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2012.8.26「ひとりのために」

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聖書箇所 マルコの福音書5:1-20
 1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われたからである。9 それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。11 ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」13 イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。14 豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。15 そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。16 見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。17 すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。18 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

 小学生の頃、「エクソシスト」という映画をテレビで見たことがあります。ある少女が悪魔に取り憑かれてしまい、エクソシストと呼ばれる男性が呼ばれます。パジャマを着た少女が宙に浮かんで、首が人形のように360度ぐるぐる回る光景は、当時の小学生にはそれは恐ろしいものでした。その恐ろしい少女に、黒い服を着た男性が十字架を握りしめて近づいていきます。隣で見ていた父に聞きました。「お父さん、あの人は何?」「ああ、あれがエクソシストだよ」「エクソシストって何?」父はちょっと間を置いてこう答えました。「まあ、牧師とか神父のことだな」。たぶん父も、生の牧師や神父を見たことがなかったのだと思います。しかしおかげで、敬和に入るまでは、私は「牧師=悪魔祓い師」だと思い込んでいました。

 今日の聖書にも、汚れた霊につかれた人が登場します。しかしハリウッド映画のように、宙に浮かんだり、360度首が回転したりはしません。はるかに現実的な姿で、そして人間としての尊厳がそこなわれた姿で、彼は登場します。この人は墓場に住み着いていました。鎖の端をじゃらじゃらと地面に引きずりながら、昼も夜も墓場で叫び続け、さらに自分のからだも傷つけていました。この汚れた霊は、自らの名をレギオンと呼びます。レギオンとはローマ帝国の軍団用語で、6000人からなる大隊を意味します。その6000の内なる声がひとりの人の人格の中にひしめき合っていたのです。他人への怨み、憎しみ、責任転嫁、劣等感の数々が彼の中にこだまし続けます。お前はダメだ、お前はダメだ、破壊せよ、殺せ、そのような声が常に心の中に聞こえ続ける。そのような人はどうなるでしょうか。人格が崩壊し、精神が分裂を引き起こします。自分の体、心、ありとあらゆるものを否定し、憎み、破壊衝動に苛まされます。それが、今墓場から出て来たひとりの人の姿です。

 しかしそんなひとりの人の姿を見ても、私たちはこうつぶやくでしょう。なるほど、確かに悲惨な話だ。だが私に関係があるとは到底思えない。しかし今日の聖書箇所の中心はこの悪霊が私に関係あるかないかではありません。そのような悪霊でさえ、イエスが神の子であることを知っており、震えながらひれ伏したということです。それでも私たちは、自分には関係ないと言えるでしょうか。確かに一般人としての生活を送り、家庭でも社会でも自分の居場所を持っているように見える。しかし「無知」という一点では悪霊以下です。本当の自分の心を知らない。自分の心の中を見つめようとしない。おぞましさに蓋をして、何食わぬ顔をして生きている。しかし一皮むけば、私たちの心は妬み、悪意、憎しみ、虚栄に満ちている。そこから解放されることを願いもしない。聖書は罪の報酬は死であり、その死は永遠の死であると警告しています。この悪霊につかれた人が墓場から出て来たというのは、じつはこの人の人生が死からいのちへと移っていくはじまりであることを暗示しています。もし私たちが、聖書の言葉を今読みながらそれを心に受け入れることなくまた閉じてしまうならば、私たちは墓場から動こうとしないということです。

 キリストは何のためにこのゲラサ人の地にやってきたのでしょうか。この汚れた霊にとりつかれた、ひとりの人を解放するためです。私たちはなぜこの礼拝に集められているのでしょうか。自分の心の罪を見つめ、そこから救い出されるためです。世は、このお方が与えてくださる救いのすばらしさを知りません。罪の支配からキリストの支配へと移ることが、どれだけの平安と喜びをもたらすのか、知ろうともしません。人々を罪にとどめ続けている悪霊は、人々が考え出したストレス解消法やカウンセリングをあざ笑っています。そりゃ少しは効果があるかもしれないが、結局は俺の支配から逃れることはできないぜとたかをくくっています。しかしその悪霊たちが、イエス・キリストの前には青ざめ、身震いします。遠くから走り寄り、主を拝み倒すほどの卑屈さでキリストの前に懇願するのです。なぜでしょうか。彼らは知っているからです。キリストが彼らを滅ぼすことのできる唯一の方であることを。そしてキリストは言葉だけで、一瞬でそれがおできになる方であることを。ゲラサ人の地を支配していた悪霊は、恐怖にかられつつ、さばき主の名前を叫びました。「いと高き神の子、イエスさま」と。彼ら悪霊にとっては、イエスの名は自分を滅ぼす者です。だから彼らは恐怖しかおぼえません。しかしすべての人間にとって、イエスの名は自分を救う者です。あなたにとって、イエス・キリストをどのように受けとめるかは、あなたの人生のすべてよりも大切なことがらです。あらゆる問題からの解放が、ただこのイエス・キリストの御名にあるのです。

