1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。 2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。 3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。 4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。 5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。 7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。 8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」 9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。 10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
一昨日、敬和学園大学から礼拝説教を頼まれて、新一年生200名の前で語ってきました。豊栄の教会に着任して以来、年一回のペースで説教しているのですが、私は敬和大での礼拝説教を楽しみにしています。200人を相手にするからでしょうか。まあ、気分は大牧師。でもちょっと違います。敬和大では、礼拝が終わった後に説教を聞いてどう思ったかというひとり一人の感想文を読むことができるのです。メモ用紙一枚の短いものですが、説教に対する感想なんて、教会でもめったに聞くことができません。もちろん200人分もあるとどんなに急いでも読むのに一時間はかかりますし、中には私にとってイタイ感想もあります。でもたとえ辛辣な批判であっても、読むとああ、説教をよく聞いてくれているんだなというのがわかるんですね。今回、特に嬉しい感想が二つありました。一つは「ぼくは敬和高校で近牧師の説教を聞いたことがある。名前は覚えていなかったが、話し方に特徴があるので思い出した」というもの。そしてもうひとつは、「私は近先生の中学の同級生です。とても懐かしかった」という感想文。ええっと思いました。事情はよくわかりませんが、きっと一念発起して大卒の資格を取ろうとしているのだと思います。とても嬉しいサプライズでありました。
その日の説教は、やはりザアカイの物語から「敬和というコンプレックス」というタイトルで話しました。私は敬和学園大学の一期生です。余談ですが、教会員のM姉の娘さんも、同じく敬和大の一期生です。でもその頃、一期生の中には二種類の人々がいました。彼女や私のように、何もない敬和を盛り立てていこうとする学生たち。そして、まさに敬和なんかに入ってしまったというコンプレックスの中でもがいている学生たちの二種類です。彼らはよく言っていました。自分はこんなところに来たくなかった。何年か前の大河ドラマにも、同じようなセリフがありましたね。本当は自分は東京の大学に行けるはずだった、新潟大学に行けるはずだった、でもだめだった、だからすべり止めの敬和に仕方なく入ってきたんだ、こんな偏差値の低い大学を卒業して、いったいどんな就職先があるというのか、そんな後ろ向きな発言を大声でしている人たちもいました。
でももしかしたら、それが人間の真実な姿に近いのかもしれません。ザアカイは、まさにコンプレックスの塊でした。イエス様がザアカイの家に泊まると宣言されたとき、人々はあからさまに声をあげました。「あの方は罪人の家に行って食事をする」。所詮同じ穴のムジナか、と。それはザアカイが人々から嫌われていたからです。彼は、ローマ帝国の手先と言われていた取税人のリーダーでした。そして金持ちでした。なぜ金持ちでしたか。彼の最後の言葉からわかります。人々から、本来の税よりも多いものをだまし取っていたからです。なぜだまし取っていたのですか。金持ちになるためです。なぜ金持ちになりたかったのですか。背が低かった。誰も彼を気にしてくれなかった。誰も助けてくれない。誰も愛してくれない。俺なんて。俺なんて。そのコンプレックスの悪循環の中で、彼は金というプライドで自分を支えていたのです。
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