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2012.10.28「幼稚な教えに惑わされず…」田中敬子神学生

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聖書箇所 コロサイ人への手紙2:6-15
 6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。
 8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。


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2012.10.21「常識を飛び越えろ」

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聖書箇所 マルコの福音書2章1-12節
 1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。9 中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。
 あるクリスチャンの先輩が初めて教会に行ったときの思い出を話してくれたことがありました。「キリスト教会って言うから、ステンドグラスやパイプオルガンを連想していたんだが、行ったら普通の家に畳敷きで、そこでイエス・キリストの話を聞かされたんだな」と。もしかしたらみなさんも同様の思いを持っているかもしれません。こんなざぶとんで床に座らされて、まわりも何か引っ越しの途中みたいで、教会らしくない。すべては午後のバザーのためです。いや、バザーを通して地域のみなさんに私たちの元気の源であるイエス様を知っていただくためです。私自身もこういう形で礼拝をもつのはめったにないのでいささか面食らっておりますが、しかし一方でこういう形での礼拝に、憧れをもっていた部分もあります。というのは、普段は美しい講壇があり、そして椅子を並べて礼拝を守っていますが、それはヨーロッパ風の礼拝です。少なくともイエス様の時代には、講壇もなかったし椅子もありませんでした。今日の聖書箇所を読んでみてください。人々は家に入りきれず、足の踏み場もなかったようです。大きな講壇や椅子を並べるスペースもなかったんですね。日本には車座という言葉がありますが、まさにここにはそんな情景が描かれているのでしょう。

 アフリカのある国から留学しているひとりの青年がいました。ある朝、彼の日本人の友だちが、電車の中で本を読んでいる彼を見つけました。しかし友人はぷっと笑ってしまった。というのは、アフリカのその青年は、本を逆さまにして読んでいたのです。学校に着いてから、その友人は彼に声をかけました。「さっき電車の中で本を読んでたけど、さかさまだったよ。読むふりをして、本当は寝てたんだろ」。すると彼は不思議そうにこう答えた。「ああ、さかさまだったよ。でも僕たちからみれば、逆さまだと本を読めないと考える君たちの方が不思議だよ」。そして彼は自分の国の話をしてくれた。度重なる戦争で学校は壊され、机もなく、ひとり一人に配られる教科書もない。だから彼らはこうやって車座になって、先生が一冊の教科書を地べたに置き、生徒たちがそれぞれ教科書を覗き込むかたちで授業を続けて来た。だから本を逆さまに読むなんて当たり前だったんだ、と。その話を聞いた日本人学生は、赤面して彼に謝ったそうです。
 車座になって人々に神の愛を教えたイエス様、車座になって教科書を逆さまに読んできた子供たち、じつはこの両者には、車座以外にもうひとつ共通点があります。それは、常識を捨てるということです。逆さまに本を読むなんて、あり得ない。日本人だったら、かの学生だけでなく、みんながそう思うかもしれません。屋根をぶち抜いて、イエス様に直してもらうなんて、非常識だ。当時の人々もそう考えたかもしれません。さらに、安息日に人を直すのは、おきてに反している。安息日は、たとえどんな仕事であっても、してはならないのだ。そんな常識にとらわれているユダヤの偉い人たちもいました。

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2012.10.14「本物の本音に生きる」

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聖書箇所 テトスへの手紙 2章1-15節
 1 しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。2 老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。3 同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。4 そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、5 慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。6 同じように、若い人々には、思慮深くあるように勧めなさい。7 また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、8 非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。9 奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、10 盗みをせず、努めて真実を表すように勧めなさい。それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。11 というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、12 私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、13 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。14 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。15 あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。

 ひとりの牧師が、ある教会の修養会に招かれたときのことをご自分の著書の中で書いております。修養会の後、彼はその教会のある信徒からこういう発言を聞きました。「私は教会の中で<ほんね>を言いたい。私は人を赦せない。神を疑うことがある。それが<ほんね>なのに、教会の、いかなる集会でも、それを口にすることが許されない」。するとそれがきっかけとなって、別の人からこんな質問も挙がってきた。「教会員と共に祈っているとき、他人を意識していまい、<ほんね>の祈りにならないので、どうしたらよいか」。
 これは私たち自身の問いかけであるかもしれません。少なくとも、かつての私も、同じような悩みを持っていたことがありました。私はこの牧師ならどう答えるだろうか。そんな思いを持ちながら、頁をめくりました。そしてそこに書かれていたのは、私の予想を越える、厳しい、しかし、冷静な言葉でした。
 正直に言って、私は、一種の失望感を表し、<ほんね>に固執する<ほんね>病とも言うべきものが教会を毒していないかと問うた。・・・・(中略)・・・・自分が自分であることを貫こうとすることが、自分に対して忠実であり、誠実であることとされ、そこで<ほんね>を重んじる。その<ほんね>を貫くことが、ひとを傷つけることがあることを承知しながら、それを捨てない。むしろ、このような自己中心の考え方や生き方が、どれほど深く罪を宿しているものかを考え、悲しむことはない。<ほんね>を捨てて<たてまえ>に生きることが信仰だと考えているから、<ほんね>を捨てることができない分だけ、<たてまえ>としての信仰生活との間にきしみが生じる。しかし、それは決して健康ではない。そのありのままの自分が罪を宿しているかぎり、自分をも損ね、隣人をも損ね、世界をも損ねる。そのことについてはまことに鈍感である。これが教会をも深く毒していると思われるのである。(加藤常昭『愛の手紙・説教』、教文館、2000年、146頁以下)
 「ほんね」と「たてまえ」。「本音」は、ひとつの事柄に対して、感情や欲求を含む特有の価値観に照らして心に抱かれるものと言えます。しかし多くの場合、それを明らかにすると、自分の周囲と軋轢を生み出すことになる。対立を最小限に抑えつつ、あるいは完全に覆い隠し、なおかつ自分の望む方向へと誘導していくために作られる言葉、それが「建前」です。もっとも、わざわざこんな難しい説明を加えなくても、子どもでさえ人間関係において「本音と建前」を使い分けることを知っています。ところがこの本音と建前、外国人の方々には通じないという。てっきり万国共通だと思っていたのですが、日本人特有のものだそうです。しかし私は、果たしてそうだろうか、少なくてもこのテトスの手紙がえぐり出しているのは、当時のクリスチャンたちが本音と建前を使い分けようとしている姿ではないかと思うのです。そして件の牧師が、「ほんね病」なる、自分の内側の感情を絶対視する病に怒りに似た失望を覚えたように、パウロもまたクレテ教会に蔓延する「ほんね病」をあぶり出そうとしているように思えるのです。

