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2012.12.2「それは朝ごとに新しい」

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聖書箇所 哀歌3:19-24
19 私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
20 私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。
21 私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。
22 私たちが滅びうせなかったのは、【主】の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。
24 【主】こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。


 今日から、教会の暦は待降節に入ります。待降節、呼んで字のごとく、降誕を待ち望む季節ということですが、ときどき私は二十数年前のクリスマスの日を思い起こすことがあります。私が骨肉腫という病気と闘っていた、昭和61年のクリスマスです。その時、一年以上、大学病院での入院生活が続いていました。その前年のクリスマスには家に一時帰宅できましたが、その年はとても体力が落ちていて外泊どころではありませんでした。抗がん剤の点滴の管を見つめながら、隣の病室からクリスマスらしい曲が聞こえていました。3階の病室の窓からは見えていた空は、新潟らしい曇り空と、その向こう側に太陽がうっすらと透けて見える、そんな季節でした。ベッドの隣に座っていた母親が、「クリスマスなのにごめんね」と、自分のせいではないのに何度も謝っていたこともおぼえています。無言のまま空を見上げながら、そのとき私はひとつのことを願っていました。流れるように時間が過ぎていってほしい。今日が明日になればいい。明日があさってになればいい。一週間、一ヶ月。一年。どんどん時間が過ぎていってほしい。数年も経つ頃には、この闘病生活も終わっているだろうから。

 もうあの日から何十年も経ち、確かに闘病生活も終わりました。もう思い出す必要もないのに、なぜかあの年のクリスマスと、曇り空の向こうにうっすらと透けて見えた太陽の光景が記憶にこびりついて離れません。なぜでしょうか。それは、時間が早く過ぎればよいということだけを待ち望んでいたあの日の私に、本当に待ち望むというのはこういうことなんだよと聖書を開いて教えてあげたい思いに今も駆られるからです。おとなしい少年でした。親にも病院にも迷惑をかけないようにと、自分の心を押し殺して生きていました。でも心の中は乾いていた。時間が過ぎるのを忘れて外で遊び回るような少年でいたかった。しかしひたすら時間が過ぎるのを待ち続けるしかない数年間の入院生活でした。

 教会の一年間は、「待つ」という漢字が先頭に来る「待降節」から始まります。そして「待つ」とは、時間が過ぎるのをひたすら待つという消極的なものではなく、もっとはるかに積極的なものです。待降節のはじまりにあたり、旧約聖書の『哀歌』を私たちは開きました。『哀歌』は哀しみの歌と書きます。聖なる都エルサレムが外国の軍隊によって蹂躙される姿を見たとき、預言者エレミヤが流した涙、叫びと哀しみがこの『哀歌』の中には詰まっています。しかしそれほどの哀しみに満ちた書でありながら、この哀歌には「待ち望む」ことの本質が語られているのです。

 初めてこの最初の言葉に触れたとき、まるでかつての私自身の心を聖書が代弁してくれているかのように感じました。
「私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む」。
 もしかしたら、みなさんの中にもこの言葉と自分の人生を重ね合わせる人がおられるかもしれません。過去を振り返って思い出されるのは、哀しみと痛みの記憶だけ。だから過去を振り返りたくない。過去の日々を思い出したくない。
 しかし次の瞬間、エレミヤの言葉は逆転するのです。「私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む」と。苦味しか感じない過去を思い返して心が沈んでいたはずです。ところがその苦みを思い返す中で彼の言葉はこう変わっていきます。「それゆえ、私は主を待ち望む」と。なぜでしょうか。なぜ過去の苦味が、一瞬のうちに主を待ち望む希望へと変わりうるのでしょうか。

 それは、「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる」ということは、過去を見つめることからしかわからないからです。

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posted by 近 at 22:04 | Comment(0) | 2012年のメッセージ