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2013.2.10「破れ口に立つ教会」

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聖書箇所 エゼキエル書22章23-31節
 23 次のような【主】のことばが私にあった。24 「人の子よ。この町に言え。おまえは憤りの日にきよめられず、雨も降らない地である。25 そこには預言者たちの陰謀がある。彼らは、獲物を引き裂きながらほえたける雄獅子のように人々を食い、富と宝を奪い取り、その町にやもめの数をふやした。26 その祭司たちは、わたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚し、聖なるものと俗なるものとを区別せず、汚れたものときよいものとの違いを教えなかった。また、彼らはわたしの安息日をないがしろにした。こうして、わたしは彼らの間で汚されている。27 その町の首長たちは、獲物を引き裂いている狼のように血を流し、人々を殺して自分の利得をむさぼっている。28 その町の預言者たちは、むなしい幻を見、まやかしの占いをして、しっくいで上塗りをし、【主】が語られないのに『神である主がこう仰せられる』と言っている。29 一般の人々も、しいたげを行い、物をかすめ、乏しい者や貧しい者を苦しめ、不法にも在留異国人をしいたげた。30 わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。31 それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行いを返した。─神である主の御告げ─」

 今日は「破れ口に立つ教会」というタイトルで説教させていただきますが、これは今年の教会の目標聖句として総会資料に書かせていただくものです。まず聖書箇所から「破れ口」について語りましょう。破れ口とは、町を取り囲む城壁に空いた穴のことです。それは落ちたら命がないほどの高い所にあります。そこに辿り着くまでに幾多の危険を冒さなければならないような所にあります。業者を呼んですぐに直せるような穴ではなく、いのちを落とすことを覚悟してでも、それでも真っ先に直さなければならないのが「破れ口」です。なぜならその穴の場所が敵に知られれば、敵は必ずそこを狙ってくる。どんなに高く城壁を築いても、穴が狙われたらひとたまりもありません。破れ口はどんな犠牲を払ってでも直さなければならないもの、しかしエゼキエル書では何と言われているでしょうか。神さまはため息をもらします。「わたしはこの国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった」。

 誰も直そうとしない。誰も目を向けようとしない。エルサレムに住まう誰もが、「安全だ、安全だ」とばかり言っていました。神が私たちを守ってくださる。私たちは選ばれた民なのだから、と。しかし彼らは大きな思い違いをしていました。エルサレムを滅ぼすのは他の国々ではない。神ご自身なのだ。30節で神はこう言われます。「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは破れ口を修理する者を捜し求めた」。ある意味、矛盾する言葉であるかもしれません。この国を滅ぼすお方が、この国の穴を修理する者たちを捜し求めるとは。しかし決して矛盾ではないのです。敬和学園高校が太夫浜にできたとき、創立者である故太田俊雄先生はこのように祈ったそうです。「もしこの学校が、神の聖名を汚し、神の聖旨にそむいて、〈右や左に曲る〉ようなことがあったら、どうか聖名の栄光のために、学園をつぶしてください」と。神の民、そして教会が神のみこころからそれていくならば、最後には神ご自身が彼らを滅ぼされます。
 しかしエルサレムの現実はどうだったでしょうか。預言者たちは口当たりのよい約束を語るばかりで、破れ口を修理するどころかしっくいで上塗りをして、問題を隠すだけであった。祭司は、霊的な破れ口がぽっかり開いていることを語らなければならないのに、きよさを教えることもなく、あまつさえ自分自身が安息日を守らなかった。王や首長たちは民のことなどに目をとめず、自分の利得をむさぼった。そして一般の民たちも、不法に在留異国人をしいたげ、乏しい者、貧しい者を苦しめた。すべての者が破れ口を見ようとしない。一人としてそれを修理しようとする者がいない。

 昨年、私たち豊栄キリスト教会は設立40年の節目の年を迎えました。教会の内外に「破れ口」と呼ぶべきものが開いていることにも、私たちは目を向けなければなりません。教会は、開拓伝道の賜物を豊かに与えられた牧師夫妻によって30年間、導かれてきました。きちんと残された教会総会や役員会の議事録、週報や月報、それらはこの教会がまことに祝福された群れであったことをうかがわせます。しかし教会はいつのまにか変質してしまったのです。当初の救霊の情熱が、保身への努力にすり替わりました。みことばを忠実に語り、聞いてきたのに、律法主義がいつのまにか生活を支配するようになりました。神が与えてくださった自由を忘れ、信仰生活が束縛と不安に変わってしまったのです。共に救いを喜び合ったはずの人々が交わりにつまずき、教会を離れていきました。これは決して個人攻撃ではありません。攻撃しているとすれば、それは不都合な過去を忘れようとする私たち自身の心に対してです。できれば覆い隠したい事実は、いったい誰が語り伝えることができるのでしょうか。それは、経験した者が悔い改めをもって書き表すこと以外にはできないのです。

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posted by 近 at 17:02 | Comment(0) | 2013年のメッセージ