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2013.4.28 ライフ・ラインDAY奨励「私たちがスポンサー」
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2013.4.21「ふさわしき場所は天にある」
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聖書箇所 ヘブル人への手紙11章35-12章2節
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聖書箇所 ヘブル人への手紙11章35-12章2節
11:35 女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。36 また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、37 また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、38 ──この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした──荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。39 この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。40 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
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posted by 近 at 22:01
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2013.4.14「栄光の傷跡を見つめて」
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聖書箇所 ルカの福音書24章33-43節
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聖書箇所 ルカの福音書24章33-43節
33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
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posted by 近 at 16:53
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2013.4.7「あなたのために」
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聖書箇所 ルカの福音書24章13-32節
1.どんな弟子であろうとも
13節、「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから11キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった」。夕暮れが追い迫る中、復活を信じられないまま、お互いに議論しながらエマオへと急ぐふたりの姿が目に浮かびます。まわりの薄暗さは、まるでこのふたりの心を象徴しているようです。イエス様がよみがえられた、と彼らは聞きました。しかしそこに喜びが生まれない。むしろ不安、失望がある。信じたくても信じられない。自分自身に対するいらだちを、お互いに議論し合うことで紛らわせている。彼らは紛れもなくキリストの弟子でした。しかし彼らはキリストが何度にわたり、わたしはよみがえると約束していたみことばをまったく忘れています。そしてそのことに目を向けることもないまま、夕闇へと向かっていました。
しかし神に感謝すべきは、イエス・キリストはそのような弟子と一緒に歩んでくださる方です。「あしあと」という詩を聞いたことがあるでしょうか。あるクリスチャンが自分の足どりを振り返ってみたら一組の足跡しかなかった。神は私を見捨てていたのか。そこで神が答える。それはあなたの足跡ではなくわたしの足跡だ。わたしはあなたを見捨てたのではなく、あなたをおぶってきたのだ。
キリストの弟子とは、キリストと共に歩む人のことです。しかし彼がキリストをそばに感じているか否かという自覚そのものは大切ではありません。大切なのは、私たちの自覚ではなく、神があなたと共に歩んでくださっているという事実です。ひとりぶんの足跡に動揺する弟子に神は共にいてくださいます。復活を信じることのできない弟子たちと共に歩んでくださいます。私たちがイエスとわからなくても、イエスは私たちを知っておられる。そして一緒に歩んでくださるのです。
2.あなたのために、私のために
イエス、否、ひとりの旅人らしき人が彼らに尋ねました。「歩きながら二人で話し合っているその話は、何のことですか」。二人はあきれたように顔を見合わせます。そしてそのうちのひとり、クレオパがエルサレムの最新情報をこの田舎者に説明していきました。しかし彼の説明に根本的なものが欠けていることにお気づきでしょうか。それはこの十字架と復活の事実が「私にとって」どういう意味を持っているのか、ということです。彼のことばはイエスを愛する弟子というよりはアナウンサー、特派員です。公平ではありますが情熱が感じられません。冷静ではありますが感情が欠けています。この事実が「私にとって」どういう意味があるのか、ということがまるで見えてこない。キリストは十字架にかけられた。それは神の敗北だったのか、それとも勝利だったのか。墓が空っぽであったことに驚かされた。驚いた、で終わりなのか。頭は働いても心が働いていないさめた信仰の姿です。
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聖書箇所 ルカの福音書24章13-32節
13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから11キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
1.どんな弟子であろうとも
13節、「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから11キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった」。夕暮れが追い迫る中、復活を信じられないまま、お互いに議論しながらエマオへと急ぐふたりの姿が目に浮かびます。まわりの薄暗さは、まるでこのふたりの心を象徴しているようです。イエス様がよみがえられた、と彼らは聞きました。しかしそこに喜びが生まれない。むしろ不安、失望がある。信じたくても信じられない。自分自身に対するいらだちを、お互いに議論し合うことで紛らわせている。彼らは紛れもなくキリストの弟子でした。しかし彼らはキリストが何度にわたり、わたしはよみがえると約束していたみことばをまったく忘れています。そしてそのことに目を向けることもないまま、夕闇へと向かっていました。
しかし神に感謝すべきは、イエス・キリストはそのような弟子と一緒に歩んでくださる方です。「あしあと」という詩を聞いたことがあるでしょうか。あるクリスチャンが自分の足どりを振り返ってみたら一組の足跡しかなかった。神は私を見捨てていたのか。そこで神が答える。それはあなたの足跡ではなくわたしの足跡だ。わたしはあなたを見捨てたのではなく、あなたをおぶってきたのだ。
キリストの弟子とは、キリストと共に歩む人のことです。しかし彼がキリストをそばに感じているか否かという自覚そのものは大切ではありません。大切なのは、私たちの自覚ではなく、神があなたと共に歩んでくださっているという事実です。ひとりぶんの足跡に動揺する弟子に神は共にいてくださいます。復活を信じることのできない弟子たちと共に歩んでくださいます。私たちがイエスとわからなくても、イエスは私たちを知っておられる。そして一緒に歩んでくださるのです。
2.あなたのために、私のために
イエス、否、ひとりの旅人らしき人が彼らに尋ねました。「歩きながら二人で話し合っているその話は、何のことですか」。二人はあきれたように顔を見合わせます。そしてそのうちのひとり、クレオパがエルサレムの最新情報をこの田舎者に説明していきました。しかし彼の説明に根本的なものが欠けていることにお気づきでしょうか。それはこの十字架と復活の事実が「私にとって」どういう意味を持っているのか、ということです。彼のことばはイエスを愛する弟子というよりはアナウンサー、特派員です。公平ではありますが情熱が感じられません。冷静ではありますが感情が欠けています。この事実が「私にとって」どういう意味があるのか、ということがまるで見えてこない。キリストは十字架にかけられた。それは神の敗北だったのか、それとも勝利だったのか。墓が空っぽであったことに驚かされた。驚いた、で終わりなのか。頭は働いても心が働いていないさめた信仰の姿です。
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