最近の記事

2012.4.29 「ザアカイが捨てたもの」

聖書箇所 ルカ19:1−10 <週報はこちら
 1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。 2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。 3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。 4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。 5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。 7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。 8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」 9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。 10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 一昨日、敬和学園大学から礼拝説教を頼まれて、新一年生200名の前で語ってきました。豊栄の教会に着任して以来、年一回のペースで説教しているのですが、私は敬和大での礼拝説教を楽しみにしています。200人を相手にするからでしょうか。まあ、気分は大牧師。でもちょっと違います。敬和大では、礼拝が終わった後に説教を聞いてどう思ったかというひとり一人の感想文を読むことができるのです。メモ用紙一枚の短いものですが、説教に対する感想なんて、教会でもめったに聞くことができません。もちろん200人分もあるとどんなに急いでも読むのに一時間はかかりますし、中には私にとってイタイ感想もあります。でもたとえ辛辣な批判であっても、読むとああ、説教をよく聞いてくれているんだなというのがわかるんですね。今回、特に嬉しい感想が二つありました。一つは「ぼくは敬和高校で近牧師の説教を聞いたことがある。名前は覚えていなかったが、話し方に特徴があるので思い出した」というもの。そしてもうひとつは、「私は近先生の中学の同級生です。とても懐かしかった」という感想文。ええっと思いました。事情はよくわかりませんが、きっと一念発起して大卒の資格を取ろうとしているのだと思います。とても嬉しいサプライズでありました。

 その日の説教は、やはりザアカイの物語から「敬和というコンプレックス」というタイトルで話しました。私は敬和学園大学の一期生です。余談ですが、教会員のM姉の娘さんも、同じく敬和大の一期生です。でもその頃、一期生の中には二種類の人々がいました。彼女や私のように、何もない敬和を盛り立てていこうとする学生たち。そして、まさに敬和なんかに入ってしまったというコンプレックスの中でもがいている学生たちの二種類です。彼らはよく言っていました。自分はこんなところに来たくなかった。何年か前の大河ドラマにも、同じようなセリフがありましたね。本当は自分は東京の大学に行けるはずだった、新潟大学に行けるはずだった、でもだめだった、だからすべり止めの敬和に仕方なく入ってきたんだ、こんな偏差値の低い大学を卒業して、いったいどんな就職先があるというのか、そんな後ろ向きな発言を大声でしている人たちもいました。

 でももしかしたら、それが人間の真実な姿に近いのかもしれません。ザアカイは、まさにコンプレックスの塊でした。イエス様がザアカイの家に泊まると宣言されたとき、人々はあからさまに声をあげました。「あの方は罪人の家に行って食事をする」。所詮同じ穴のムジナか、と。それはザアカイが人々から嫌われていたからです。彼は、ローマ帝国の手先と言われていた取税人のリーダーでした。そして金持ちでした。なぜ金持ちでしたか。彼の最後の言葉からわかります。人々から、本来の税よりも多いものをだまし取っていたからです。なぜだまし取っていたのですか。金持ちになるためです。なぜ金持ちになりたかったのですか。背が低かった。誰も彼を気にしてくれなかった。誰も助けてくれない。誰も愛してくれない。俺なんて。俺なんて。そのコンプレックスの悪循環の中で、彼は金というプライドで自分を支えていたのです。

続きを読む
posted by 近 at 14:37 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.4.22「放送伝道の大切さ」

