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2013.2.24「顔と顔を合わせて(face_to_face)」

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聖書箇所 マルコの福音書5章25-34節
  25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

 今日の私がいつもと違うことに気づいてくださった方はおられますでしょうか。眼鏡です。いつもの眼鏡をどこかへなくしてしまったので、しかたなく前の眼鏡をかけています。いつもの眼鏡はふちなしですが、これは視界にフレームが入ってしまいますのでちょっとかけづらい。笑い話ですが、縁なし眼鏡を初めてかけたとき、眼鏡をかけていることを忘れて眼鏡を一生懸命探していたことがあります。
 そして人生にも同じようなことはないでしょうか。何かを得るために一生懸命求めている中で、じつは本当に必要なものは全然別のものだったということがあるのです。それがこの女性でした。あなたは何を求めているのですか。もし彼女に問えば「病気が治ること」と答えたでしょう。そのためにイエス様に近づいてきたのです。彼女が求めていたものは健康です。しかし彼女が必要としていたものは、彼女自身も気づいていないものでした。健康ではなく「いのち」です。脳や心臓が活動するという意味のいのちではありません。たとえ病気の連続でも人生に溢れてくる、永遠のいのちが伴う人生の喜びです。
 この12年間、彼女は傷つけられて生きてきました。傷つけたのは医者だけではありません。当時のイスラエルでは、長血の女性はけがれた罪人であり、関わるならば誰でも汚れるとされていました。彼女をひどい目に会わせていたのは医者だけでなく、イスラエルの狭い社会そのものです。医者からは食い物にされ、人々からはつまはじきにされてきた彼女が本当に必要としていたのは、健康の回復以上に、人としての尊厳の回復です。道行く人たちに笑顔を向け、「おかげさまで」と自然に口から出てくるような、心の平安です。そしてそれを与えてくれるのはただイエス・キリストとの出会いだけだということを知っていただきたいのです。

 この女性にとって、イエス様の前に出て行くどころか、群衆に紛れてイエス様に近づくことさえも非常に勇気のいることでした。もし汚れた女性がそこにいるということがわかってしまったら、群衆は彼女に黄色い歯をむき出し、石もて彼女を追い払おうとするでしょう。その危険におびえながら、それでも彼女はイエス様だけが自分をいやしてくれるという確信をもって行動します。27節から29節をお読みします。
彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

 クリスチャンの方は、今までもどこかでこの箇所からの説教を聞いたという方もいるでしょう。そしてもしかしたらそこで語られたことは「あなたも、この長血の女性のように熱心な信仰をもってイエスに近づきなさい」というものではなかったでしょうか。そうです、確かにイエス様は彼女に対して「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。
 しかし次はクリスチャンではなく、求道者の方々にこうお聞きしましょう。「キリストの着物に触ることができれば、きっと直る」という一途な思い、それが信仰なのだという主張に納得できますか、という質問です。多くの求道者は、キリスト教には他の宗教にない真理があると考えて、教会に来て説教を聞いておられるのでしょう。仏教や神道には、百回お参りすれば願いが叶うという、いわゆるお百度参りと言われる教えがあります。多くの新宗教、新々宗教も、その教祖は熱心な修行の末、悟りを得たと主張します。そのようなはじめに熱心ありきという他の宗教と、着物に触りさえすればという聖書の教えはどう違うのでしょうか。
 間違えていけないのは、彼女の一途な行動がイエス様から力を引き出したのだ、これこそ信仰だという発想です。聖書によれば、救いとはイエス様が神の子であり、私の贖い主であることを告白する信仰によるのであり、決してイエス様のお着物や髪の毛に触ることではありません。ではなぜこの女性がイエス様の着物のすそに触ったときに彼女は直ったのでしょうか。それは一方的なあわれみです。父なる神の御力が、イエス様のみからだを通して働き、彼女を救いへの入口に立たせてくださったのです。説教の初めにこう問いかけました。彼女にとって本当に必要なものは何だったでしょうか。長血の病がいやされれば、それが救いなのか。そうではないでしょう。12年間、あらゆる人々に傷つけられ、避けられてきた人生そのものが回復しなければなりません。それまでの12年間さえも感謝をもって受けとめられる、心のいやしが起こらなければならないのです。それこそが彼女に必要なものだったのです。彼女は気づきません。しかしイエス様は気づいておられました。だからこそ、彼女をそのまま人混みの中に去らせようとなされなかったのです。