 今日の説教箇所は、前回語った所まで遡り、2章全体を取り上げています。この中でパウロは、教会のあらゆる階層の人々へ届くことばを紡ぎ出そうとしています。まず老人たちを皮切りに、年をとった婦人たちへ、次いで彼女らの後輩にあたる若い婦人たちへ、さらに若い人々へ、そして最後に奴隷たちへ。まるで水が高い所から低い所へ流れるように、神の恵みのことばを老人から奴隷に至るまで、まんべんなく巡らせようとしているかのようです。この2章全体を見つめたとき、まるで高速道路の案内板のように、等間隔に、ひとつのメッセージが埋め込まれていることに気づきます。つまり、例えば東京まで高速道で行くとして、東京に近づくにつれて「東京まで200キロ」「東京まで100キロ」という青看板を見るように、ひとつの共通したメッセージが残されているのです。

 それは何でしょうか。一言でいえば「みことばをあなたの本音として生きよ」という勧めです。5節では「神のことばがそしられるようなことのないためです」、8節では、「敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう」、そして10節では「彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです」。これらはすべて、神のことばが教会の中で語られるとおりに、ひとり一人のクリスチャンの生活の中に根付いているかどうかを問うています。つまり、クレテ教会で語られているみことばが、決して建前に終わることなく、本音のものとして教会員の中で息づいているのかが問われているのです。

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posted by 近 at 16:57 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.10.7「知識は愛によって生かされる」

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聖書箇所 コリント人への手紙 第一8章1-13節
 1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。4 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。5 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。7 しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。8 しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。11 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。13 ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。

1.偶像にささげた肉−−−コリント教会の潜在的分裂
 教会のご婦人方、いや別に壮年方でもよろしいのですが、お肉はどこで買われますか。大体の方はスーパーで、少し年配の方はなじみのお肉屋さんで、となるでしょうが、コリントを含め当時のローマ社会では、食肉を購入するために二つの方法がありました。一つは市場に行って肉を買う、当たり前の方法です。ではもう一つの方法とは。神殿で、市場よりも格安で肉を手に入れることができたのです。神殿といっても偶像の神が拝まれている所です。そこでいけにえとしてささげられた牛や羊の肉が払い下げられていました。さらには、本来偶像にささげられた食肉が、それを隠されたまま、市場で売られていたこともよくあることでした。では、もしみなさんが当時のクリスチャンであったら、どうするでしょうか。つまり、偶像にささげられた肉をそのまま買って食べるでしょうか。いや、そんな肉は偶像の神によって汚されたのだから、割高であっても市場でまともな肉を買う、と言うでしょうか。しかし市場でも偶像にささげられた肉であることが隠されて売られているわけです。あるいは未信者の友人に招かれて食事に誘われたとき、それが偶像にささげられた肉かどうかわからないときはどうするか。コリントの教会は、この問題で教会が二つに割れつつありました。一方の人たちはこう言います。「食べてもいいさ、偶像の神なんていないんだから、たとえささげられた肉であっても、汚れていないよ」。しかしもう一方の人たち、手紙の中で「弱い人たち」と呼ばれている人たちは、偶像にささげた肉を平気で食べているクリスチャンたちにつまずきをおぼえていたのです。
 現代に生きる私たちにとって、こんな食べ物のことで対立する姿は滑稽だと感じるかもしれません。しかし現代の教会でも、教会の分裂をもたらす問題は、どれもごく小さなことから始まるのです。大きなことであれば、みなが注意します。しかし小さなことに関しては、私たちは信仰ではなく一般常識をあてはめ、みことばではなく経験則を用いようとします。そして小さな蟻の穴が大きな防波堤のコンクリートをくずしていくように、小さなほころびが教会の交わりを揺るがせていきます。
 しかし驚くべきことに、パウロはこの聖書箇所で語っているのは、偶像にささげられた肉を食べることが正しいか正しくないかという論点ではありません。ただ彼はこう言うのです。「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」と。

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posted by 近 at 08:12 | Comment(0) | 2012年のメッセージ