聖書箇所 詩篇119:70-72
119:70 彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。
119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。
先日の新聞のコラムで、ある作家がいじめ問題に対してこう提言していた。「大人たちは、かつて自分がいじめられた経験を子供たちに語ってほしい。こうやって乗り切ったという美談ではなく、もがきにもがいた経験を、どのような形であっても話してほしい」。一方でこんな「大人たち」のコメントを聞くこともある。「昔は、今のようにひどいいじめはなかった。いじめっ子や不良はいたが、自殺に追い込むようなことはなかった」。でも、それは「なかった」のではなく、気づかなかったというだけではないのか。今日の聖書の言葉を借りるならば、「脂肪のように心が鈍感」で、自分のすぐそばで発せられているSOSに気づかなかったのではないか。だから今日は、自分に対する戒めをこめて、今まで語らなかったことを話そうと思う。それを美談にするつもりはない。自分の過去を見つめるのは正直言って痛い。だがそれをあえて行うのは、まさにこのみことばが真であることを伝えるためだ。「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました」。
中学生の頃に私が受けていたのは、いじめというよりは嫌がらせと言ったほうがよいだろう。クラス全員から受けていたわけではない。ある時クラスの一人の女子生徒からこう言われたことがあった。「近って人、そこをどいて」。小学校ではそんな呼びかたをされたことがなかったので、一瞬何を言っているのかわからなった。その女子生徒からは、その後も嫌がらせを受けたことはなかったが、この「近って人」という表現が、私がクラスでどの程度の存在なのかを表していた。しばらくして、授業時間であっても公然といやがらせを受けるようになった。100円ライターの発火装置(下の燃料タンクを取り除いた、電流回路とスイッチ)を授業中に突然後ろから首筋にやられることもしょっちゅうあった。 忘れられない出来事がある。国語の授業で、その場に立って教科書を朗読することがあった。自分の番が終わり、すわるときにお尻に痛みが走った。画鋲がいくつか椅子にばらまかれていた。でも私はそこでそのまま座った。叫んだら負けだと思った。そこで叫べば、いじめられていることも教師に伝わっただろう。だが騒いだら、あえて汚い言葉で言おう、こんなやつらに尻尾を見せることになる、と思った。
私の心に大きな傷を与えたのは、むしろその後の出来事だ。教師は私の行動の不審さに気づいたのだろう。「近、立ってみろ」と言った。しかし私は立たなかった。すると彼は首をかしげてそのまま授業を続けた。彼が、私が受けていた嫌がらせに気づいていたかどうかはわからない。しかしそれ以来、私は教師という人間に激しい不信感を抱くようになった。
ここまでの話で、私が学校に行きたくないほど追いつめられていた姿を想像するかもしれない。しかし実際にはそうでもなかった。こういう嫌がらせは毎日あったが、学校はそれなりに楽しかった。私がこんな嫌がらせを受けていることで、それでも私の側に立ってくれる友人は少なかった。でも少ない分、彼らとの友情を大切にしていた。だが中学二年の秋、私の人生を変える出来事が起きた。左膝の骨に癌(骨肉腫)が見つかったのだ。まず新発田病院で診察を受け、そこでは手におえないということで新大病院へと移された。最初は、手術して三ヶ月もすれば学校に戻れる、と言われた。しかし手術はうまくいかなかった。がんに感染した骨を切除してバイオセラミックスという人工骨を入れる手術だったが、当時はまだ手術法が確立しておらず、体が拒否反応を起こした。人工骨が細菌で腐り、膝が膿で膨れあがった。手術と点滴を繰り返す入院生活の中で、私の気力をつないでいたのは、この苦しみに耐えていけば学校に戻れるということだった。嫌がらせを受けてはいたが、それでも学校には親友と呼べる存在が何人かいた。彼らにまた会いたい。
だが、三ヶ月のはずの入院生活が一年以上過ぎた頃、主治医からこう宣告された。「近くん、もう足を切断するしかないようだ。だが大きな決断になる。ご両親とよく相談してください」。その時、私はこう言った。「切ります。切ってください」。どんな体になっても、学校に戻りたい。それだけだった。そして一週間後、左足の大部分を切断する手術を行い、そして手術は成功に終わった。しかし成功とは、私から永遠に生身の左足が切り離されたことを意味する。病室で麻酔が切れた時、初めて涙が流れてきた。ようやく自分がなんと愚かな決断をしてしまったことを悟った。なぜこんな体になってしまったのか。病院のせいか。親のせいか。いや、親も医者も、よく考えるようにと俺を止めた。ならば、俺のせいか。だが、俺のどこが悪かったのか。俺はただ、学校に戻りたかっただけなのに。もう一度みんなに会いたかっただけなんだ。その時に、その「みんな」が頭に思い浮かんだ。自分を「近って人」と呼んだ女子生徒。ライターや画鋲で嫌がらせをした男子生徒。問題に気づこうとしない、あるいは気づきながら関わろうとしない教師。そして、最後に何人かの顔が浮かんできた。一年以上も病院で苦しんでいるのに、一度しか見舞いに来なかった親友。本当に親友なのか?その時に、自分の中で何かの糸が切れた。どうして俺は、こんな生活に戻るために、足を切ったのか。友情?くだらない。忍耐?ばかばかしい。もう自分さえも信じない。何も信じない。その夜、私は自分が何年も抱え続けた闇に、自分自身が取り込まれた。
続きを読む