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posted by 近 at 20:33 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.2.17「大いなる山よ、お前は何者だ!」

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聖書箇所 ゼカリヤ書4章1-7節
  1 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。
2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」4 さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」5 私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる。7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」


序:
 この教会で奉仕をさせて頂いてから、もう2年が過ぎようとしています。この2年間は一生忘れられない恵みの時であり、ここに導いてくださった主と、こうして温かく迎えてくださった皆さんに心から感謝しています。
この教会で私はたくさんのことを学ばせていただきましたが、中でも、主にあって喜んで仕えておられる皆さんの姿を通して、献身ということの意味を深く考えさせられました。
 神様にあって生きる者、信仰者にとって一番大切なことは、神と共にあることではないでしょうか。私たちはしばしば、ぶどうの木の枝に例えられます。ぶどうの枝にとって幹につながっていることが、いのちの根源であり、枝が幹から離れては実を結ぶことができません。 
 花の中でもひときわ美しいとされるバラの花は、接ぎ木のできる花のひとつです。接ぎ木の目的とは何でしょうか。
野生のバラの花は美しくないかもしれませんが、生命力がとても強く、やせた大地でも逞しく生きることができます。一方温室のバラは美しく奇麗な花を咲かせますが、病気に弱く、虫がつきやすく、手入れが大変です。その温室のバラを野生種のバラに接ぎ木すると、その野生種のバラから、生命力溢れる樹液が流れ込んできて、美しい上に、強い性質のバラができる。
私たちはこの温室に咲く弱いバラです。そのままでは病気になり、虫にもすぐに食べられてしまいます。イエス様という幹からの溢れるいのちの樹液を注がれてこそ、生命力に溢れた信仰生活と、それに伴う豊かな実を結ぶことができるのです。

本:
 1)、背景
 今日の聖書箇所は、あまり馴染みがない箇所かもしれませんが、旧約聖書の小預言書の一つ、ゼカリヤ書、第4章1〜7節のみことばです。
ソロモンの建てた神殿は、神の民の度重なる不信仰によって、紀元前586年、バビロン帝国によって滅ぼされ、民はバビロンへ連行されました。しかしその70年後、神は再び、ご自分の民を故郷エルサレムに帰らせ、神殿の再建を命じられます。その時に主によって立てられた二人の指導者が、祭司ヨシュアと総督ゼルバベルでした。しかし工事は、敵対者たちによって妨害され、15年間もの間、工事の中断を余儀なくされます。神様によって立てられた二人の指導者は、その危機的状況の中で、肝心の指導力を発揮できず、民は、次第に神殿再建の熱意を失い、神殿が完成すること疑い始めました。そのような状況下にハガイとゼカリヤという2人の預言者が、神様から遣わされ、祭司ヨシュアと総督ゼルバベルにみことばを与え、励まし、工事を再会させるのです。

2)、金の燭台
1〜5節、
 ゼカリヤは8つの幻を見ますが、これは5番目の幻、「金の燭台」のまぼろしです。
「金でできている一つの燭台」は、“神の民”を指します。広い意味では“教会”を指すという解釈もあります。燭台には本来、暗闇を照らす目的、使命があります。金は不純物が取り除かれた状態、つまり聖さを表します。神様にとって神の民は、純金のように、美しく、高価で尊いという存在であると言えるでしょう。
上部には鉢があり、その鉢の上には「七つのともしび皿」に「七つの管」がそれぞれについています。聖書の数の7は完全数を表し、その倍数なので、これ以上ない完全さを表します。「七つの管」に灯心がそれぞれについている。つまり49個分の明かりが灯るので非常に明るくなるという意味です。
さらに、「二本のオリーブの木」がその鉢の左右についています。オリーブ木から採れるオリーブ油が直接、その鉢に注がれ、それによって絶えず火を点すことが可能となります。
神の民は、聖く、全き者、神に愛された存在として、この暗闇の世界に対し、燭台の役目を果たしていくようにと召されています。そしてこの世に光を放つためには、私たち一人一人が、通り良き管となって、つきない油である、聖霊の力を絶えず受け続けなければならないことを、この幻は示しています。

