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2012.9.30「回り道を恐れない人生」

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聖書箇所 イザヤ書48章10節
 見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。
 わたしは悩みの炉であなたを試みた。

1.スピードを求める現代社会。時間の節約を最優先する危険性
 今年は記録的な猛暑と言われましたが、そんなとき、ある方から自家製の梅酒をいただきました。「就寝前にちょっと飲むと、気持ちよく眠れますよ」と言われて、確かに寝付きがよくなりました。水で薄めてちびちび飲み続けたのですが、やがて愛しの梅酒くんとも別れを告げなければならなくなりました。ああ、そうか。自分で作ればいいんだとインターネットで調べましたが、三ヶ月であっさりとした味わい、一年でコクが出てくるといった説明文を読んでいるうちに、時間がかかるのはやだなあと思ってしまいます。スーパーでできあがりの梅酒を買ってくればいいわけですが、やはり自家製にはこだわりたい。でも時間がかかるのはちょっと・・・・すると、やはりインターネットなのですが、そんな私にぴったりの商品が見つかりました。その名も「超音波式果実酒即製器」。梅と焼酎を入れてスイッチを入れると、なんと次の日には梅酒が完成という、ドラえもんもびっくりの夢の機械です。何でも一秒間に四万回という超音波振動が、一日で数ヶ月分の熟成効果を与えるそうです。しかしそうとわかると、今度はそんなに早くできてもなあ・・・・と思ってしまうあたり、人間というのは勝手な生き物だなあと思います。
 私たちの生活はスピードを求めています。以前、こんな話を聞きました。インドネシアで宣教師として働いている先生が、日本の教会でメッセージを頼まれて帰ってきました。空港へ出迎えにきた牧師が言いました。「先生、JRではなくて地下鉄で行きましょう。うまくいけば、5分の短縮になります」。その時に思ったのは、なぜ5分短縮しなければならないのか、と素朴に疑問に思ったと言います。そして疑問は不安に変わった。翌日、その不安は的中した。メッセージの前に、牧師が宣教師にこう言いました。「先生、メッセージは30分程度で、長くても40分以内にお願いします」。5分、10分。永遠のいのちを受け取っているにもかかわらず、なぜそんな短い時間にこだわるのか、理解できなかったとその宣教師は述懐していますが、私たちは教会であってもいつのまにか時間に追い立てられている、いや、もしかしたら教会のほうが世の人々よりもせわしなく動いているということがあるかもしれません。そして時間的な回り道ならばまだいいでしょう。もっと悲しむべきは、生活の中で起こる様々な出来事を自分にプラスか、それともマイナスかで評価して、マイナスと思われるものを切り捨てていくことです。

2.「なぜ」という問いかけは、時として回り道を切り捨てる
 地震と津波で壊滅的な被害を受けた気仙沼市で、ひとりの町医者として人々に寄り添い続ける、あるクリスチャンがおられます。その方が、インタビューでこんなことを書いておられました。(山浦玄嗣「被災地・ケセンから見た3.11」35-37頁、『信徒の友』別巻「その時、教会は」、日本キリスト教団出版局、2012年)
 震災後、テレビ、新聞、雑誌からコメントを求められました。彼らは皆判で押したように、「東北の人は非常に我慢強く正直で善良である。こういう人たちがなぜ、このような目に遭わなくてはならないのか。神さまはなぜこのような酷い目に遭わせるのか。信仰者として今回の出来事をどう考えるか」という質問を投げかけてきました。私は髪の毛が逆立つくらい腹が立ちました。私はそんなことを一度も考えたことがありません。あの惨害の最中に何千人という気仙の人間を診ました。連れ合い、親、子どもを亡くした人たちの話を聞いて一緒に泣いてきました。でも、「なして、おらどァこんたな目に遭わねァばならねァんだべ」という恨み言を聞いたことはただの一度もありません。・・・(中略)・・・そういう人たちに向かって、こんな意地の悪い質問をするのは「お前たちは神さま、仏さまに見捨てられたのだ」と言うのと同じで、人の心を絶望で腐らせる猛毒です。
 この医師は、終わりにこう書いています。
 我々が神さまに対して取るべき態度はたったひとつ、「神さま、あなたは私をお創りになりました。何のためにお創りになったんですか?私はどういう道具なのでしょうか。どうぞ、教えてください」、これしかないのではないでしょうか。我々が神さまの道具なのであって、神さまは我々の主なのです。そこを履き違えてはいけません。
 時間だけでなく、様々な出来事もまた、人生に不必要なこととして切り捨てていこうとする、そんな人間の罪を彼は指摘しています。そして今日の聖書のみことばは、まさに私たちが神に用いられる器なのだということをたった一言で伝えています。もう一度、みなで読んでみましょう。
 見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。
 わたしは悩みの炉であなたを試みた。

