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2012.8.5「信仰は疑いから始まる」

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聖書箇所 マタイ19:16-22
 16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」21 イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
 
 敬和学園の初代校長、太田俊雄先生のエピソードにこんなものがあります。息子さんは、希望していた玉川学園大学に入学できたのが、そこで自分の人生について考え込む。「何で、自分は今、毎日大学に通って勉強しているのだろう?今やっていることが、これからの自分にどういう関わりがあるのだろう?この勉強を続けることに意味があるのか?」その悩みを聞いた太田先生は、息子さんにこう言った。「上野の西洋美術館に行って、ロダンの『考える人』を見て来い」。
 ここからは太田先生ではなく、息子さんのエピソードになるのですが、さすが太田先生の息子さんです、朝一番で美術館に行き、お昼まで3時間、ひたすら考える人の彫像をじっと見続けた。しかしよくわからない。お昼を食べ、戻ってきてまたじっと見つめ続けた。突然はっとした。「この考える人は、裸だ。なぜ考えるのに、裸でなければならないのか?」ロダンがこの像を裸に造ったのなら、裸でなければならない理由があるに違いない。なおも像を見つめる。すると今度は、像の、全身隆々とした、たくましい筋肉に気がついた。息子さんは後にこう振り返っています。
 すべての筋肉が浮き出ている。足先の筋肉は地面をえぐるように創られている。ロダンは「考えている人」の像をつくったのではなく、「考えるとはこういうことなのだ」ということを石に刻んだのだと思います。つまり「考える」というのは、体中のすべてを使って初めて成立する作業なのだということに気づかされたのです。

 「人間は考える葦である」と言ったのは、哲学者パスカルでした。葦とは、人間の脆弱さを象徴している言葉です。しかしどんなにもろくても、そこには筋肉を突っ張って考え抜く魂が生きている。デカルトという哲学者は「我考える、ゆえに我あり」と言いました。この世のすべてのものが不確かであっても、今考えている私は確かにここに存在する。つまり、考え続ける限り、私は生きているのだ、という叫びです。あまり哲学の話ばかりすると眠くなりますので、もう少し現実的な話をしましょう。エホバの証人や、統一協会というキリスト教の異端グループがいます。エホバの証人は、自分の生活時間を割いて人々の家を訪問し、マニュアルに基づいた伝道をしています。統一協会は、かつて霊感商法という反社会的な手段を用いていました。ある人は、彼らは確かに信仰者だと言います。しかし、「考えることをやめてしまった信仰者だ」と。彼ら異端グループのひとり一人は、確かに人生の答えを探していたのです。探していたからこそ、そこに真理があると考えて異端に取り込まれてしまったのです。どうして抜け出すことができないのか。考えることをやめてしまったからです。教えを疑うことをやめた。組織を疑うことをやめた。今の自分を疑うことをやめた。

 私は今、あえて悪いイメージのある「疑う」という言葉を使いました。しかし疑うことは悪ではないのです。疑うというのは、当たり前とみなされていることを当たり前とは考えないということです。人々が正しいということが、本当に正しいのか。正しいと信じている自分が、本当に正しいのか。自分が正しいと信じた決断は本当に正しいのか。その決断に用いた規準は本当に正しいのか。ややこしいのでこれくらいでやめますが、今みなさんがするべきは、目の前の牧師の説教が本当に正しいのか、疑うことです。疑うことを忘れてしまったときに、信仰は妄信になる。服従は盲従になる。隣人愛は偽善になる。
 決して何でもかんでも疑えと言っているのではない。しかし信仰というのは、自分を客観的に見つめ、自分自身の中身を疑っていくことです。私たちはそれをオウム真理教という宗教が引き起こした社会事件から学んだはずです。ころころ変わる教祖の言葉。保身に走る組織の姿。それらを疑い続けていくためには、疑うための規準、モノサシが必要です。絶対に変わらないモノサシが必要です。私は、それが聖書だと思うのです。キリスト教の歴史において、教皇や牧師を妄信したり、教会組織に盲従したような時代もありました。しかし聖書は、決して変わらない。二千年間、あるいは旧約も入れれば四千年間変わることのない神のことばがここにある。

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posted by 近 at 20:05 | Comment(0) | 2012年のメッセージ