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posted by 近 at 07:58 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.8.19「言葉が言葉となるために」

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聖書箇所 ヨハネの福音書9:1-7
 1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 中学生の頃、二年間ほど入院していましたが、こんな経験をしました。入院病棟の廊下で、可愛らしい子どもの声が聞こえました。おそらく家族の見舞いに来たのでしょう。声の調子から、ちょうど今の賛美さんくらいの年齢だったと思います。病院は回診も終わった午後過ぎで、見舞客も少なく、しんと静まり返っていました。その子の声が病室にまではっきりと聞こえました。そしてその子は無邪気に、お母さんにこう聞いていました。「こんなにたくさん、どうしてここに入っているの?何か悪いことでもしたの?」刑務所じゃないんだよ、と笑って済ませる程度のたわいない言葉です。しかし次の瞬間、遠くの病室から怒鳴り声が聞こえました。「何だと!もう一回言ってみろ!」続けてお母さんらしき声が短く「しっ!」と叫んでぱたぱたと走り去っていく足音が聞こえました。

 今日の聖書箇所を読み返すたびに、この時の経験を思い出します。「大人げない」と一言で済ますのは簡単です。しかし入院患者の中には、何気ない一言にここまで過剰に反応するほど不安に苛まされている人もいるのです。そしてあの日の幼子よりもはるかに残酷な言葉を弟子たちは口にしています。「先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。しかしこの生まれつき目の見えない人は、決して声を荒げません。まるで目の前で起きていることが何も聞こえないかのように、この人の姿は自分を出そうとしません。聞こえていないはずがないのです。目の見えない人が生きていくためには、ほかの感覚を研ぎ澄ませていくしかないからです。でも彼は弟子たちの言葉にまったく反応しない。息を殺すという表現がありますが、彼は息ではなく心を殺していたのです。外の世界で誰が何を言おうとも、決して反応しないほど、心そのものを殺していました。生まれたときから社会でじゃま者扱いされてきた人生。ただ道ばたで物乞いをするしかなかった人生。彼がその屈辱と絶望を抑えるためにどのように生きてきたか想像がつきます。生きるために耳をそばだてつつ、心はふさぐのです。自分の感情をすべて殺す。外の世界への関心もすべて殺す。そうすることで彼はようやく生きていたのです。

 目の前の病人の心を考えない弟子たちと、心を殺していた病人。そのただ中でイエスは言われました。3節、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」。ここでも私は、あの日の親子を思い出します。彼らは「しーっ」と人指し指を口に当てて、その場を逃げ去っていきました。しかしイエス様は逃げません。逃げる代わりに宣言します。「神のわざがこの人に現れるためです」と。私たちが逃げるのは、答えを持っていないからです。しかしイエス様は持っておられる。「すみません」「失礼しました」そのような謝罪の言葉で終わらせる方ではなく、現実を変えることのできる、人生の答えを持っておられます。
 しかし弟子たちのひどい言葉にさえ心を動かさないほど、心を殺している人にどんな言葉が届くでしょうか。だからイエス様の口から出て来たのは言葉ではなく、唾でした。なめらかな慰めの言葉ではなく、ねばねばした唾をイエス様は地面に落としました。何のために?土をこねるためです。泥を造り、それを彼のまぶたに塗ってあげるためです。イエスの言葉は、湖の嵐を静め、死人を生き返らせる力を持っています。しかし生まれつき目の見えない、この人はどんな言葉をも受け入れない。言葉の前に、その心を解き放つ必要がありました。

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posted by 近 at 18:47 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.8.12「本当の愛国心」

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聖書箇所 第一テモテ2:1-6
 1 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
 