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2012.9.23「今日、神の恵みに生きるため」

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※当日は、私たちが所属する日本同盟基督教団・新潟山形宣教区の講壇交換でした。
主任牧師に代わり、山形恵みキリスト教会の武藤正信牧師が、ご自身の牧会者人生の中で継続してきた「朝の祈り」を通して、証しを交えて説教してくださいました。

朝の祈り 2012年6月15日(改訂) 武藤
聖句
「神は、実に、そのひとり子イエス・キリストをお与えになったほどに、□□□を愛された。
 それは御子キリストを信じる□□□が、決して滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
 (ヨハネ3:16。一部編集。□□□は自分の名前を入れる。)

方向
↓↑  主よ。あなたの大いなるあわれみといつくしみを心から感謝いたします。
↑   主よ。しもべはきょうもあなたを愛します。
↑   主よ。しもべばきょうもあなたを喜びます。
↑   主よ。しもべはきょうもあなたにお従いします。
↓↑  主よ。あなたがいつもしもべとともにいてくださることを感謝いたします。
↑↓  主よ。どうかきょうしもべが、
    心の中に思うこと、ロから出すことば、からだで行うこと、
    すべてが主の喜ばれるものとなりますようお守りください。
↑↓  主よ。どうか、きょうしもべがすべてのことを主の名によってなすことができ、
    主の栄光を現すことができますよう導いてください。
↑↓→ 主よ。しもべがきょう接するすべての人に、
    愛を示し、益を与えることができますよう助けてください。
↑   主よ。しもべは今このからだと心をすべてあなたにささげます。
(↓↑↓ もしここで心に示される罪があれば、その罪を告白し、主の赦しを確認する)
↑   主よ。どうか今しもべをあなたの聖い御霊に満たしてください。
(間をおく。……満たしてください。主よ満たしください。御霊に満たしてください……)
↓↑  主よ。あなたが今しもべを聖い御霊に満たしてくださったことを感謝いたします。
↑   主イエス・キリストのお名まえによって祈ります。アーメン。

聖句
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、
 そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、
 キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、
 私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

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2012.9.16「老いを恐れず、老いを楽しむ」

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聖書箇所 テトスへの手紙2章1-5節
1 しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。2 老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。3 同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。4 そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、5 慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。

