聖書箇所 ヨハネの福音書20章1-3、11-18節
1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。序.
11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
今日は教会暦でイースターと呼ばれる日です。教会の一年の中ではクリスマスと並んで重要な日と言えるでしょう。しかしクリスマスが毎年12月25日と決まっているのに対し、イースターは何月何日と決まっていません。私たちが通常使っているカレンダーは太陽暦ですが、イースターは太陰暦に基づいて決められています。太陰暦による春分の後の満月の直後の日曜日、舌をかみそうなこの計算のもとでイースターがいつになるかが決められています。そのように複雑な計算によって決められるイースターですが、意味そのものは極めて単純です。イエス・キリストが墓の中からよみがえられた日。それがイースターに他なりません。救い主が死んでしまったという悲しみが、救い主は生きておられるという喜びへと劇的に変わった朝。それがイースターです。悲しみは喜びに、涙は笑いに、嗚咽の声は高らかな讃美へと変わった日、それがイースターです。私たちは今日、喜びをかみしめながらこのイースターを過ごしたいと願います。たとえ私たちがどんな疲れや痛みの中であえいでいたとしても、キリストの復活をかみしめていくとき、そこに喜びがわき起こっていくことを聖書は教えています。私たちもその喜びにともにあずかっていきましょう。
1.墓を覗けば
11節、「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた」。このマリヤはイエスの母マリヤではなく、マグダラのマリヤです。イエスを救い主と信じ、十字架での最後も見届け、墓に納められる所までも付き従った女性でした。安息日が明けて朝早く墓に来たものの、墓の入り口が開いてイエスの亡骸がなくなっているというショックに泣き悲しむ姿から、今日の箇所は始まります。マリヤはイエスの亡骸が見あたらないという悲しみのどん底に突き落とされました。空っぽの墓を見に来た弟子たちも帰ってしまい、墓のそばには人の気配もありません。彼女は文字通り途方に暮れてたたずみます。誰かが私の主を取って行ってしまった。どこを捜したらよいのか。誰に頼ったらよいのか。マリヤは泣きながら、ただ墓の前で佇みます。しかし彼女はなぜしゃがみこまなかったのか。そこには主の守りがありました。悲しみの中で泣いてもいい。どれだけ泣いてもいい。しかししゃがみこんで顔を下に向けてしまったら、私たちの心もただ悲しみの中に沈み込んでしまう。マリヤはしゃがみこまなかった。どんなに涙が目から溢れても顔を下に向けず、立ち続けた。そしてその目は、やがて墓の入り口に一抹の光が差していることに気がついたのです。私たちもまた、人生で数え切れない涙を流します。愛する者と死に別れる時、夢や希望がうち砕かれる時、いったいどうすればよいかわからない、ただ涙を流すしかない、そんなときがあります。しかしどれだけ瞳が涙で覆われても、地面を見つめるのではなく天を仰いでいきたい。一度叩いても壊れなかった壁があれば、何度でも何度でも叩いていきたい。彼女が見つめた墓は、愛する主が消えてなくなってしまった場所でした。しかし彼女は心を奮い立たせ、もう一度その墓へと近づいた。泣きながら、涙を流しながら、それでももう一度墓の中をのぞき込んだとき、そこからマリヤへの特別な神のはからいが始まっていったのです。
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