posted by 近 at 23:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