3)、6~7節  二つの道、(広い道)
 私たちは神様を信じて救われ、それでそく、天国に行けるかといったら、そうではありません。私たちは地上での生涯を、もういいよと言われるまで、歩まなくてはなりません。そこには2つの道が用意されています。一つは広い道、もう一つが狭い道です。私たちは絶えず、このどちらかを選択しなくてはなりません。広い道は、分かりやすく、見つけやすい道なので、自分の力で楽に歩み出せます。一方の狭い道は、見つけにくく、自分一人の力では歩むのが困難な道です。これが6節の、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」歩む道です。困難な中にも、聖霊と共に歩む道、神様の用意された祝福の道です。
しかし私たちの多くが、自分では狭い道を歩んでいると思っていても、実は広い道を選んでしまっていることがあります。とりわけ目の前に立ちはだかる壁に直面するとき、自分で考えた安全と思える道、楽な方、広い道を選ぶのです。


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posted by 近 at 19:22 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.2.10「破れ口に立つ教会」

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聖書箇所 エゼキエル書22章23-31節
 23 次のような【主】のことばが私にあった。24 「人の子よ。この町に言え。おまえは憤りの日にきよめられず、雨も降らない地である。25 そこには預言者たちの陰謀がある。彼らは、獲物を引き裂きながらほえたける雄獅子のように人々を食い、富と宝を奪い取り、その町にやもめの数をふやした。26 その祭司たちは、わたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚し、聖なるものと俗なるものとを区別せず、汚れたものときよいものとの違いを教えなかった。また、彼らはわたしの安息日をないがしろにした。こうして、わたしは彼らの間で汚されている。27 その町の首長たちは、獲物を引き裂いている狼のように血を流し、人々を殺して自分の利得をむさぼっている。28 その町の預言者たちは、むなしい幻を見、まやかしの占いをして、しっくいで上塗りをし、【主】が語られないのに『神である主がこう仰せられる』と言っている。29 一般の人々も、しいたげを行い、物をかすめ、乏しい者や貧しい者を苦しめ、不法にも在留異国人をしいたげた。30 わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。31 それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行いを返した。─神である主の御告げ─」

 今日は「破れ口に立つ教会」というタイトルで説教させていただきますが、これは今年の教会の目標聖句として総会資料に書かせていただくものです。まず聖書箇所から「破れ口」について語りましょう。破れ口とは、町を取り囲む城壁に空いた穴のことです。それは落ちたら命がないほどの高い所にあります。そこに辿り着くまでに幾多の危険を冒さなければならないような所にあります。業者を呼んですぐに直せるような穴ではなく、いのちを落とすことを覚悟してでも、それでも真っ先に直さなければならないのが「破れ口」です。なぜならその穴の場所が敵に知られれば、敵は必ずそこを狙ってくる。どんなに高く城壁を築いても、穴が狙われたらひとたまりもありません。破れ口はどんな犠牲を払ってでも直さなければならないもの、しかしエゼキエル書では何と言われているでしょうか。神さまはため息をもらします。「わたしはこの国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった」。

 誰も直そうとしない。誰も目を向けようとしない。エルサレムに住まう誰もが、「安全だ、安全だ」とばかり言っていました。神が私たちを守ってくださる。私たちは選ばれた民なのだから、と。しかし彼らは大きな思い違いをしていました。エルサレムを滅ぼすのは他の国々ではない。神ご自身なのだ。30節で神はこう言われます。「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは破れ口を修理する者を捜し求めた」。ある意味、矛盾する言葉であるかもしれません。この国を滅ぼすお方が、この国の穴を修理する者たちを捜し求めるとは。しかし決して矛盾ではないのです。敬和学園高校が太夫浜にできたとき、創立者である故太田俊雄先生はこのように祈ったそうです。「もしこの学校が、神の聖名を汚し、神の聖旨にそむいて、〈右や左に曲る〉ようなことがあったら、どうか聖名の栄光のために、学園をつぶしてください」と。神の民、そして教会が神のみこころからそれていくならば、最後には神ご自身が彼らを滅ぼされます。
 しかしエルサレムの現実はどうだったでしょうか。預言者たちは口当たりのよい約束を語るばかりで、破れ口を修理するどころかしっくいで上塗りをして、問題を隠すだけであった。祭司は、霊的な破れ口がぽっかり開いていることを語らなければならないのに、きよさを教えることもなく、あまつさえ自分自身が安息日を守らなかった。王や首長たちは民のことなどに目をとめず、自分の利得をむさぼった。そして一般の民たちも、不法に在留異国人をしいたげ、乏しい者、貧しい者を苦しめた。すべての者が破れ口を見ようとしない。一人としてそれを修理しようとする者がいない。