 先週、韓国の李明博大統領が竹島を訪問しました。その政治的評価については、説教で語るべきことではないでしょう。ただその結果、彼は韓国の数多くのクリスチャンを失望させました。日本でにわか韓流ブームが起きる何十年も前から、韓国の教会は日本人を物心両面で支えてきてくれました。韓国人の多くが日本に対する敵意を捨てられない中で、韓国のクリスチャンたちは、自分たちから先に日本人を赦し、キリストの愛をもって日本を愛してきてくれました。しかし大統領の行動によって、両国の外交関係はかつてない危機を迎えています。韓国のオンヌリ教会の故ハ・ヨンジョ牧師は日本全国でラブ・ソナタを開催し、和解を訴えてきましたが、その成果が引き戻されてしまった、そんな印象を受けます。ただ神が両国民の心に自制と寛容を与えてくださるようにと願います。

 このような事件があった影響か、マスコミなどでは「愛国心」という言葉が広く使われています。しかしその「愛国心」という言葉は、中国、韓国の人々をあざ笑い、憲法9条を改正せよといった戦争の匂いがつきまといます。この夏休みの時期、教会には敬和の学生さんが来られますので、私は伝道メッセージを心がけてきました。しかし今日は、本当の「愛国心」とは何かについて語りたいと思います。じつはそれは敬和とは無関係ではないのです。というのは、初代校長であった太田俊雄先生が「敬神愛人」という言葉で掲げた目標の中には、愛国心教育が含まれていたからです。敬和学園は今年創立45周年を迎えますが、その最初の15年間は、入学式・卒業式の壇上には「日の丸」の旗が高校の旗と一緒に掲げられていました。また教職員の反対によって実現しませんでしたが、太田先生は「君が代」を斉唱することも強く望んでいたと言います。

 これを聞いて驚かれる方も少なくないでしょう。私もそうでした。今日、国旗国歌法が成立し、教育現場ではそこに葛藤をおぼえ、必死で戦っているクリスチャン教師が多くおります。この問題について、自分もまた当事者として苦しんだ方がこの中におられるかもしれません。しかし太田先生の言葉を丹念に紐解いていくと、なぜ彼が周囲の誤解を恐れず国旗国歌を尊重していたのかが見えてきます。孫引きになりますが、敬和が太夫浜に開学する数年前の1962年、ヨーロッパで開かれた世界キリスト教教育セミナーで、太田先生はあるクリスチャンの講演を聞きます。講師は黄彰輝。台湾人のクリスチャンであり、世界的な神学博士でもありました。黄博士は「世界の八不思議」として、ある国を痛烈に批判します。
「国民に愛国心を育成しないどころか、愛国心という言葉さえタブーにされている国がある。愛国心を口にすれば、反動主義者だという烙印を押される。・・・・日本は過去の失敗に懲りて、いわばあつものに懲りて、なますを吹き続けている。それが日本の現状であり、こういう国が存在していることは世界の第八の不思議である」。

 太田先生はこの言葉に驚きましたが、驚いたのは先生だけではありませんでした。広報誌「敬和」で、太田先生は当時をこう振り返ります。
「世界82カ国を代表して集まっていた三百数十名の人々は、驚きの表情をもって聞き入っていたが、それは愛国心を育てようというけんめいな努力をしていない国がある、という事実に対する驚きなのである」。

 「愛国心」とは何でしょうか。国を愛する心、そう答えるのは簡単です。では国を愛する心は、その国を戦争へと導いていくおぞましき力なのでしょうか。明治期のクリスチャン内村鑑三は、よく「二つのJ」という言葉を口にしたと言います。「Jesus」と「Japan」です。さらに彼は自分の墓に英文でこういう言葉を刻ませました。「私は日本のために、日本は世界のために、そして世界はキリストのために」。確かに愛国心はエゴイズムと結合しやすいものです。それゆえにかつての日本は、自分の国の利益のためにアジア諸国を踏みつけました。しかしそれは間違った愛国心でしかありません。本当の愛国心は、聖書の教えと矛盾しません。この世界のすべては神が創られた。神が私を愛し、私の国を愛されたように、私も神を愛し、自分の国を愛する。しかしその愛は隣の人や隣の国々を犠牲にするものではない。私を愛してくださった以上に、神は隣人も、隣国の人々も愛してくださっているのだ。本当の愛国心は、戦争ではなく愛を唯一の解決手段として求めます。本当の愛国心は、神が愛してやまないこの国を、自分を愛するように愛します。

