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2012.7.29「苦しみの意味〜私が敬和で変わるまで〜」

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聖書箇所 詩篇119:70-72
119:70 彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。
119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。
 
 先日の新聞のコラムで、ある作家がいじめ問題に対してこう提言していた。「大人たちは、かつて自分がいじめられた経験を子供たちに語ってほしい。こうやって乗り切ったという美談ではなく、もがきにもがいた経験を、どのような形であっても話してほしい」。一方でこんな「大人たち」のコメントを聞くこともある。「昔は、今のようにひどいいじめはなかった。いじめっ子や不良はいたが、自殺に追い込むようなことはなかった」。でも、それは「なかった」のではなく、気づかなかったというだけではないのか。今日の聖書の言葉を借りるならば、「脂肪のように心が鈍感」で、自分のすぐそばで発せられているSOSに気づかなかったのではないか。だから今日は、自分に対する戒めをこめて、今まで語らなかったことを話そうと思う。それを美談にするつもりはない。自分の過去を見つめるのは正直言って痛い。だがそれをあえて行うのは、まさにこのみことばが真であることを伝えるためだ。「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました」。

 中学生の頃に私が受けていたのは、いじめというよりは嫌がらせと言ったほうがよいだろう。クラス全員から受けていたわけではない。ある時クラスの一人の女子生徒からこう言われたことがあった。「近って人、そこをどいて」。小学校ではそんな呼びかたをされたことがなかったので、一瞬何を言っているのかわからなった。その女子生徒からは、その後も嫌がらせを受けたことはなかったが、この「近って人」という表現が、私がクラスでどの程度の存在なのかを表していた。しばらくして、授業時間であっても公然といやがらせを受けるようになった。100円ライターの発火装置(下の燃料タンクを取り除いた、電流回路とスイッチ)を授業中に突然後ろから首筋にやられることもしょっちゅうあった。 忘れられない出来事がある。国語の授業で、その場に立って教科書を朗読することがあった。自分の番が終わり、すわるときにお尻に痛みが走った。画鋲がいくつか椅子にばらまかれていた。でも私はそこでそのまま座った。叫んだら負けだと思った。そこで叫べば、いじめられていることも教師に伝わっただろう。だが騒いだら、あえて汚い言葉で言おう、こんなやつらに尻尾を見せることになる、と思った。
 私の心に大きな傷を与えたのは、むしろその後の出来事だ。教師は私の行動の不審さに気づいたのだろう。「近、立ってみろ」と言った。しかし私は立たなかった。すると彼は首をかしげてそのまま授業を続けた。彼が、私が受けていた嫌がらせに気づいていたかどうかはわからない。しかしそれ以来、私は教師という人間に激しい不信感を抱くようになった。

 ここまでの話で、私が学校に行きたくないほど追いつめられていた姿を想像するかもしれない。しかし実際にはそうでもなかった。こういう嫌がらせは毎日あったが、学校はそれなりに楽しかった。私がこんな嫌がらせを受けていることで、それでも私の側に立ってくれる友人は少なかった。でも少ない分、彼らとの友情を大切にしていた。だが中学二年の秋、私の人生を変える出来事が起きた。左膝の骨に癌(骨肉腫)が見つかったのだ。まず新発田病院で診察を受け、そこでは手におえないということで新大病院へと移された。最初は、手術して三ヶ月もすれば学校に戻れる、と言われた。しかし手術はうまくいかなかった。がんに感染した骨を切除してバイオセラミックスという人工骨を入れる手術だったが、当時はまだ手術法が確立しておらず、体が拒否反応を起こした。人工骨が細菌で腐り、膝が膿で膨れあがった。手術と点滴を繰り返す入院生活の中で、私の気力をつないでいたのは、この苦しみに耐えていけば学校に戻れるということだった。嫌がらせを受けてはいたが、それでも学校には親友と呼べる存在が何人かいた。彼らにまた会いたい。
 だが、三ヶ月のはずの入院生活が一年以上過ぎた頃、主治医からこう宣告された。「近くん、もう足を切断するしかないようだ。だが大きな決断になる。ご両親とよく相談してください」。その時、私はこう言った。「切ります。切ってください」。どんな体になっても、学校に戻りたい。それだけだった。そして一週間後、左足の大部分を切断する手術を行い、そして手術は成功に終わった。しかし成功とは、私から永遠に生身の左足が切り離されたことを意味する。病室で麻酔が切れた時、初めて涙が流れてきた。ようやく自分がなんと愚かな決断をしてしまったことを悟った。なぜこんな体になってしまったのか。病院のせいか。親のせいか。いや、親も医者も、よく考えるようにと俺を止めた。ならば、俺のせいか。だが、俺のどこが悪かったのか。俺はただ、学校に戻りたかっただけなのに。もう一度みんなに会いたかっただけなんだ。その時に、その「みんな」が頭に思い浮かんだ。自分を「近って人」と呼んだ女子生徒。ライターや画鋲で嫌がらせをした男子生徒。問題に気づこうとしない、あるいは気づきながら関わろうとしない教師。そして、最後に何人かの顔が浮かんできた。一年以上も病院で苦しんでいるのに、一度しか見舞いに来なかった親友。本当に親友なのか?その時に、自分の中で何かの糸が切れた。どうして俺は、こんな生活に戻るために、足を切ったのか。友情?くだらない。忍耐?ばかばかしい。もう自分さえも信じない。何も信じない。その夜、私は自分が何年も抱え続けた闇に、自分自身が取り込まれた。