 教会には全国各地のバイブルキャンプ場から案内が送られてきます。柏崎の聖ヶ丘キャンプなどが有名ですが、そこでは参加者が自然を楽しみながらみことばを聞き、楽しいプログラムを過ごします。小学生キャンプを皮切りに、中高生、大学、ファミリーキャンプといった案内を眺めながら、ある時ふと思いました。なぜここにシニアキャンプ、つまり高齢者向けキャンプがないんだろう、と。疑問が昂じて、キャンプ委員を担当する先生に、高齢者を対象にしたキャンプを提案したことがあります。するとこう言われました。キャンプを企画しても、お年寄りは外に出たがらないでしょう。
 しかし実際は逆じゃないかと思うのです。高齢者の行動力をバカにしてはなりません。以前、山形の教会へ行った帰り道、関川にある「道の駅」へ立ち寄りました。そこには近くにある温泉から引いている足湯があります。運転で疲れていたのでちょっとだけ、と思ったのですが、甘かった。平日なのに観光バスが何台も並び、何十人もの人々が足湯のスペースを取り囲んでいる。全員、お年寄りです。高齢者が外に出たがらないなんて、とんでもない。無言でぬるま湯に浸かっているお年寄りを見ながら、あの足湯スペースの真ん中で聖書のお話しができたらいいのになあと思わずにはいられませんでした。
 これは一つの例ですが、たしかに日本の教会は高齢者が主体的に参加できるプログラムが少なすぎると思います。そしてその原因は、私たちの考え方や態度にあります。「来てくださるだけで感謝。どうぞゆっくりすわっていてください。いやいや、祈っていただくだけで十分。何もしなくて結構です」。首都圏のある教会で、子供たちが教会学校に50人も集まっている教会があります。多くのキリスト教雑誌が取材し、その方法論を学べとかき立てました。一方で同じ町に歴史の古い教会があり、信徒が50人、昔ながらの礼拝を守り続けています。みんなお年寄りばかりで、70歳でも若手と呼ばれます。同じ50人が集まっているのに、どこも取材に来ないし、誰も学びに来ない。この扱いの違いは何でしょうか。またある教会では、頻繁に次世代伝道という言葉を口にします。まるで先の短い今の世代に伝道しても仕方がないと言っているように聞こえるのは気のせいでしょうか。
 もし高齢者が生き生きと参加できるプログラムが教会にあれば、その地域を福音へ巻き込んでいくことができるでしょう。そしてそれが、初代教会の姿であったことを聖書は教えています。旧約聖書のレビ記19章32節で、神はこう命じておられます。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である」。老人を敬うことが、主を恐れることよりも先んじて語られているのです。初代教会は、そのユダヤ的伝統を捨てることなく、教会でも老人に敬意を払いました。今日の聖書箇所、新約聖書のテトスの手紙はクレテ島の教会に赴任するテトスにあてて書かれたものですが、そこでもテトスがみことばを教えるべきトップバッターとして、まず「老人たち」が挙げられています。1節、2節をもう一度お読みします。「しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように」。
 おそらくテトスはまだ若い牧会者であったと想像されます。自分と年齢の近い青年たちを教えるほうが楽だったし、得意であったでしょう。しかしパウロは語りやすい世代よりも、まず老人を、そして年をとった婦人たちを健全に教えることを命じます。この世代が教会のリーダーだったからではありません。もしそうだったら、わざわざ「大酒のとりこにならず」などと念を押す必要はなかったでしょう。しかしだからこそ、彼らはまずみことばによって変えられなければならなかった。それは、神を恐れるように老人たちを尊敬せよというみことばが、異教社会であるクレテにおいても働くことを示すためでした。みことばがユダヤの家庭だけでなく、教会だけでなく、クレテの社会においても人々を変えていく神の力であることを示すこと、すなわち「神のことばがそしられない」ためでありました。


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2012.9.9「たかが一ミナ、されど一ミナ」

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聖書箇所 ルカ19:11-27
11 人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである。12 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。15 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。16 さて、最初の者が現れて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』18 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』19 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』20 もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。21 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。23 だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』25 すると彼らは、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています』と言った。26 彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。27 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」


