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2013.1.27「本当の恐れと偽りの恐れ」

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聖書箇所 ルカの福音書12章4-9節
 4 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。6 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。7 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。8 そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。9 しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。

 先日、古本屋を散策している中で、懐かしい本のタイトルが目に入ってきました。「てぶくろを買いに」という新美南吉の童話です。なぜ「手袋を買いに」が心に止まったかといいますと、その日私が手袋を忘れて外に出て来てしまったからです。それはさておき、本を開きます。主人公はきつねの母子(おやこ)。ある冬の朝、狐のぼうやは、お母さん、目に何か刺さったと訴えるところから始まります。じつはそれは太陽の光が外の雪に反射しているものでした。生まれて初めて雪景色をみた狐のぼうやは、そのまぶしさをまるで目に何か刺さったように感じたのでした。
 少しあらすじにお付き合いいただきたいと思います。お母さん狐は、坊やに言いました。それは雪よ。夜になったら町に行って毛糸の手袋を買いにいきましょうね。しかしいざ夜になり、町に近づくと、お母さん狐はがくがく震えてしまうのです。友達が人間に捕まってひどい目に遭わされたことを思い出し、一歩も歩けなくなってしまいます。お母さんは坊やの片方の手だけを人間の手に変えると、白銅貨2枚を握らせて、こう言いきかせました。「いい坊や、町へ行って、まるい帽子の看板がある家を探すのよ。それが見つかったらね、トントンと戸を叩いて、今晩はって言うの。そうするとね、中から人間が、すこうし戸をあけるからね、その戸の隙間から、こっちの手、ほらこの人間の手をさし入れてね、この手にちょうどいい手袋頂戴って言うのよ、決して、こっちのお手々を出しちゃ駄目よ」。「どうして?」と坊やの狐はききかえしました。「人間はね、相手が狐だと解ると、手袋を売ってくれないのよ、それどころか、つかまえて檻の中へ入れちゃうのよ、人間ってほんとにこわいものなのよ」。
 この話の続きは、みなさんよくご存じでしょう。言われたとおりに帽子屋の扉をとんとん叩いた狐の坊や、扉の隙間から洩れた店の光があまりにもまぶしいものだから、間違えて狐のほうの手を入れてしまいます。しかし帽子屋の主人は白銅貨が本物だとわかると、そのまま子狐の手にぴったりの手袋を渡しました。戻ってきた坊やは母親に「人間は全然こわくないよ」と言います。そしてこの物語は母狐がこうつぶやくところで終わるのです。「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」と。

 少し長く引用してしまいましたが、大人になってこの童話を読み返したときに、この母狐のことばがようやくわかりました。「人間はこわくて、悪い生き物」という思い込みにしばられている彼女は、じつは私たち人間の心そのものなのだと。先日のアルジェリアでのテロ事件は、みなさんも悲しい思いをもって受けとめられたでしょう。アルジェリアでのガスプラントに従事していた日本企業の関係者10名が犠牲になりました。イスラム原理主義の影響を受けた、アルカイダに関係しているテロ集団がその首謀者として公表されています。彼らは人質の首に爆弾をしかけて、みせしめに殺していったということも囁かれています。ある人は言うでしょう。イスラム原理主義ってイスラム教の一派でしょう。やっぱり宗教って怖いね、と。しかし自分が被害者になったわけでもないのに宗教って怖いねと簡単に言ってのける人の心もまた怖いと思います。いやむしろ、すべての宗教を十把一絡げにまとめてしまい、怖い怖いと避けて通る人の心のほうがテロよりもはるかに私たちの生活になじみのあるものであるぶん、危険さを感じます。「手袋を買いに」でソフトに描かれてはいるが、確かにそこに存在するのは、私たちを偽って食い物にしようとする、恐れの感情です。母狐は坊やに言います。私の友達が人間にひどい目に会わせられたんだよ、と。自分が当事者となったわけではない、しかし十把一絡げに「人間というのは恐ろしくて悪いやつなんだ」と思い込んでしまい、それを子供へと引き継いでいく。ただの童話を深読みしすぎと言われてしまうかもしれませんが、少なくとも新美南吉は狐が書きたくてこの童話を世に出したのではないでしょう。彼は人間を書いたのです。どんな人間にもある心の闇と壁が、小さな出会いを通して砕かれ、徐々に光さしていく、その希望を童話に託したのです。

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posted by 近 at 19:25 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.1.20「犠牲の報酬」

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聖書箇所 ヨハネの福音書4章46-54節
  46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。48 そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。52 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。