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posted by 近 at 21:14 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.7.22「ベテスダで出会った日から」

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聖書箇所 ヨハネの福音書5:2-9a
5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。 5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。 5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。 5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」 5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」 5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
 
 ある地方都市の中学校で起きたいじめ事件について、連日テレビや新聞で報道されています。インターネットでは、いじめグループの生徒たちの顔写真さえも流布しています。一人の少年がいじめを苦に自殺をしました。それは悲しいことです。しかしそれに義憤を感じているように見せかけて、じつのところ「祭り」にしている人々の姿のほうをむしろ悲しく思います。
 聖書はこのような現実に対して、何を語っているのでしょうか。ベテスダの池でのできごとは、二千年前のユダヤで起こったことで、現代とは多くの違いがある、しかし本質的には同じです。一人ひとりの命が軽く見られている世界です。誰からも顧みられることなく、池のほとりに力なく座り続ける38年間に象徴される、悲しい世界です。その延長線上にあらゆる人間はもがき続けています。しかしイエス・キリストとの出会いによって、すべてが変わるのです。今日はそのことに目を留めていきましょう。

 3節をご覧ください。「その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた」。なぜそんなにたくさんの人々がこの池の回りに集まっていたのか。それは聖書の欄外説明文にある4節の言葉によれば、天使が時々この池に降りてきて水を動かしたとき、その後で最初に入った者はどんな病気でもいやされる、そういう噂があるからでした。これが本当のことなのか、それともただの言い伝えに過ぎなかったのかは、今となってはわかりません。しかし人々はわらをもつかむ思いでこの池に運ばれてきました。そして、伏せっていた、とあるように普段は死んだようにじっとしている。そして時たま、水面が動く。ある者は水面めざしてのろのろとはいまわっていく。ある者は身内の者に担がれていく。病人、目の見えない人、足が動かない人、やせ衰えた人、そういった人々が一斉にまわりを押しのけながら水面へ向かっていく。いやしの特権を受け取る者は唯一人だけ。それはまさに、私たち自身が生きているこの世界の姿そのものではないでしょうか。
 時代や環境のせいではない、私たちは常に何かに追い立てられ、他人を傷つけ、自分を傷つけながら歩んでいる。自分さえ助かれば、自分さえよければという思いにとらわれている。それはなぜか。聖書ではそれを「すべての人が罪人であるゆえ」と説明しています。あらゆる人間が、罪人として生まれてくる。そして罪の中を、やがてくるさばきの日に向かって歩み続ける。自分さえよければという思いを持っていることすら、気づかない。その意味で、このベテスダの池の光景は、心の病人である私たちの人生そのものを描いているのです。

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2012.7.15「働く信仰 〜神の“みわざ”が私の内に!〜」田中敬子神学生

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聖書箇所 ヤコブの手紙2:14-26
14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
20 ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。
22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、
23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
25 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。
26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。


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2012.7.8「祈りによらなければ」

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聖書箇所 ヤコブの手紙5:13-20
5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。 5:14 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。 5:15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。 5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。 5:17 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。 5:18 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。
 5:19 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、 5:20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。
 