 昨年、私たち豊栄キリスト教会は設立40年の節目の年を迎えました。教会の内外に「破れ口」と呼ぶべきものが開いていることにも、私たちは目を向けなければなりません。教会は、開拓伝道の賜物を豊かに与えられた牧師夫妻によって30年間、導かれてきました。きちんと残された教会総会や役員会の議事録、週報や月報、それらはこの教会がまことに祝福された群れであったことをうかがわせます。しかし教会はいつのまにか変質してしまったのです。当初の救霊の情熱が、保身への努力にすり替わりました。みことばを忠実に語り、聞いてきたのに、律法主義がいつのまにか生活を支配するようになりました。神が与えてくださった自由を忘れ、信仰生活が束縛と不安に変わってしまったのです。共に救いを喜び合ったはずの人々が交わりにつまずき、教会を離れていきました。これは決して個人攻撃ではありません。攻撃しているとすれば、それは不都合な過去を忘れようとする私たち自身の心に対してです。できれば覆い隠したい事実は、いったい誰が語り伝えることができるのでしょうか。それは、経験した者が悔い改めをもって書き表すこと以外にはできないのです。

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posted by 近 at 17:02 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.2.3「造り、触り、きよめる」

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聖書箇所 ヨハネの福音書9章1-7節
 1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 東京・浅草にある浅草寺には、本堂の前に「おたきあげ」と言われる、大きな鉄の鉢があります。その中には線香が何本も指してあって、参拝のご老人方がその白い煙をこうやってかぶっている様子を、テレビなどで見たことがある方もいるでしょう。これは中国の道教の影響で、線香の煙が体の中の悪いものを直したり、追い出してくれるという言い伝えによるそうです。もしかしたら今日の聖書箇所でイエス様が盲人の瞼に泥を塗りつけたのも、線香の煙を痛い所にすりつけるのと同じようなものと受けとめられてしまうことがあるかもしれません。しかしイエス様のつばきに力があるわけでも、それでこねられた泥に力があるわけでもありません。なぜことばだけで人を生き返らせ、ことばだけで嵐を静めることのできる方が、あえてことばではなく泥をこの人の瞼に塗るという行動に至ったのか。ことばが神となられたというそのお方が、なぜことばではなく泥を用いられたのか。今日はそのことについてみことばから共に考えていきたいと思うのです。

 最初に私たちは、この盲人の心の中を見つめるところから始めていきましょう。この人は、生まれつき目の見えない人でした。そして弟子たちは彼に容赦ないことばを浴びせます。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。ひどいことばです。弟子たちはひそひそ声でイエス様に質問したのでしょうか。しかしどんな小さな声でも、この盲人には聞こえていたでしょう。生まれつき目の見えない人が、物乞いをして生きていくためには、目以外の感覚を研ぎ澄ます以外にありません。この人の心に近づくために、目を閉じて、自分が道ばたに座り込んでいると想像してみましょう。様々な音が聞こえ、様々な気配を感じます。道をあるく牛馬のいななき。子供たちがあたりを駆け回る足音。店の前に立ち止まる人々のとりとめもない会話。盲人はその様々な音をすべて拾い集める中で、どの方向に向かって作り笑いを浮かべたらよいのかを探ります。たとえ目の前に立っているのが、自分を人間としてではなく、罪の原因についての議論の材料としか見ない人々であっても、瞼の開かない顔を向けて、作り笑いを浮かべながら、施しを待つ。耳は何も聞き逃すまいとそばだてながら、しかし心はかたくなに閉ざす。どんなにひどいことを言われているとわかっても、心は殺す。そうしなければ生きていけない。それがこの人の、闇に閉ざされた心の姿です。

 弟子たちにとっては罪とは何かという材料に過ぎない盲人を、イエス様はあわれみをもって人として見つめておられました。この人の心に、何とかして光を届けたいと願っておられました。だからこそ、ことばではなく泥が必要だったのです。確かに、イエス様のみことばはどんな人をもいやします。しかし心を殺し、どんなことばも、聞いてはいても決して受け入れないならば、ことばの前にまず行動が必要です。今日の説教題はそのために主イエスがなされたことを表しています。「造り、触り、きよめる」。そのひとつ一つを見ていきましょう。

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posted by 近 at 20:07 | Comment(0) | 2013年のメッセージ