 子どもの頃、こんな童話を読みました。うろおぼえなので、細かいところはご容赦ください。アメリカの田舎に、プリン作りの名人と言われる女性がいました。彼女には5人の娘たちがいて、今日はその末っ子の誕生日です。名人は、朝からお祝いのプリン作りに励んでいました。火をおこし、ゆっくり、じっくりプリンを焼き上げる。ちなみに電子レンジとかない時代の話です。プリンの秘訣は、最後にふりかける、ひとつまみの塩。
 しかしここで名人はふと考えた。せっかくの誕生祝い。この最後の作業は、ぜひ姉たちの誰かにやってもらおう。そこで台所の窓から、庭にいた長女に声をかけました。「ねえ、しばらくしたら、プリンにひとつまみの塩を入れてくれないかしら」「だめよ、お母さん。今自転車の修理で手が真っ黒なの」。すると今度は台所の前を次女が通りかかる。「ねえ、プリン・・・」「だめ、これから宿題をやるの」。理由は適当ですが、確かこんな感じで四人の姉みんなに断られるお話しでした。
 しょうがない、自分でやるか。それまで、お部屋の掃除でもしましょ。名人、台所を離れました。しかし4人のお姉さんたち、断った後でこれが妹の誕生祝いに出すものだと気がつきました。あの子のお祝いなのに、断っちゃった。後味悪いなあ。そこで考え直し、言われたとおり塩を一つまみ入れてあげることにしました。一度断った手前、お母さんにわからないように、誰もいないタイミングを見計らって、4人めいめい、こっそりと。
 そしてその晩、家族ひとり一人の前においしそうなプリンが並びました。おめでとう、と言ってみんな一斉にプリンを口に運ぶ。次の瞬間、あまりのまずさにみなが目を白黒させる。「さいあく〜」と言ったかどうかは覚えていませんが。でもお母さんの心は思わず温かくなりました。この塩辛いプリンは、全員が妹思いの娘たちに育った証しとなったからです。

 なぜこの話を思い出したかと言いますと、今日の聖書箇所に表れている主人の気持ちは、このお母さんの思いに繋がるものではないかと思ったからです。私たちはこの主人が、しもべたちを競わせているように感じるかもしれません。実際、三人目のしもべは、そんな恐ろしい主人と考えたからこそ、せっかく預けられた一ミナをふろしきに包んでいました。しかし決してそうではないのです。この「主人」、イエス様と読み替えてもいいと思います、イエス様が求めているのは、この一ミナを何倍にするかという結果ではないのです。それがたとえ10倍であろうと、5倍であろうと、数字は問題ではない。神は外側の数字ではなくて、内側の心を見られます。自分はこの一ミナを何倍にできるかわからない、でも主人のことばに従おう。だって私はご主人様の喜ぶ顔が見たいんだ。これが私たちと神さまとの関係です。神の子どもとされた喜びの中で従うのであって、奴隷のような恐れの中で従ってはいません。もし奴隷根性ならば、その選ぶ道はリスクのない道です。つまりほめられもしないが、怒られもしない。利益も出せないが、損失もない。一ミナをふろしきに包んだしもべは、まさにその典型でした。現状を維持すれば、それでよいだろう。しかし予想に反して、何も失っていないにもかかわらず、このしもべは叱責されました。なぜでしょうか。その現状維持は、主人を愛していないことの証明だったからです。主人を喜ばせようとしてではなく、主人の叱責を受けないために、一ミナをふろしきに包んだからです。

 私たちは、自分が10倍、5倍の実を結ぶことを願います。しかし今日の箇所を注意して読んでみましょう。10人のしもべがそれぞれ一ミナを預けられました。しかし結果が紹介されているのは、その中の3人だけです。想像力を働かせてみると、残りの七人の中には、商売に失敗してすっからかんになったやつもいたんじゃないか、と思うのです。しかしあえてイエス様はこのたとえ話の中では触れない。触れる必要がなかったのです。悪い例は一つだけで十分でした。失敗を恐れて、何もしないという道を選んだひとりのしもべ。それに対してよい例はふたつ。主人の喜ぶ顔が見たくて、失敗を恐れなかったしもべたち。残りの七人の中に、たとえもうけに失敗した人がいたとしても、彼らもまた「よいしもべ」としてほめられたふたりのほうに含まれています。私たちがよいしもべと呼ばれるのは、失敗をしないからではなく、主人を愛してその願いに従うときです。今日の聖書箇所には、この主人が王になることを望まず、後から使いをやった国民たちというのも出て来ます。これも含めて、聖書は私たちがどの道を選んで生きていくのかと呼びかけます。喜ばせるべき主人として愛していくのか。私をさばく恐ろしい方として逃げるのか。私の人生と生活には入り込んでほしくない、不都合な存在として拒み続けるのか。あなたはどの道を選びますか。願わくは、この方を愛し、その喜ぶ顔が見たいという生き方でありますように。奴隷として仕えるのでも、敵として拒絶するのでもない、私を子どものように愛し、しもべとして認めてくださる方が預けてくださった一ミナを握りしめて、立ち上がってほしいと願うのです。