 「ライフ・ライン」は、クリスチャンによる放送伝道団体「太平洋放送協会(PBA)」が1989年に全国5放送局からスタートさせた、30分のテレビ番組です。新潟ではその9年後の1998年10月から、毎週土曜日朝5:30よりBSNにて放映が開始されました。ゴルフやテニスの国際大会の中継といった特別番組を除き、一度も放送を休むことなく続けられてきました。
 通常、テレビ番組はテレビ局が企画・製作し、その経費を番組スポンサー企業が支出します。そのため視聴率が低迷すれば番組は打ち切られます。しかし「ライフ・ライン」は、企業ではなく、各地の教会による協力団体(例えば新潟福音放送協力会。新潟を含め全国に30の団体がある)が献金により、放送局から電波を購入して放送しています。新潟だと年間800万円以上の経費が必要です。そのほとんどを会員教会の献金によってまかなっています。視聴率ではなく、祈りとそれに伴う献金が放送継続の生命線です。
 しかしなぜ私たちは月額70万円以上も出して『ライフライン』なる番組を放送し続けているのでしょうか。年間800万円という金額は、建て売りの中古住宅が買える金額です。実際に買ってそこを伝道所にするほうが有益じゃないのか。なぜここまで犠牲を払ってこの放送伝道を続けているのか。それは、まさに放送伝道こそ、毎年ひとつの教会を建設していくのに匹敵するくらいの働きであるからです。電波はあらゆる所へと届きます。教会のない町に住んでいる人に届きます。入院中の人にも届きます。引きこもっている人にも届きます。キリスト教に関心はあっても教会の敷居が高いと感じている人にも届きます。キリスト教について誤解と偏見を持っている人にも届きます。私たちが福音を届けることのできない、ありとあらゆる人に届きます。「ライフ・ライン」という番組は、私たちの代わりに、この新潟県240万人、80万世帯に福音を宣べ伝えてくれています。
 「ライフ・ライン」という番組は、全国に散らばるクリスチャンの生きざまを紹介します。信仰によって絶望から立ち直ったビジネスマン話、ホームレスから牧師へと召し出された牧師の話・・・・彼らの生き様に未信者も感銘を受けます。そして最後に、テレビ牧師の口から彼らはイエス・キリストという名前を聞くのです。闇の中を歩んでいた人たちが明るく変えられたのはなぜか。それは、イエス・キリストと出会ったからなのだ。そしてあなたにも、その道が用意されている。そのシンプルなメッセージが、毎週必ず語られるのです。人生の転機は、まずこのキリストという名を聞くことから始まります。「ライフ・ライン」という番組は、私たち教会の使命を、共に担ってくれているのです。
 現在、新潟福音放送協力会の協力教会は賛助を含めて38教会あります。教会員一人につき毎月500円という目標を掲げていますが、達成率は全教会の7割程度にとどまっています。3割の教会の意識啓発とともに、会員教会の新規開拓が求められています。それを支えるのは諸教会及びクリスチャン同士の教派を越えた、祈りの力です。
 今日、これから見るDVDは2009年10月に放送された、青森でのライフライン視聴者の集いです。メッセージをされる板倉邦雄牧師は、今年6月10日にこの新潟で行われる同じ視聴者の集いの講師でもあります。そしてなんとその日曜日、豊栄で礼拝メッセージをしてくださることになっています。今日は礼拝説教として、このDVDを見ていきたいと思います。そしてこれから2ヶ月、豊栄および新潟でのメッセージが祝福されますように、祈りをもって備えようではありませんか。

※今回のビデオは、説教ではなく礼拝全体を収録しております。

posted by 近 at 17:39 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.4.15「親が子どもにできること」

聖書箇所 マルコ10:13-16

13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

 去年応接室に飾ってあったカレンダーが今頃になって気になっています。カレンダーそのものではなく、そこにあった絵が気になっているのです。フリッツ・フォン・ウーデというドイツの画家が描いた「子どもたちを我に来させよ」というものです。もう一度見たくなったのですが、年が明けたら応接室から消えていました。でも見たい。そこでインターネットの出番です。見つかりました。週報の表紙に印刷してあるのがそれです。みなさんもご覧になってみて、ある違和感に気づかないでしょうか。子どもたちの顔がちっともうれしそうじゃないのです。作者のウーデが、今日の聖書の物語からこの絵を描いたのはタイトルからして明らかです。しかし私たちがこの聖書箇所から連想する子どもたちと、ここに描かれている姿はずいぶんとかけ離れているようにも思えます。イエス様は子どもたちが大好き。そして子どもたちもイエス様が大好き。そんなイメージとどうも違うのです。

19 FRITZ VON UHDE LASSET DIE KINDLEIN ZU MIR.jpg

 しかしイメージという言葉から、私は改めて気づきました。聖書は、子どもたちを愛してやまないイエス様を描いています。でも子供たちもまたイエス様を愛している・・・・もしかしたら、それこそが聖書以外からすり込まれた、勝手なイメージではないのか。こんな不遜なことを考えてしまった後ろめたさを感じながら、あえて聖書を調べてみました。このマルコ福音書10章、その並行箇所であるマタイの福音書19章、ルカの福音書18章。そして発見したのです。どの聖書でも、子どもたちのほうからイエスに近づいたとはいっさい書いていない。いずれにおいても、子供たちは「連れてこられた」とあるのです。喜んで連れてこられたのでしょうか。いやいやながらでしょうか。どんな表情ででしょうか。そこらへんが一番大事だと思うのですが、聖書はあえて沈黙しているのです。

