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2013.2.3「造り、触り、きよめる」

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聖書箇所 ヨハネの福音書9章1-7節
 1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 東京・浅草にある浅草寺には、本堂の前に「おたきあげ」と言われる、大きな鉄の鉢があります。その中には線香が何本も指してあって、参拝のご老人方がその白い煙をこうやってかぶっている様子を、テレビなどで見たことがある方もいるでしょう。これは中国の道教の影響で、線香の煙が体の中の悪いものを直したり、追い出してくれるという言い伝えによるそうです。もしかしたら今日の聖書箇所でイエス様が盲人の瞼に泥を塗りつけたのも、線香の煙を痛い所にすりつけるのと同じようなものと受けとめられてしまうことがあるかもしれません。しかしイエス様のつばきに力があるわけでも、それでこねられた泥に力があるわけでもありません。なぜことばだけで人を生き返らせ、ことばだけで嵐を静めることのできる方が、あえてことばではなく泥をこの人の瞼に塗るという行動に至ったのか。ことばが神となられたというそのお方が、なぜことばではなく泥を用いられたのか。今日はそのことについてみことばから共に考えていきたいと思うのです。

 最初に私たちは、この盲人の心の中を見つめるところから始めていきましょう。この人は、生まれつき目の見えない人でした。そして弟子たちは彼に容赦ないことばを浴びせます。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。ひどいことばです。弟子たちはひそひそ声でイエス様に質問したのでしょうか。しかしどんな小さな声でも、この盲人には聞こえていたでしょう。生まれつき目の見えない人が、物乞いをして生きていくためには、目以外の感覚を研ぎ澄ます以外にありません。この人の心に近づくために、目を閉じて、自分が道ばたに座り込んでいると想像してみましょう。様々な音が聞こえ、様々な気配を感じます。道をあるく牛馬のいななき。子供たちがあたりを駆け回る足音。店の前に立ち止まる人々のとりとめもない会話。盲人はその様々な音をすべて拾い集める中で、どの方向に向かって作り笑いを浮かべたらよいのかを探ります。たとえ目の前に立っているのが、自分を人間としてではなく、罪の原因についての議論の材料としか見ない人々であっても、瞼の開かない顔を向けて、作り笑いを浮かべながら、施しを待つ。耳は何も聞き逃すまいとそばだてながら、しかし心はかたくなに閉ざす。どんなにひどいことを言われているとわかっても、心は殺す。そうしなければ生きていけない。それがこの人の、闇に閉ざされた心の姿です。

 弟子たちにとっては罪とは何かという材料に過ぎない盲人を、イエス様はあわれみをもって人として見つめておられました。この人の心に、何とかして光を届けたいと願っておられました。だからこそ、ことばではなく泥が必要だったのです。確かに、イエス様のみことばはどんな人をもいやします。しかし心を殺し、どんなことばも、聞いてはいても決して受け入れないならば、ことばの前にまず行動が必要です。今日の説教題はそのために主イエスがなされたことを表しています。「造り、触り、きよめる」。そのひとつ一つを見ていきましょう。

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posted by 近 at 20:07 | Comment(0) | 2013年のメッセージ