今日の礼拝は、講壇交換だったのですが、手違いで録画がなく、説教原稿もありません。
代わりに、2001年4月(イースターの日)、当時神学生だった私が豊栄教会で初めて語ったメッセージの原稿を掲載します。当時の豊栄の教会は無牧(=牧師がいないこと)のただ中にありました。その痛みの中で、それでも前に進み出そうとしていた教会と、「うめきの預言者」エゼキエルの姿とを重ね合わせた説教です。今、改めて読み直してみると、今日の私の牧会の原点もここにあるのかもしれません。一言コメントをお寄せいただけたら、それが説教者の糧となります。
なお、本日の週報はこちらです。
聖書箇所 エゼキエル1章1-3節
1 第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。2 それはエホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった。その月の五日に、3 カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりと【主】のことばがあり、【主】の御手が彼の上にあった。
皆さん、おはようございます。そして、初めまして。東京基督神学校3年、というよりは山の下福音教会の、といった方が馴染みがあるでしょうか。近 伸之と申します。遠くても近、と覚えてください。これから一年間、月一回程度ではありますが、共にみことばを通して同じ主を見上げ、礼拝していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
しかしもしかしたら、週報をごらんになってあれっと思われた方もいるかもしれません。それもそのはず、今日は全世界で主の復活、イースターが祝われているのに、メッセージがどうしてエゼキエル書なのか、ということです。もちろん私もいくら浮き世を離れ千葉の神学校にこもっているからといって今日が何月の第何週なのかということを忘れているわけではありません。ただ、今年のイースターはイエス様のご生涯を直接語るのではなく、みことばを通して私たちを導き、復活の希望を与え続けている主の恵みをエゼキエルという旧約の預言者の歩みから辿っていきたいと考えたのです。ですから聖書の朗読はエゼキエル書1章1〜3節からですが、メッセージはエゼキエル書の全体から語らせていただきます。聖書もエゼキエル書のあちこちに頻繁に飛ぶかもしれませんが、どうぞみことば全体から恵みを頂く喜びに共に浴したいと願うものであります。
前置きが長くなってしまいましたが、皆さんはエゼキエルという人物についてどの程度ご存じでしょうか。私どもの神学校の校長であり新潟の諸教会にも馴染みの深い下川友也先生は聖書通読一千回という途方もない目標をライフワークにしておられますが、このエゼキエル書は聖書通読の際にレビ記と並んでつまずきやすい箇所であります。一度でもこの書に目を通された方ならご存じかと思いますが、何しろ導入からわけのわからない幻が始まり、読んでいけば読んでいくほど混乱していく、という人がほとんどではないでしょうか。
しかしエゼキエル書は、まず次のことをはっきりと教えています、それは神が人をご自分のご用のために招かれるとき、人を圧倒する幻や劇的経験ではなく、必ずはっきりとしたみことばを用いてその者を呼ばれるということであります。続きを読む