続きを読む
posted by 近 at 19:27 | Comment(1) | 2012年のメッセージ

2012.4.8「我らが国籍、天にあり」

聖書箇所 ピリピ3:17-21
17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 キリスト教では、十字架で死んだイエス・キリストがよみがえった日をイースターと呼びます。キリストの復活は、クリスチャンもまた同じように復活するという希望であることから、イースターの日にはすでに天に召された人々を記念する日にもなっています。私たちの教会でも、午後には太夫浜霊園で佐藤敬子姉の納骨式を行い、また他4名の召天者をおぼえて礼拝をささげます。
 先週、今日の納骨式に備えて墓を見てきました。霊園に墓は数あれど、うちの墓ほどすばらしい墓はありませんね。親バカならぬ墓バカと言うのでしょうか。感動のあまり写真を撮り、週報の表紙に載せておいたほどです。さて、教会の目の前の道をひたすら北上していくと、競馬場インターを突きぬけて、20分もあれば太夫浜霊園に着きます。霊園のそばの交差点で信号待ちをしていたときに、ふと気づきました。交差点を右に曲がると敬和学園高校があり、緑色のチャペルが車の中からも見えます。そして交差点を左に曲がると、墓地への入口。そこでこんなことをふっと思ったのです。右に向かえば高校があり、そこでは若者たちがこれからの人生に希望をふくらませながら学んでいる。一方、左に向かえば墓地があり、数え切れないほどの墓に、死んでいった人々の人生が短く刻まれている。右と左、命と死、ここまで対立するものが近くに並んでいる光景に驚きました。それはまるで、右にいくか左に行くかで命と死が分かれてしまう、私たちの人生の象徴のように思えたのです。
 すべての人間は、人生の中で右か左かを選ぶ選択へと立たされます。進学や就職、結婚などはその例ですが、一番究極の選択は、いのちと死にかかわることです。聖書は言います。イエス・キリストを信じる者には永遠のいのちが与えられる、しかし彼を拒む者には永遠のさばきが待ち受けている、と。私は決して教会に来てくださった人々を脅かそうとしているのではありません。しかし、この墓誌に刻まれているひとり一人は、イエス・キリストを信じ、永遠のいのちの確信をもって天国へ凱旋していったのだということをおぼえてほしいのです。とくにご遺族の方々にとっては、あなたの知っている、その家族が選び取ったものから目をそむけないでほしいと思うのです。あなたの愛する人が、その人生をかけて選び取ったのがキリストなのだという事実を忘れないでほしいと願うのです。

続きを読む
posted by 近 at 13:50 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.4.1「十字架にある自由」

聖書箇所 マタイ27:27-46
45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 もう故人となられましたが、遠藤周作という作家がおられました。彼はカトリック信者でしたが、同じ作家仲間に、あまり知られていない名前ですが椎名麟三というクリスチャン作家がいました。今から二十年以上前、ある本の中で遠藤周作が椎名麟三についてこう語っているのを読んだことがあります。「自分はカトリックで、椎名はプロテスタントだったが、さすが椎名だと思わせられたことがあった。椎名が教会でバプテスマを受けたその日、あいつが電話でこう言ってきたんだ。「これでいつでも神をのろって死ぬことができる」と。その当時は、いったい椎名の言葉のどこらへんがさすがなのか、まったくわかりませんでした。「洗礼を受けたから、これでいつでも神をのろって死ぬことができる」。これは本当にクリスチャンの言葉なのか?この言葉の意味がわからないまま、しかし心のどこかにいつもこの言葉がひっかかりながら、私は信仰生活を歩んできました。
 思い返すと、10代、20代の時の信仰というのは一途なものです。「神をのろって死ぬ」など、信仰の敗北にしか思えませんでした。しかしさすがに40歳になると、そろそろ人生はそんな杓子定規にはいかないということがわかってきます。その中で改めて椎名の言葉を味わってみたとき、うまく説明できないのですが、じつはこの言葉に共感できる何かを感じているのも事実です。「神をのろって死ねる」。そこにはタブーがないのです。続きを読む
posted by 近 at 11:34 | Comment(0) | 2012年のメッセージ