最近の記事

2013.3.3「生まれてきてくれてありがとう」

<当日の週報はこちら

聖書箇所 マタイの福音書26章20-25節
 20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。

 先日、敬和学園高校の卒業式があり、関係者のひとりとして出席してきました。校長先生が壇上でひとり一人に卒業証書を手渡していきます。ただ渡すのではなく一言二言、言葉をかけて手渡していくのですね。「敬和大学でもアーチェリーがんばれ」とか「調理師免許とれたらいいな」とか具体的な励ましをいただきながら卒業証書を受け取っていく彼らは本当に晴れがましく見えます。その後、卒業生代表のAくんの答辞がありました。彼はまず「私は、自分を変えたいと思って敬和に来ました」と切り出しました。自分を変えるために、勉強をがんばり、部活をがんばり、学園祭では総合チーフを務めた。そこまではどの高校の卒業式でもよく聞く話です。しかしなぜそこまでがんばろうとしたのか。彼は答辞の終盤で数秒間声を詰まらせて、こう語りました。「それは父親との確執だった。子どもの頃から、何度も父親に手を挙げられたことがあった。自分がなぜ生まれてきたのかわからなかった。父を憎み、自分も生きていても仕方がない、と思っていた。しかし敬和に来た時、ある先生が自分にこう言ってくれた。あなたは私の子どもだ、生まれてきてくれてありがとう、敬和に来てくれてありがとう、と。自分は敬和で変わった。敬和だから変われた」。公の場でここまで語ることのできる勇気に私は敬服しました。同時に、これがまさに敬和の卒業式だと思わされたものです。

 「生まれてきてくれてありがとう」。生まれたばかりの赤ん坊を優しく見つめながら、父母は心の中でそう語りかけることでしょう。「生まれてきてくれてありがとう」。それが敬和学園高校が45年間続けて来た教育方針でもあります。そして神さまも私たちひとり一人にこう語りかけてくださっています。「生まれてきてくれてありがとう」と。しかし今日私たちがイエス様の言葉から受ける印象は逆であるかもしれません。イエス・キリストを裏切り、銀貨30枚で売り渡す約束をしていた弟子、イスカリオテ・ユダについて、イエス様はこう語ります。24節、「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去っていきます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」。

 とても冷たく、突き放した言葉のように思えます。しかし本当にそうでしょうか。もしあなたがイエス・キリストの立場であったならば、こう言ったかもしれません。「ユダ、おまえはわざわいだ。ユダ、おまえなんか生まれないほうがよかったのだ」と。しかしイエスはユダという名前を一言も出さないのです。裏切る本人を前にしながら、まるで別人のことを語っているように。これは何を意味しているのでしょうか。イエス・キリストはユダを見離しておられなかったということです。見離したのはむしろユダのほうでした。イエスは、たとえ裏切りが神の計画の中にあったことだったとしても、それでもユダが心から己の罪を悔い改めることを願っておられました。しかしユダの心には届かなかったのです。ユダの心は変わらなかったのです。ユダは厚かましくも、こう聞きました。「先生。まさか私のことではないでしょう」。このとき、イエス様の表情はおそらく、いや、間違いなく、世界で一番打ちのめされた者として顔をゆがめたことでしょう。自分の罪に目をとめようとしないユダに対し、イエス様は悲しみをたたえながらこう告げるしかありませんでした。「いや、そうだ」と。

続きを読む
posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | 2013年のメッセージ