 以前、ある信徒の方がこんな経験を話してくださいました。休日に、まだ幼い自分の子どもが高熱を出した。急いでかかりつけの医者に行くと今日は休みだからと他の病院に回され、そこに行くとベッドの空きがないのでと、何十キロも離れた大きな救急病院を紹介された。しかしそこでその親御さんは病院に頭を下げた。そこまで行く時間はありません。どうか子供を診てください。何度も頭を下げると、病院側も対応してくれた、と。細部は違っているかもしれませんが、私がその話を聞いて思わされたのは、親は子供のためならば何でも捨てられるということでした。いつかの説教で「子故の闇」という言葉を紹介しましたが、しかし子のためだったら私のプライドなどいくらでも捨ててやる、というのが親の変わらない姿。46節、47節をもう一度お読みしたいと思います。
 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。

 「王室の役人」の「王室」とは、当時ガリラヤを支配していた国主ヘロデ・アンテパスであろうと思われます。この王は、降誕物語に出てくるヘロデ大王の息子にあたりますが、自分の不品行を公然と批判したバプテスマのヨハネを殺害したのもこのアンテパスでした。イエス様が後にこのアンテパスを「あの狐」とさえ呼んでおられるほどの悪王でした。聖書にははっきりと書いていませんが、そのアンテパスに仕える役人が、イエス様にわが子のいやしを求めるのは、とても勇気のいることだったでしょう。公に人々の前でイエスのいやしを求めることは、自分の主人であるアンテパスに伝わることを覚悟しなければなりません。そしてそれは最悪、この役人の命が奪われる結果になるかもしれません。しかし今、自分の息子が死にかかっている。息子の命と引き替えに、彼は自分の地位、プライド、そして自分の命を捨てました。そしてカナから数十キロ離れたカペナウムから、イエスのもとへやってきたのです。どうか私の子どもが死なないうちに下ってきてください、と求めるために。

 新約聖書には、イエスにいやしを求める数多くの人々が登場します。彼ら彼女らに共通しているのは、大なり小なり、みな犠牲を払って主に近づいているということです。例えば、自分の娘のいやしを願ったツロ・フェニキアの女性がいました。この地方の人々はユダヤ人からは混血として軽蔑されていました。しかし彼女もまた、自分の娘のためにプライドを捨てて主に近づいたのです。逆に、ユダヤ人だが同じように自分の娘のいやしを願った会堂管理者ヤイロがいました。当時、ユダヤ人の宗教指導者がイエスを敵視していた中で、会堂管理者であるヤイロが置かれた立場は極めて困難なものでした。しかし彼もまた、自分の娘のために地位も命も捨てました。他にも長血の女性、ローマの百人隊長、盲人バルテマイなど、イエスにいやされた人たちを挙げればきりがありません。しかし共通しているのは、彼らは富、地位、偏見、葛藤、敵意、およそ私たちが神に近づくことを妨害するあらゆるものを捨てて、主に近づいているのです。そしてそのように犠牲を払って近づく人を、イエスが手ぶらで追い返したという記録は聖書には決してありません。


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posted by 近 at 17:33 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.1.13「キリストがあなたの中に」

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聖書箇所 コリント人への手紙 第一12章14-27節
14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 猫の手も借りたいほど忙しい、という言葉がありますが、そんなときこう考えることはないでしょうか。「ああ、もうひとつ自分のからだがあればいいのになあ」。今日は、そんな願いを叶えてもらったある人の話から始めたいと思います。といっても、実在の人物でも、有名な文学小説でもありません。マンガ「ドラえもん」に出てくるのび太少年の話です。

 今日もたくさんの宿題を出されたのび太くん。ガキ大将からはサッカーのメンバーが足りないから早く来いとおどされ、必死になって宿題にとりかかっていたところ、お母さんからもおつかいを頼まれます。そこでのび太くん、つぶやきました。「もうひとつ自分のからだがあればいいのに。そんな道具はないかなあ?」そこで「あるよ」と言ってドラえもんが取り出したのは、手術台に大きな回転のこぎりがついているような形をした未来の道具、「人間切断機」。怯えるのび太くんにドラえもんは一切の説明もなく、あっという間にのび太くんは腰から上と下に分けられてしまいます。
 腰から上だけののび太くんは、机の上で宿題を続け、腰から下ののび太くんはお使いに行ったりサッカーに加わったりします。ところがやがて腰から下ののび太くんはこう考えるようになるのです。いつも道で転んだり、つまずいたりしてみんなからバカにされるのは、腰から上に重いものが乗っかっているせいだ。お菓子を食べるのはいつも上の口。テレビを見るのも上の目と耳。不公平じゃないか。もうあんな生活はまっぴらだ。そして腰から下ののび太くんは、そのまま家出してしまうのです。

