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2012.8.19「言葉が言葉となるために」

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聖書箇所 ヨハネの福音書9:1-7
 1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 中学生の頃、二年間ほど入院していましたが、こんな経験をしました。入院病棟の廊下で、可愛らしい子どもの声が聞こえました。おそらく家族の見舞いに来たのでしょう。声の調子から、ちょうど今の賛美さんくらいの年齢だったと思います。病院は回診も終わった午後過ぎで、見舞客も少なく、しんと静まり返っていました。その子の声が病室にまではっきりと聞こえました。そしてその子は無邪気に、お母さんにこう聞いていました。「こんなにたくさん、どうしてここに入っているの?何か悪いことでもしたの?」刑務所じゃないんだよ、と笑って済ませる程度のたわいない言葉です。しかし次の瞬間、遠くの病室から怒鳴り声が聞こえました。「何だと!もう一回言ってみろ!」続けてお母さんらしき声が短く「しっ!」と叫んでぱたぱたと走り去っていく足音が聞こえました。

 今日の聖書箇所を読み返すたびに、この時の経験を思い出します。「大人げない」と一言で済ますのは簡単です。しかし入院患者の中には、何気ない一言にここまで過剰に反応するほど不安に苛まされている人もいるのです。そしてあの日の幼子よりもはるかに残酷な言葉を弟子たちは口にしています。「先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。しかしこの生まれつき目の見えない人は、決して声を荒げません。まるで目の前で起きていることが何も聞こえないかのように、この人の姿は自分を出そうとしません。聞こえていないはずがないのです。目の見えない人が生きていくためには、ほかの感覚を研ぎ澄ませていくしかないからです。でも彼は弟子たちの言葉にまったく反応しない。息を殺すという表現がありますが、彼は息ではなく心を殺していたのです。外の世界で誰が何を言おうとも、決して反応しないほど、心そのものを殺していました。生まれたときから社会でじゃま者扱いされてきた人生。ただ道ばたで物乞いをするしかなかった人生。彼がその屈辱と絶望を抑えるためにどのように生きてきたか想像がつきます。生きるために耳をそばだてつつ、心はふさぐのです。自分の感情をすべて殺す。外の世界への関心もすべて殺す。そうすることで彼はようやく生きていたのです。

 目の前の病人の心を考えない弟子たちと、心を殺していた病人。そのただ中でイエスは言われました。3節、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」。ここでも私は、あの日の親子を思い出します。彼らは「しーっ」と人指し指を口に当てて、その場を逃げ去っていきました。しかしイエス様は逃げません。逃げる代わりに宣言します。「神のわざがこの人に現れるためです」と。私たちが逃げるのは、答えを持っていないからです。しかしイエス様は持っておられる。「すみません」「失礼しました」そのような謝罪の言葉で終わらせる方ではなく、現実を変えることのできる、人生の答えを持っておられます。
 しかし弟子たちのひどい言葉にさえ心を動かさないほど、心を殺している人にどんな言葉が届くでしょうか。だからイエス様の口から出て来たのは言葉ではなく、唾でした。なめらかな慰めの言葉ではなく、ねばねばした唾をイエス様は地面に落としました。何のために?土をこねるためです。泥を造り、それを彼のまぶたに塗ってあげるためです。イエスの言葉は、湖の嵐を静め、死人を生き返らせる力を持っています。しかし生まれつき目の見えない、この人はどんな言葉をも受け入れない。言葉の前に、その心を解き放つ必要がありました。

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posted by 近 at 18:47 | Comment(0) | 2012年のメッセージ