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2012.12.9「子故の闇、聖徒故の光」

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聖書箇所 ヨハネ8:12
 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 ちょうど一年前の12月11日の礼拝で、私は「母たちは分かち合う」という説教をしました。それは聖書の中に出てくるマリヤとエリサベツという二人の母の姿を、今日証しをしてくださった麻美さんと敬子さんに重ねたメッセージでありました。エリサベツは年老いた女性でしたが、神さまのあわれみによりヨハネという子供を授かります。そしてその半年後、エリサベツの親戚にあたるマリヤは、まだ処女でありましたが、神の子イエスを身ごもるという奇跡を経験します。同じように神のみわざを経験し、そしてそれを分かち合っていった二人の母の姿を、ちょうど数ヶ月の間をおいてそれぞれ胎の実を授かっていた麻美さんと敬子さんに重ねていました。ただ敬子さんがマリヤというのはいいのですが、麻美さんを老女エリサベツにたとえてしまったので、後で怒られないかとひやひやしながら語っていました。

 一年前、共にお腹を大きくして礼拝に通っていた二人の姉妹は、今年の3月、5月それぞれに神のみむねにより赤子を出産しました。片山愛花さんと片山祈詩さん。おそらく本人たちは今日のことを思い出すということはないでしょう。しかし二組の若き両親たち、そしてここに集った私たちはこの日を忘れてはなりません。愛花さんと祈詩さんは、神の約束の子供です。ヨハネとイエス様が後に成長して、それぞれが人類の歴史において誰も代わることのできない大切な使命を果たしました。同じように、今は二人の母の懐で安らいでいる愛花さんと祈詩さんも、神は特別の計画をご用意しておられます。二人の両親は、そのことを確信しているがゆえに、今日献児式を行いました。献児とは、文字通りわが子を神にささげることです。それは大人になったら牧師とか宣教師にしますという意味ではありません。愛花の人生は神さまのものです、祈詩の人生は神さまのものですと告白することです。親にとって、子供の人生は私のものではなく、神さまのものですと告白することは、信仰がなければ決断し得ないことです。

 じつに、いったいどれだけの親が、わが子の人生を自分のものと誤解し、その人生を誤らせてきたことでしょうか。今日の説教題を、私は「子故の闇」という言葉から始めました。もちろんこれは私の造った言葉ではなく、昔から日本に伝わる言葉です。なぜその言葉を、説教題に選んだのか。それは、たとえどんなに子を思う心を持っていたとしても、親は自分の経験や人生観により頼んでいるならば方向を誤ってしまいます。だからこそ聖書という、決して変わることのない、確かな規準をもって、子供を教え導いていただきたいと願うのです。「子故の闇」を白鳥の親子にたとえた、ある短い小説があります。大正時代の劇作家、秋田雨雀という人が書いた作品ですが、これを紹介しましょう。

 ある湖のほとりに白鳥の夫婦が住んでいました。二匹ともそれは美しい白鳥でしたが、彼らは二匹とも片目でした。しかし白鳥のこの夫妻は、何を見ても、何を話し合っても、ことごとく意見が一致したので、自分たちほど世の中を正しく見ている者はいないと信じて疑わなかったのです。やがてこの二匹の間に四羽のひなが生まれました。喜んだのも束の間、両親は四羽のひなを見て悲しく思いました。四羽とも二つずつの目を持っていたからです。

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posted by 近 at 10:36 | Comment(0) | 2012年のメッセージ