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2012.10.7「知識は愛によって生かされる」

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聖書箇所 コリント人への手紙 第一8章1-13節
 1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。4 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。5 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。7 しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。8 しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。11 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。13 ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。

1.偶像にささげた肉−−−コリント教会の潜在的分裂
 教会のご婦人方、いや別に壮年方でもよろしいのですが、お肉はどこで買われますか。大体の方はスーパーで、少し年配の方はなじみのお肉屋さんで、となるでしょうが、コリントを含め当時のローマ社会では、食肉を購入するために二つの方法がありました。一つは市場に行って肉を買う、当たり前の方法です。ではもう一つの方法とは。神殿で、市場よりも格安で肉を手に入れることができたのです。神殿といっても偶像の神が拝まれている所です。そこでいけにえとしてささげられた牛や羊の肉が払い下げられていました。さらには、本来偶像にささげられた食肉が、それを隠されたまま、市場で売られていたこともよくあることでした。では、もしみなさんが当時のクリスチャンであったら、どうするでしょうか。つまり、偶像にささげられた肉をそのまま買って食べるでしょうか。いや、そんな肉は偶像の神によって汚されたのだから、割高であっても市場でまともな肉を買う、と言うでしょうか。しかし市場でも偶像にささげられた肉であることが隠されて売られているわけです。あるいは未信者の友人に招かれて食事に誘われたとき、それが偶像にささげられた肉かどうかわからないときはどうするか。コリントの教会は、この問題で教会が二つに割れつつありました。一方の人たちはこう言います。「食べてもいいさ、偶像の神なんていないんだから、たとえささげられた肉であっても、汚れていないよ」。しかしもう一方の人たち、手紙の中で「弱い人たち」と呼ばれている人たちは、偶像にささげた肉を平気で食べているクリスチャンたちにつまずきをおぼえていたのです。
 現代に生きる私たちにとって、こんな食べ物のことで対立する姿は滑稽だと感じるかもしれません。しかし現代の教会でも、教会の分裂をもたらす問題は、どれもごく小さなことから始まるのです。大きなことであれば、みなが注意します。しかし小さなことに関しては、私たちは信仰ではなく一般常識をあてはめ、みことばではなく経験則を用いようとします。そして小さな蟻の穴が大きな防波堤のコンクリートをくずしていくように、小さなほころびが教会の交わりを揺るがせていきます。
 しかし驚くべきことに、パウロはこの聖書箇所で語っているのは、偶像にささげられた肉を食べることが正しいか正しくないかという論点ではありません。ただ彼はこう言うのです。「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」と。

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posted by 近 at 08:12 | Comment(0) | 2012年のメッセージ