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2012.12.30「慎み深く待ち望む」

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※礼拝説教の前に、教団の宣教121周年記念大会に参加した兄弟(片山兄)の証しがありました。




聖書箇所 テサロニケ人への手紙 第一5章1-11節
 1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

 2012年も残りわずかとなりました。世間を騒がせた「地球最後の日」もいつのまにか通り過ぎていたと思ったら、今度はマヤ暦ではなくエジプトの言い伝えで、三年後に地球最後の日が来るということだそうです。たぶん私たちは、これからも「今年は地球最後の日」というニュースをしばしば聞かされることになるのでしょう。イソップ物語にある「狼少年」の話を思い出します。ある村に「狼が来たぞ」 とうそを叫ぶ少年がいました。村人たちははじめはその言葉を信じていましたが、来る日も来る日も少年が嘘をつくもので、誰も駆けつけて来なくなってしまう。するとある日、本当に狼が出ました。狼に羊が全部食べられてしまうと記憶していたのですが、イソップの原作を読み直すとじつはこの少年が食べられるという悲劇になっていました。

 イソップ物語を改めて読み直して気づいたのですが、じつはこの物語の題名は「狼少年」ではなく「羊飼いと狼」でした。先週はちょうどクリスマスメッセージで羊飼いの話をしましたが、羊飼いが語るべきはうそや噂ではなく、真実な知らせでなければなりません。悪しき羊飼いはマヤだのエジプトだのを持ち出して「狼が来たぞ」と世を惑わそうとします。しかし教会は、世の終わりについて正しく伝えていかなければならない、そしてそのためにみことばを開きましょう。パウロは2節でこう言います。「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです」

 あなたがた自身がよく承知している、とはどういうことでしょうか。イエス様が主の日を盗人にたとえて語っていたことを指しています。テサロニケの人々よ、あなたがたに伝えられた主のみことばをもう一度よくかみしめなさい。主はどのように言っていたか、思い出しなさい。そんなパウロの呼びかけが聞こえてきます。マタイの福音書24章にはこのようにありました。
 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
 確かに主の日は泥棒のようにやって来ます。しかし間違えないでください。泥棒にたとえられているのは主の日であって、主ご自身ではないということです。主は泥棒のようではなく、まさに私たちの主人として地上に再び来られます。私たちを脅し、奪い、傷つけるために来られるのではなく、私たちをご自分の都へ迎えるために来られるのです。

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2012.12.23「羊飼いたちの中のイエス(Jesus of the Shepherdline)」

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※クリスマス特別礼拝でした。礼拝の最初の部分(8分程度)も撮影しましたのでご覧ください。




聖書箇所 ルカの福音書2章8−20節
 8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。


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 20世紀のアメリカの木版画家、フリッツ・アイヘンバーグの作品に「行列の中のイエス(Jesus of the breadline)」というものがあります。行列と訳した言葉は英語では「breadline」、食料の配給を待つ列のことです。おそらく災害とかの救援物資ではなく、今でいうホームレスの人々が並んでいる配給の列でしょう。絵をじっと見ると、ある者は寒そうに上着の襟を立て、またある者は苦々しい表情で順番を待っています。そんな構図のちょうど真ん中にイエスが立っている。その立ち姿は真っ黒で、表情をうかがい知ることはできません。ほほ笑んでいるのか、それとも顔をしかめているのか。ただわかるのは、このような貧しさ、そして失望のただ中にある人々の、そのちょうど真ん中にイエスはおられるということです。

 アイヘンバーグが生まれたのは、ちょうど20世紀が幕を開けた1901年、ドイツのユダヤ人家庭でした。30代のとき、ドイツではあのヒトラー率いるナチス党が政権をとり、ユダヤ人に対する迫害が始まりました。彼は家族と共にドイツを離れ、自由の国アメリカへと渡っていきます。しかしアメリカもまた、その自由は富む者たちにとっての自由であり、貧しき者たちは資本主義の奴隷となっている姿を彼は見ます。数年後、戦争は終わりヨーロッパはナチスから解放されましたが、アメリカの貧しい者たちはいまだに奴隷のままでした。その中で彼は、パンの配給を待ち続ける行列の中にイエスを見いだします。イエスは教会の中にいるのではない。恵みから落ちてしまったと見える、最も貧しい人々のただ中にこそ、イエスはおられるのだ、と。