 『ヤコブの手紙』のこの箇所ほど、「祈り」の大切さを強調しているところは、聖書にありません。新約聖書の他の手紙は、最後に祝福やあいさつで終わっているものがほとんどですが、ヤコブの手紙にはそれもありません。代わりにあるのは、祈りの連呼です。13節から最後の20節まで、「祈り」という言葉が7回も繰り返されています。苦しんでいる者は祈れ。病気の者は祈ってもらえ。いやされるために祈れ。ヤコブは、エリヤの奇跡を持出しながら、じつはそれは奇跡ではなく祈りの力なのだと言い切っています。「彼は私たちと同じような人でしたが」という言葉がそれを示しています。祈りは世界を変える力。そしてあなたがたは、今それを手にしている。そんな呼びかけが聞こえてきはしないでしょうか。

 そして、まるで遺言のようにヤコブは最後の最後にこう書き残します。19節、「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい」。
 主イエスの弟にしてエルサレム教会の指導者ヤコブは、この最後の言葉にキリストの姿を重ねています。一匹の羊が迷い出たならば、99匹の羊をそこに残して失われた者を探し回る、永遠の大牧者の姿を。あなたがたの中に信仰から離れてしまった者がいる。彼らを連れ戻さなければならない。そのためにあなたがたには祈りが与えられているのだ。ヤコブは祝祷やあいさつに費やすインクさえ惜しいとばかりに、読者に懇願します。迷った人々を連れ戻すのはあなたがたの祈りなのだ。祈りによるしかないのだ。祈りなくして、だれ一人として連れ戻すことはできないのだ。聖霊がヤコブの唇を通して叫ばれている、そのうめきを私たちは決して聞き逃してはなりません。

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2012.7.1「心が剥がされる礼拝」

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聖書箇所 ルカの福音書10:38-42
38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
 
 以前、ある教会員の方の葬式を行うときに、婦人会の姉妹たちが「私たちは今回、騒ぎ方に徹します」と言われたことがありました。「騒ぎ方」というから、歌や踊りで盛り上げる係のことだろうかと思ったら、実際には逆で、裏方に回って人目につかない奉仕をすることを騒ぎ方というそうです。日本語って難しいですね。そして騒ぎ方に徹することを美徳とする新潟の女性にしてみれば、今日の物語は納得のいかないものであるかもしれません。騒ぎ方としてかいがいしく動き回っていたマルタがいさめられているからです。
 しかし、決してイエス様が一方的にマルタをいさめているわけではないことに注意しましょう。イエス様は彼女の名前を二回も呼びかけます。そしてこう言われます。「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」。

 たった一つだけの、「どうしても必要なこと」とは何でしょうか。それは「礼拝」です。マルタは、王を我が家にお迎えしました。王にふさわしい食卓を用意しようと懸命だったでしょう。誠心誠意、仕えることが王を喜ばせることだと信じて疑わなかったでしょう。しかしイエスは別の箇所でこう言われます。人の子は仕えられるためにではなく、仕えるために来たのだ、と。仕えるとは、十字架でいのちを捨て、自分のいのちを人々に与えることを指します。礼拝とは、そのイエスの痛みを知りながら、神のことばを心に刻みつけていくこと。まさに、マリヤは礼拝という、「良いほうを」選んだのです。

 私たちもマルタのように忙しい生活を送っているでしょう。ある意味、婦人たちのかいがいしい奉仕によって、日本の教会は支えられていると言っても過言ではありません。あるいは家庭でも、職場でもそうです。数え切れないほどのマルタたち、信仰をもって騒ぎ方に徹している女性たちの労苦をおぼえます。今日の箇所をよく読むと、あの「よきサマリヤ人のたとえ」の直後に記されています。これは、マルタの行動が決してサマリヤ人の愛の奉仕から遠く離れていないことをほのめかしています。しかし、愛の奉仕を生み出すためにはまず礼拝が必要です。キングスガーデンというキリスト教の老人福祉施設では、まず職員は一日を礼拝から始めます。礼拝によってまず自分のたましいを静めなければ、仕事の忙しさに耐えられないのです。礼拝は、世から逃げる場ではなく、世に向かうための発射台です。イエス様はマルタの奉仕も、その動機となった愛や喜びもご存じです。しかしだからこそ、まず今必要なたったひとつのこと  「礼拝」へと招いておられるのです。

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posted by 近 at 17:17 | Comment(0) | 2012年のメッセージ