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2012.9.2「イエスを喰らう」

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聖書箇所 ヨハネ6:51-60
51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」


 先日、実家に帰省した折、父から数枚の写真を渡されました。今から20年以上前、敬和のフェスティバルで私が演劇に出演していたときのものです。(写真を見せる)
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 ほとんど心霊写真です。このとき、フェスティバルの演劇部門のチーフを任されたのはよかったのですが、まったく脚本が決まりませんでした。脚本ができないと、稽古と言っても、発声練習くらいしかすることがないのです。毎日屋上にのぼって、みんなで「あえいうえおあお〜」とか叫んでいました。そんな私を見て、敬和のある先生が「ひかりごけ」という戯曲を紹介してくださいました。

 しかしいざその戯曲を紐解いてみると、とんでもない内容でした。人肉、つまり人の肉を食べるという話だったからです。太平洋戦争末期、冬の北海道沖で軍用船が座礁します。船長以下、乗組員は何とか脱出するのですが、真冬の知床では、食べるものが何もない。洞窟に潜り込み、全員が日に日に衰弱していく中で、船長は決断します。生きのびるために、仲間の肉を喰らうしかない。この脚本のタイトルになっている「ひかりごけ」とは、人の肉を喰らった者は、首のまわりにぼんやりと浮かぶ青白い光を指します。この船長は、仲間の血をすすり、肉を喰らってでも生きのびなければならない、と仲間に言います。死んでいいのは、天皇のために命を捨てるときだけだ、と。
 そして船長の行動は暴走し、狂気へと向かっていきます。仲間の肉を食べることを拒絶して餓死寸前の仲間さえも、あと二、三日すればどうせ死ぬのだと吐き捨て、殺してしまうのです。乗組員は船長以外、みな死ぬか殺され、そして船長は救援隊に助け出されました。しかし彼がなしたことも明るみに出て、彼は裁判にかけられます。その時には彼も狂気から覚めており、仲間を喰らったことを悔いながら、死刑宣告も受け入れるのですが、最後に彼は驚きます。というのは、裁判所にいる判事、検事、弁護人、そして傍聴人に至るまで、首のまわりに青い光が浮かんでいたからです。この船長は生きるために確かに仲間を殺し、そしてその肉を喰らった。しかし戦争とは、その国のすべての者が、国のためと言いながらじつは仲間を殺し、その肉を喰らうことなのだという痛烈な批判をもって、この戯曲は終わっています。

 この脚本を初めてみんなで読み合わせしたときの衝撃は、いまだに覚えています。こんなのやりたくないと言った女子学生もおりました。そしてイエスの話を聞いていた弟子たちの衝撃はそれ以上だったでしょう。イエスは言われました。「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはありません」。最後の60節を見ると、この言葉に多くの弟子たちが失望し、イエスのもとを去っていったとあります。それほどまでにひどい言葉でした。特にユダヤ人にとって、血に触ることさえも大きな罪として教えられていましたので、その血を飲むなどとは到底受け入れられないことでした。なぜイエスはここまで言われたのでしょうか。誤解を招く、というレベルを越えています。しかし語った。語らなければならなかった。なぜか。救いというのは、彼らが考えているほど生やさしいものではないのです。動物のいけにえをささげることで罪が赦される?善行を繰り返すことで罪が帳消しにされる?そんなことはあり得ない。私たちすべての人間が抱えている罪を取り除く方法はただ一つ。「人の子の肉を食べ、その血を飲む」。あらゆる人間が嫌悪感を抱かずにはいられない、そのような言葉を用いてイエスは私たちがそこまでしても救われなければならないのだということを示されました。

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posted by 近 at 13:44 | Comment(0) | 2012年のメッセージ