 神は、もっとも神にふさわしくないと思われるようなところに降りてこられる!二千年前のクリスマスに、この真理が明らかにされました。御使いは驚きあわてる羊飼いたちにこう語りかけます。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」。彼らは自分の耳を疑ったでしょう。救い主が、家畜のえさを入れる飼い葉おけに寝かされているだって?神殿でも、王の宮殿でもなく、ベツレヘムで一番上等な宿屋のベッドでもなく、飼い葉おけにだって?そこは救い主には到底ふさわしくない場所でしょう。だが羊飼いたちがそこでつまずいた様子はありません。彼らはすぐに、「さあ、ベツレヘムに行って、この出来事を見てこよう」と話し合い、馬小屋を探しに出かけます。

 なぜ彼らは、救い主が飼い葉おけに生まれるなどというあり得ないことを素直に受け入れることができたのでしょうか。それは、神がもっとも神にふさわしいところにまで降りてこられることを、自分たちがたった今経験したからです。いつも貧しく、雇い主からも人として満足に扱われない人々が、彼ら羊飼いでした。神は、その羊飼いに真っ先に福音を告げてくださったのだ!神の恵みにまったくふさわしくない、私たち羊飼いに真っ先に教えてくださったのだ!そんな神さまなんだもの、飼い葉おけの中にお生まれになることだって喜んで受け入れてくださったのだ。彼らはそう思ったのではないでしょうか。

 今日の聖書物語を描いたものに、「荒野の果てに」と呼ばれる讃美歌があります。
「荒野の果てに/夕日は落ちて/たえなる調べ/天より響く」。
しかし間違えてはなりません。この物語の中心は、荒野に落ちる夕日の美しさでもなければ、御使いたちの讃美の歌声でもない。中心は羊飼いたちです。彼らは神に招かれた者たちなのです。御使いが荒野に降りて来たら、たまたまそこに羊飼いたちがいた、ということではないのです。御使いは、荒野で歌うために降りてきたのではありません。羊飼いに良き知らせを伝えるために来たのです。もし羊飼いが荒野にいなかったら、物語はどうなっていたでしょうか?御使いは羊飼いの家にまで押しかけたことでしょう。いったい羊飼いに、そんな価値があるのでしょうか?


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posted by 近 at 19:52 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.12.16「ほんとうの希望」

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※礼拝説教の前に、教団の宣教121周年記念大会に参加した姉妹(横堀姉)の証しがありました。




聖書箇所 イザヤ書8章19節-9章7節
 8:19 人々があなたがたに、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ」と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。20 おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。21 彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。22 地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。
 9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
 9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」。イエス・キリストの誕生を預言した言葉として、クリスマスの時期にはこのみことばから説教されることが多くあります。しかしこの言葉が語られる背景には、一体どれだけの霊的暗黒がイスラエルを覆っていたのか。じつに、神の民であるイスラエルがすがっていたのは霊媒師や口寄せといった、死者の霊を呼び出す人々でした。生きている人々があてにならないから、死者の霊に尋ねよう。これが神の民の現実、というところから今日の箇所は始まります。

 「彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる」。「飢える」という言葉が二回も繰り返されています。これは食物の飢えではありません。たましいに飢えているのです。みことばに飢えているのです。人がもし死人の声にのみ希望を抱くような霊的暗黒の状態にとどまり続けるならば、どこを探してもそこには偽りの希望しかありません。今世の中はクリスマスということで、一晩中ツリーのネオンが町に溢れています。また今日は総選挙の日です。自らの一票に、この国の希望を託す人々もいるでしょう。しかし人がみことばによって、ほんものの光を受けないのであれば、どんなに夜を明るくしても、どんなに社会を良くしようと叫んでも、心の暗やみは決して晴れることがありません。ただ聖書のことばだけが、暗やみの支配する地上で生きる人々に、ほんものの希望を与えることができるのです。

