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2012.5.27「弱さをさらけ出す力」

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聖書箇所 使徒1:6-11
6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

 月一回、私たちの教会はカナンという老人福祉施設を慰問しています。先日の訪問で、私はメッセージに併せて、漁師に変装してみました。ゴムの長靴、防水エプロン、頭には手拭い、右手に釣竿、左手にバケツ。黒いビニールテープでつけひげもしてみました。会場の後ろでその準備をしながら、ふとまゆげはどうしようと思いました。まゆげにも黒いビニテを貼るべきであろうか。30年前にやったように。そのとき一瞬でしたが、そのころの思い出が走馬燈のように頭の中を走り抜けていきました。
 約30年前、私が小学6年生の時です。今は廃校になった小さな学校でしたが、「6年生を送る会」が卒業間際に開催されます。私たちは送られる方の側でしたが、その学校では卒業生も御礼として歌を歌うというのが決まりでした。当日、ステージの後ろで練習していると、メンバーの母親のひとりが、あなたたち、それじゃつまらないわよと、黒と赤のビニールテープを持ってきた。いやな予感がしました。彼女は赤のテープは日の丸のように私たちのほっぺに貼り付け、黒のテープは鼻の下に、さらにまゆげにも貼り付けてきた。後ではがすことを考えると、これは拷問です。担任の先生もただ見守るしかない中、私たちは泣きべそをかきながらステージに上がりました。その背後で件のお母さんはこう声をかけてきました。「人間、いざというときはバカにならなきゃダメ」。あれから30年、あのお母さんはどうしているでしょうか。じつは今も私の実家におります。あれだけいやがったのに30年前と同じことをしている私は、きっと母の血を強く受け継いでしまったにちがいありません。
 このことで母は、他の保護者からも後できつく言われたそうです。うちの息子の眉毛をどうしてくれる、と。私もなぜ母が、たかが子供の出し物にここまで一生懸命になるのか理解できませんでした。うろ覚えですが、母はその問にこう答えた気がします。「あんたたちがつまらなそうに練習してたから、楽しくしてやろうと思ったのよ」。母もPTAの一人として、学校の雰囲気を変えたかったのでしょう。そのやり方は自分の息子さえも一時敵に回しましたが、しかし今振り返ってみると、母はこれを通して私にあることを教えてくれました。世界を変えたければ、自分を変えなければならないということです。

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posted by 近 at 15:37 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.5.20 「人々が教会に求めるものは」

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聖書箇所 テトス1:1-4
1 神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ──私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。2 それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。3 神は、ご自分の定められた時に、このみことばを宣教によって明らかにされました。私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです──このパウロから、4 同じ信仰による真実のわが子テトスへ。父なる神および私たちの救い主なるキリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。

  「教会」と聞いて、人々が抱くイメージを何でしょうか。パイプオルガンの荘厳な音色、光輝くステンドグラス、片言の日本語でお話しする、青い眼をした宣教師。(ま、うちの教会にはそのどれもありませんが。)これらはあまりにもできすぎたイメージですが、しかし実際に若い頃、宣教師の英語クラスに参加したのが教会の初体験であったという人は多いようです。ある牧師が懐かしそうに語ってくださいました。戦後の何もない時代、宣教師の奥さんが焼いてくれた手作りクッキーのおいしかったこと!もう定年間近の大先輩であるひとりの牧師が、子どものように楽しそうに話してくれた姿は忘れられません。
 いつの時代でも、人々は教会にしかないものを求めて教会を訪れます。宣教師のクッキーや英語クラスは、それは戦後すぐの日本には、教会にしかなかったからです。今、この世の団体やカルチャー教室では受け取れず、教会にしか存在しないもの。それは何でしょうか。それこそが、人々を教会にひきつけるものとなり得るものです。それは、「人」ではないかと思っています。いわゆる「人間関係」ではなく、自立した個人としての「人」です。言い換えるならば、福音によって変えられ、人生観、価値観、あらゆるものがこの世と訣別を果たしている、自立したまことの人間。それが、今日教会しか人々に与えられないものです。私をここまで変えたのは福音の力なのですと胸を張って伝えて行く時代はいつやってくるのか。今日から始めることができます。私たちが福音の力をもう一度かみしめて、あなたも私のようになってくださいと言えるくらいに、みことばに裏打ちされた生き方に立ち戻るならば、そこには教会が生まれます。伝道とは、教会の建物に人々を呼び寄せることではなく、あなたの生き方に人々が共鳴し、自分もそうなりたいと思うことです。それは品行方正な信者になることではなく、常に神のあわれみにすがっている私たちであり続けるということです。福音に生きるとは、他の誰かではなくあなたがそのような者になること。それこそが、二千年間常に変わることのない、福音の本質です。パウロは言います。1節、「神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ──私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです」。

