最近の記事

2012.7.1「心が剥がされる礼拝」

<当日の週報はこちら

聖書箇所 ルカの福音書10:38-42
38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
 
 以前、ある教会員の方の葬式を行うときに、婦人会の姉妹たちが「私たちは今回、騒ぎ方に徹します」と言われたことがありました。「騒ぎ方」というから、歌や踊りで盛り上げる係のことだろうかと思ったら、実際には逆で、裏方に回って人目につかない奉仕をすることを騒ぎ方というそうです。日本語って難しいですね。そして騒ぎ方に徹することを美徳とする新潟の女性にしてみれば、今日の物語は納得のいかないものであるかもしれません。騒ぎ方としてかいがいしく動き回っていたマルタがいさめられているからです。
 しかし、決してイエス様が一方的にマルタをいさめているわけではないことに注意しましょう。イエス様は彼女の名前を二回も呼びかけます。そしてこう言われます。「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」。

 たった一つだけの、「どうしても必要なこと」とは何でしょうか。それは「礼拝」です。マルタは、王を我が家にお迎えしました。王にふさわしい食卓を用意しようと懸命だったでしょう。誠心誠意、仕えることが王を喜ばせることだと信じて疑わなかったでしょう。しかしイエスは別の箇所でこう言われます。人の子は仕えられるためにではなく、仕えるために来たのだ、と。仕えるとは、十字架でいのちを捨て、自分のいのちを人々に与えることを指します。礼拝とは、そのイエスの痛みを知りながら、神のことばを心に刻みつけていくこと。まさに、マリヤは礼拝という、「良いほうを」選んだのです。

 私たちもマルタのように忙しい生活を送っているでしょう。ある意味、婦人たちのかいがいしい奉仕によって、日本の教会は支えられていると言っても過言ではありません。あるいは家庭でも、職場でもそうです。数え切れないほどのマルタたち、信仰をもって騒ぎ方に徹している女性たちの労苦をおぼえます。今日の箇所をよく読むと、あの「よきサマリヤ人のたとえ」の直後に記されています。これは、マルタの行動が決してサマリヤ人の愛の奉仕から遠く離れていないことをほのめかしています。しかし、愛の奉仕を生み出すためにはまず礼拝が必要です。キングスガーデンというキリスト教の老人福祉施設では、まず職員は一日を礼拝から始めます。礼拝によってまず自分のたましいを静めなければ、仕事の忙しさに耐えられないのです。礼拝は、世から逃げる場ではなく、世に向かうための発射台です。イエス様はマルタの奉仕も、その動機となった愛や喜びもご存じです。しかしだからこそ、まず今必要なたったひとつのこと  「礼拝」へと招いておられるのです。

続きを読む
posted by 近 at 17:17 | Comment(0) | 2012年のメッセージ