 まるで今日の聖書箇所を彷彿とさせる内容ではないでしょうか。パウロがこの手紙を書いたコリント教会の中にも、このような不満が溢れていたのです。教会の中で、奇跡的な賜物を持っていた人たちだけがほめそやされ、目立たず、地道な人々は見下されていました。もしかしたら、現代の教会にも同じようなことがあるかもしれません。人の目につきやすい奉仕や働きには皆が感謝するが、そうではないものには関心が寄せられない。あるいは教会だけではなく、家庭にもあるかもしれません。「わし族症候群」という言葉があります。定年直後のサラリーマンが陥りやすいもので、自分ばかりがヒマをもてあまし、忙しく活動している家族を見ると、つい「わしが今まで食わせてやったのに」とか「わしが働いてきた金で、みんな好き勝手しているくせに」と、「わしが」「わしが」と家族を責め始める。そして家族から嫌われる。

 少なくとも教会においては、私たちが忘れてはならないことがあります。それは、すべての奉仕は「私が仕えるのではなく、私の中に生きておられるキリストが仕えておられるのだ」ということです。週報を見ると、礼拝司会、集会当番、音響、掃除と色々な奉仕が書いてあります。ここに書かれている名前の方々は、自分はこの奉仕を通して神に仕えているのだと考えるでしょう。それは半分だけ正解です。私ではなく、私の中に生きておられる神が、私の賜物を通して働かれるのです。神が司会をされます。神が集会当番をされます。神がトイレ掃除をされます。奉仕とはそういうことなのです。だからこそ、神はそれぞれの奉仕者にふさわしい賜物を与えてくださいます。私にはできない、とかあの人だけどうして、と賜物を批判することは愚かなことです。私ではなく、神が私を通して仕えられるのだという思いをもって、教会を建て上げていきましょう。

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posted by 近 at 21:08 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.1.6「まことのぶどう酒」

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※礼拝説教の前に、フィジーから日本に来ている、ジム・ブラウン兄の証しがありました。(通訳は、客会員の渡辺アロマ姉)




聖書箇所 ヨハネの福音書2章1-11節
  1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──彼は、花婿を呼んで、10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 今日はジム・ブラウン兄が英語で証しをしてくださいました。通訳をしてくださった渡辺アロマ姉にも感謝いたします。フィジーの公用語は英語とフィジー語の両方だそうで、インターネットで調べると、旅行者は次の二つのフィジー語だけはおぼえておけということでした。「こんにちは」の「ブラ」、「ありがとう」の「ビナカ」、この二つをおぼえて、あとは笑顔で乗り切れるのがフィジー!だそうです。ジムが言葉の壁を乗り越えて私たちにいつもクリスチャンスマイルを与え続けてくれたことに「ビナカ」。たった二つの言葉を覚えるだけで、何かフィジーに飛んで行けそうな気がします。

 一方で、一つの言葉が私たちの信仰をつまずかせるということもあります。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方」。えっ、これがイエス様がお母さんに言った言葉なの?なんか聖家族のイメージががらがらと崩れていくような、イエス様の言葉です。しかし最後の呼びかけに注目しましょう。「女の方」という言葉です。ギリシャ語では「ギュナイ」というこの単語は、新約聖書の中に215回出て来ます。とうてい調べ切れる数ではありません。しかしイエス様が母マリヤにギュナイと呼びかけている場面が、聖書の中にもう一箇所だけあります。それは、イエス様が十字架の上から母と、その傍らにいる弟子に呼びかける場面です。ヨハネ19章26節、「女の方。そこに、あなたの息子がいます」。

 婚礼の席と、十字架の上で、共に母マリヤに投げかけられた「女の方」という呼びかけ。これはただの偶然でしょうか。そうではありません。イエスは婚礼の席で、すでに十字架を見つめておられたのです。そう考えると、私たちにつまずきを与え兼ねないイエス様の言葉が、むしろ十字架に対する決意なのだとわかってくるのです。「あなたは私と何の関係があるのでしょう、女の方」。母よ、あなたには今は見えないが、やがて見えてくるものがあります。母よ、あなたには今隠されているが、やがてあなたの前に現れてくるものがあります。それが私が進もうとしている十字架です。母よ、今あなたは婚礼客の杯に注がれるべきぶどう酒がないことに気づかれましたね。わたしは彼らにぶどう酒を与えましょう。でもそれは飲んでもすぐに渇きます。しかしわたしは、やがて来たる十字架での「わたしの時」には、永遠に渇くことのないぶどう酒を人々に与えましょう。人の心に永遠の活力と喜びを与える、まことのぶどう酒を。

 聖書は、マリヤが手伝いの人々にこう言ったと記録します。「あの方の言われることを、何でもしてあげてください」。息子の一見拒絶と見える言葉の中に、母は見いだしたのです。かつて彼女が預言者シメオンから伝えられていた、十字架への悲しみの道を。そして私たちはマリヤのこの言葉から学ぶべきです。もし彼女が前もってこれらの手伝いの者たちに伝えていなければ、水をぶどう酒に変える奇跡は人々に届けられなかったのです。


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posted by 近 at 19:26 | Comment(0) | 2013年のメッセージ