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posted by 近 at 10:14 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.5.6「今、この時から」

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聖書箇所 ヨハネ8:1-12
 1 イエスはオリーブ山に行かれた。 2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。 3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、 4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」 6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。 9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。 10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
 12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 先日、全国朝祷会のニュースレターに掲載された、あるクリスチャンの証しを聞きました。名前を弘さんと言うのですが、彼は10年前、ある容疑で警察に逮捕されました。容疑を概ね認めたものの、納得できないところがあり一部否認していたところ、刑事が20年以上音信不通だった母と妹を警察に呼び出し、彼の昔の悪事もすべて暴露したというのです。何も知らなかった家族は号泣していると、弘さんは留置場の署員から聞かされました。その刑事はこれで彼が家族への申し訳なさから変わるはずと考えたのでしょう。しかし弘さんの心に生まれたのは、何も知らない家族を巻き込んだ刑事への激しい憎しみだったそうです。
 罪という漢字は、四つに非と書きます。しかし漢字に詳しい方に聞くと、これは四でも非でもなく、四に見えるのは魚を捕る網、非は人間が真ん中から分裂している様子を表すそうです。つまり、見えない網に捕らえられ、人の心が真っ二つに割れている、それが罪。罪を犯す者は、罪とわからずに罪を犯します。罪を犯しても認めようとしなかった弘さんだけでなく、家族を用いて彼の心を追い詰めようとした刑事もまた、罪に気づいていなかったのです。しかし私にも彼らを責める資格はない。資格という意味では、誰も持っていない。罪を犯しながら、罪に気づかない。それがすべての人間の姿だと、聖書は私たちに語ります。このヨハネ8章に登場する者たちすべてが、イエス様を除き、罪人の醜態をさらけ出しています。姦淫の現場を捕らえられた女性、その姦淫の罪を鼻高々に訴える律法学者たち、あるいは無関係であるはずの群衆でさえ、すべての人々が罪とは無縁ではいられない姿が描かれています。

 さて、イエス様は地面に何の文字を書いていたのでしょうか。聖書は明らかにしていませんので、あくまでも推測になりますが、有力な説はこのようなものです。それは、律法学者たちが訴えた根拠である、「こういう女を石打ちにするように命じている」、そのモーセの言葉そのものを、イエス様は地面に書いておられたのだという説明です。それは旧約聖書のレビ記20章10節と、申命記22章22節に確かに書いてあります。申命記のほうを引用します。
「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。」
 それまで群衆にみことばを教えていたイエス様が、パリサイ人たちの告発を尻目に、沈黙して、地面に文字を書き始めました。いやが上にも人々の注目を引いたでしょう。そこにいたすべての者が、首を伸ばしてイエス様の書かれた文字を見つめていたはずです。なぜ、イエス様は律法の言葉をあえて地面に書かれたのか。この説を支持する学者は、こう言います。それは、神のことばを人を陥れるために利用する者たちへの怒り、憤りのゆえである、と。パリサイ人たちは、この女性を姦淫の罪で引きずってきました。しかし律法は、姦淫のさばきはそれを犯した男女が共同して背負う罪として定めているのです。しかし告発者たちは「姦淫の女」として片方しか連れてきません。なぜならイエスを告発するのに、片方だけいれば十分だからです。
 そこにイエスは憤られたのです。人の罪を悲しむどころか、人の罪を利用してイエスを告発しようとする、彼らの心に対してです。

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posted by 近 at 15:48 | Comment(0) | 2012年のメッセージ