 どんな暗やみが支配しているところも、神の御手が差し伸ばされないところはないのです。9章1節で、聖書は劇的にこう語ります。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた」。異邦人のガリラヤは光栄を「受けた」。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を「見た」。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が「照った」。「受けた」「見た」「照った」と、すべて過去形で繰り返されます。イザヤの目には、このガリラヤに生きる人々の上に大きな光がさす光景が、すでに起こったこととして鮮やかに映っていたのです。人は時間の中で生きる存在であり、この苦しみがいつまで続くのか、と考えます。時がくれば苦しみが去るに違いない、とむなしい希望を抱きます。そしていつまで経っても暗やみが夜明けに変わらないのを見て、天をのろう。しかし神の永遠の計画の中では、すでに暗やみは取り除かれている。現実がどんなに苦しみに満ちていようとも、この神の永遠の視点を持つことができれば、夜明けの光はすでにその人の上に差し込んでいるのです。

 では、その神の永遠の視点を私たちに与えてくれるのは何でしょうか。やはりみことばです。すべての人は草、草はしおれ、花は散る、しかし神の言葉は永遠に立つと聖書は言う。この神のことばだけが、私たちに永遠への視点を与えてくれます。この世には苦しみが多くあります。その苦しみの現実だけに目が奪われているならば、どんな慰めや励ましも気休めでしかありません。しかし私たちが聖書を通して、神がすでにその暗やみを取り除かれているということを知るならば、光栄を受けた、光が照ったということが逆に現実となるのです。ほんとうの希望とは地上の現実にではなく、この永遠の神のことばにこそあるということを今一度、味わいたいと願うのです。

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posted by 近 at 20:36 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.12.9「子故の闇、聖徒故の光」

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聖書箇所 ヨハネ8:12
 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 ちょうど一年前の12月11日の礼拝で、私は「母たちは分かち合う」という説教をしました。それは聖書の中に出てくるマリヤとエリサベツという二人の母の姿を、今日証しをしてくださった麻美さんと敬子さんに重ねたメッセージでありました。エリサベツは年老いた女性でしたが、神さまのあわれみによりヨハネという子供を授かります。そしてその半年後、エリサベツの親戚にあたるマリヤは、まだ処女でありましたが、神の子イエスを身ごもるという奇跡を経験します。同じように神のみわざを経験し、そしてそれを分かち合っていった二人の母の姿を、ちょうど数ヶ月の間をおいてそれぞれ胎の実を授かっていた麻美さんと敬子さんに重ねていました。ただ敬子さんがマリヤというのはいいのですが、麻美さんを老女エリサベツにたとえてしまったので、後で怒られないかとひやひやしながら語っていました。

 一年前、共にお腹を大きくして礼拝に通っていた二人の姉妹は、今年の3月、5月それぞれに神のみむねにより赤子を出産しました。片山愛花さんと片山祈詩さん。おそらく本人たちは今日のことを思い出すということはないでしょう。しかし二組の若き両親たち、そしてここに集った私たちはこの日を忘れてはなりません。愛花さんと祈詩さんは、神の約束の子供です。ヨハネとイエス様が後に成長して、それぞれが人類の歴史において誰も代わることのできない大切な使命を果たしました。同じように、今は二人の母の懐で安らいでいる愛花さんと祈詩さんも、神は特別の計画をご用意しておられます。二人の両親は、そのことを確信しているがゆえに、今日献児式を行いました。献児とは、文字通りわが子を神にささげることです。それは大人になったら牧師とか宣教師にしますという意味ではありません。愛花の人生は神さまのものです、祈詩の人生は神さまのものですと告白することです。親にとって、子供の人生は私のものではなく、神さまのものですと告白することは、信仰がなければ決断し得ないことです。

 じつに、いったいどれだけの親が、わが子の人生を自分のものと誤解し、その人生を誤らせてきたことでしょうか。今日の説教題を、私は「子故の闇」という言葉から始めました。もちろんこれは私の造った言葉ではなく、昔から日本に伝わる言葉です。なぜその言葉を、説教題に選んだのか。それは、たとえどんなに子を思う心を持っていたとしても、親は自分の経験や人生観により頼んでいるならば方向を誤ってしまいます。だからこそ聖書という、決して変わることのない、確かな規準をもって、子供を教え導いていただきたいと願うのです。「子故の闇」を白鳥の親子にたとえた、ある短い小説があります。大正時代の劇作家、秋田雨雀という人が書いた作品ですが、これを紹介しましょう。