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posted by 近 at 13:54 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.8.5「信仰は疑いから始まる」

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聖書箇所 マタイ19:16-22
 16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」21 イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
 
 敬和学園の初代校長、太田俊雄先生のエピソードにこんなものがあります。息子さんは、希望していた玉川学園大学に入学できたのが、そこで自分の人生について考え込む。「何で、自分は今、毎日大学に通って勉強しているのだろう?今やっていることが、これからの自分にどういう関わりがあるのだろう?この勉強を続けることに意味があるのか?」その悩みを聞いた太田先生は、息子さんにこう言った。「上野の西洋美術館に行って、ロダンの『考える人』を見て来い」。
 ここからは太田先生ではなく、息子さんのエピソードになるのですが、さすが太田先生の息子さんです、朝一番で美術館に行き、お昼まで3時間、ひたすら考える人の彫像をじっと見続けた。しかしよくわからない。お昼を食べ、戻ってきてまたじっと見つめ続けた。突然はっとした。「この考える人は、裸だ。なぜ考えるのに、裸でなければならないのか?」ロダンがこの像を裸に造ったのなら、裸でなければならない理由があるに違いない。なおも像を見つめる。すると今度は、像の、全身隆々とした、たくましい筋肉に気がついた。息子さんは後にこう振り返っています。
 すべての筋肉が浮き出ている。足先の筋肉は地面をえぐるように創られている。ロダンは「考えている人」の像をつくったのではなく、「考えるとはこういうことなのだ」ということを石に刻んだのだと思います。つまり「考える」というのは、体中のすべてを使って初めて成立する作業なのだということに気づかされたのです。

 「人間は考える葦である」と言ったのは、哲学者パスカルでした。葦とは、人間の脆弱さを象徴している言葉です。しかしどんなにもろくても、そこには筋肉を突っ張って考え抜く魂が生きている。デカルトという哲学者は「我考える、ゆえに我あり」と言いました。この世のすべてのものが不確かであっても、今考えている私は確かにここに存在する。つまり、考え続ける限り、私は生きているのだ、という叫びです。あまり哲学の話ばかりすると眠くなりますので、もう少し現実的な話をしましょう。エホバの証人や、統一協会というキリスト教の異端グループがいます。エホバの証人は、自分の生活時間を割いて人々の家を訪問し、マニュアルに基づいた伝道をしています。統一協会は、かつて霊感商法という反社会的な手段を用いていました。ある人は、彼らは確かに信仰者だと言います。しかし、「考えることをやめてしまった信仰者だ」と。彼ら異端グループのひとり一人は、確かに人生の答えを探していたのです。探していたからこそ、そこに真理があると考えて異端に取り込まれてしまったのです。どうして抜け出すことができないのか。考えることをやめてしまったからです。教えを疑うことをやめた。組織を疑うことをやめた。今の自分を疑うことをやめた。

 私は今、あえて悪いイメージのある「疑う」という言葉を使いました。しかし疑うことは悪ではないのです。疑うというのは、当たり前とみなされていることを当たり前とは考えないということです。人々が正しいということが、本当に正しいのか。正しいと信じている自分が、本当に正しいのか。自分が正しいと信じた決断は本当に正しいのか。その決断に用いた規準は本当に正しいのか。ややこしいのでこれくらいでやめますが、今みなさんがするべきは、目の前の牧師の説教が本当に正しいのか、疑うことです。疑うことを忘れてしまったときに、信仰は妄信になる。服従は盲従になる。隣人愛は偽善になる。
 決して何でもかんでも疑えと言っているのではない。しかし信仰というのは、自分を客観的に見つめ、自分自身の中身を疑っていくことです。私たちはそれをオウム真理教という宗教が引き起こした社会事件から学んだはずです。ころころ変わる教祖の言葉。保身に走る組織の姿。それらを疑い続けていくためには、疑うための規準、モノサシが必要です。絶対に変わらないモノサシが必要です。私は、それが聖書だと思うのです。キリスト教の歴史において、教皇や牧師を妄信したり、教会組織に盲従したような時代もありました。しかし聖書は、決して変わらない。二千年間、あるいは旧約も入れれば四千年間変わることのない神のことばがここにある。

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posted by 近 at 20:05 | Comment(0) | 2012年のメッセージ