 ある湖のほとりに白鳥の夫婦が住んでいました。二匹ともそれは美しい白鳥でしたが、彼らは二匹とも片目でした。しかし白鳥のこの夫妻は、何を見ても、何を話し合っても、ことごとく意見が一致したので、自分たちほど世の中を正しく見ている者はいないと信じて疑わなかったのです。やがてこの二匹の間に四羽のひなが生まれました。喜んだのも束の間、両親は四羽のひなを見て悲しく思いました。四羽とも二つずつの目を持っていたからです。

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2012.12.2「それは朝ごとに新しい」

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聖書箇所 哀歌3:19-24
19 私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
20 私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。
21 私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。
22 私たちが滅びうせなかったのは、【主】の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。
24 【主】こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。


 今日から、教会の暦は待降節に入ります。待降節、呼んで字のごとく、降誕を待ち望む季節ということですが、ときどき私は二十数年前のクリスマスの日を思い起こすことがあります。私が骨肉腫という病気と闘っていた、昭和61年のクリスマスです。その時、一年以上、大学病院での入院生活が続いていました。その前年のクリスマスには家に一時帰宅できましたが、その年はとても体力が落ちていて外泊どころではありませんでした。抗がん剤の点滴の管を見つめながら、隣の病室からクリスマスらしい曲が聞こえていました。3階の病室の窓からは見えていた空は、新潟らしい曇り空と、その向こう側に太陽がうっすらと透けて見える、そんな季節でした。ベッドの隣に座っていた母親が、「クリスマスなのにごめんね」と、自分のせいではないのに何度も謝っていたこともおぼえています。無言のまま空を見上げながら、そのとき私はひとつのことを願っていました。流れるように時間が過ぎていってほしい。今日が明日になればいい。明日があさってになればいい。一週間、一ヶ月。一年。どんどん時間が過ぎていってほしい。数年も経つ頃には、この闘病生活も終わっているだろうから。

 もうあの日から何十年も経ち、確かに闘病生活も終わりました。もう思い出す必要もないのに、なぜかあの年のクリスマスと、曇り空の向こうにうっすらと透けて見えた太陽の光景が記憶にこびりついて離れません。なぜでしょうか。それは、時間が早く過ぎればよいということだけを待ち望んでいたあの日の私に、本当に待ち望むというのはこういうことなんだよと聖書を開いて教えてあげたい思いに今も駆られるからです。おとなしい少年でした。親にも病院にも迷惑をかけないようにと、自分の心を押し殺して生きていました。でも心の中は乾いていた。時間が過ぎるのを忘れて外で遊び回るような少年でいたかった。しかしひたすら時間が過ぎるのを待ち続けるしかない数年間の入院生活でした。

 教会の一年間は、「待つ」という漢字が先頭に来る「待降節」から始まります。そして「待つ」とは、時間が過ぎるのをひたすら待つという消極的なものではなく、もっとはるかに積極的なものです。待降節のはじまりにあたり、旧約聖書の『哀歌』を私たちは開きました。『哀歌』は哀しみの歌と書きます。聖なる都エルサレムが外国の軍隊によって蹂躙される姿を見たとき、預言者エレミヤが流した涙、叫びと哀しみがこの『哀歌』の中には詰まっています。しかしそれほどの哀しみに満ちた書でありながら、この哀歌には「待ち望む」ことの本質が語られているのです。

 初めてこの最初の言葉に触れたとき、まるでかつての私自身の心を聖書が代弁してくれているかのように感じました。
「私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む」。
 もしかしたら、みなさんの中にもこの言葉と自分の人生を重ね合わせる人がおられるかもしれません。過去を振り返って思い出されるのは、哀しみと痛みの記憶だけ。だから過去を振り返りたくない。過去の日々を思い出したくない。
 しかし次の瞬間、エレミヤの言葉は逆転するのです。「私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む」と。苦味しか感じない過去を思い返して心が沈んでいたはずです。ところがその苦みを思い返す中で彼の言葉はこう変わっていきます。「それゆえ、私は主を待ち望む」と。なぜでしょうか。なぜ過去の苦味が、一瞬のうちに主を待ち望む希望へと変わりうるのでしょうか。

 それは、「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる」ということは、過去を見つめることからしかわからないからです。

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posted by 近 at 22:04 | Comment(0) | 2012年のメッセージ