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2013.9.29「はっきりと主のことばが」

 こんばんは。豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
 今日の礼拝は、講壇交換だったのですが、手違いで録画がなく、説教原稿もありません
代わりに、2001年4月(イースターの日)、当時神学生だった私が豊栄教会で初めて語ったメッセージの原稿を掲載します。当時の豊栄の教会は無牧(=牧師がいないこと)のただ中にありました。その痛みの中で、それでも前に進み出そうとしていた教会と、「うめきの預言者」エゼキエルの姿とを重ね合わせた説教です。今、改めて読み直してみると、今日の私の牧会の原点もここにあるのかもしれません。一言コメントをお寄せいただけたら、それが説教者の糧となります。
 なお、本日の週報はこちらです。

聖書箇所 エゼキエル1章1-3節
 1 第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。2 それはエホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった。その月の五日に、3 カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりと【主】のことばがあり、【主】の御手が彼の上にあった。

 皆さん、おはようございます。そして、初めまして。東京基督神学校3年、というよりは山の下福音教会の、といった方が馴染みがあるでしょうか。近 伸之と申します。遠くても近、と覚えてください。これから一年間、月一回程度ではありますが、共にみことばを通して同じ主を見上げ、礼拝していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
 しかしもしかしたら、週報をごらんになってあれっと思われた方もいるかもしれません。それもそのはず、今日は全世界で主の復活、イースターが祝われているのに、メッセージがどうしてエゼキエル書なのか、ということです。もちろん私もいくら浮き世を離れ千葉の神学校にこもっているからといって今日が何月の第何週なのかということを忘れているわけではありません。ただ、今年のイースターはイエス様のご生涯を直接語るのではなく、みことばを通して私たちを導き、復活の希望を与え続けている主の恵みをエゼキエルという旧約の預言者の歩みから辿っていきたいと考えたのです。ですから聖書の朗読はエゼキエル書1章1〜3節からですが、メッセージはエゼキエル書の全体から語らせていただきます。聖書もエゼキエル書のあちこちに頻繁に飛ぶかもしれませんが、どうぞみことば全体から恵みを頂く喜びに共に浴したいと願うものであります。
 前置きが長くなってしまいましたが、皆さんはエゼキエルという人物についてどの程度ご存じでしょうか。私どもの神学校の校長であり新潟の諸教会にも馴染みの深い下川友也先生は聖書通読一千回という途方もない目標をライフワークにしておられますが、このエゼキエル書は聖書通読の際にレビ記と並んでつまずきやすい箇所であります。一度でもこの書に目を通された方ならご存じかと思いますが、何しろ導入からわけのわからない幻が始まり、読んでいけば読んでいくほど混乱していく、という人がほとんどではないでしょうか。
 しかしエゼキエル書は、まず次のことをはっきりと教えています、それは神が人をご自分のご用のために招かれるとき、人を圧倒する幻や劇的経験ではなく、必ずはっきりとしたみことばを用いてその者を呼ばれるということであります。続きを読む
posted by 近 at 21:19 | Comment(2) | 2013年のメッセージ

2013.9.22「自由だけど、心は一つ」

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聖書箇所 使徒の働き5章12-16節
 12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。13 ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。14 そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。15 ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。16 また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。

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posted by 近 at 19:07 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013村新豊交わり会

 豊栄キリスト教会は、同じ同盟教団に所属する新発田キリスト教会・村上福音キリスト教会との合同交わり会を年一回開催しています。
今年は8月18日(日)に、瀬波温泉のそばにある恐竜の見える公園 県民いこいの森広場を会場にして行いました。
夏の盛りでしたが、楽しく時間を過ごすことができました。その模様を少しだけ紹介します。

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posted by 近 at 12:13 | Comment(0) | 教会行事

2013.9.15「加齢は幸福」

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聖書箇所 創世記47章7-10節
 7 それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。8 パロはヤコブに尋ねた。「あなたの年は、幾つになりますか。」9 ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は130年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」10 ヤコブはパロにあいさつして、パロの前を立ち去った。
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posted by 近 at 17:27 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

集会案内

日曜礼拝
毎週曜日 午前10:30〜12:00
讃美歌を歌い、祈り、聖書のメッセージを聞く心静まるひとときです。

祈り会
毎週水曜日 午後7:30〜9:00
聖書を学び、お祈りをささげるあたたかいひとときです。

教会学校
毎週曜日 午前9:00〜10:00
聖書のおはなしを聞き、歌やゲームを通して楽しみながら人格の基礎を培います。
幼児から小中高のおともだちが集います。

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初めて教会に来られる方へQ&A

Q 生活や行いを改めてから行ったほうがいいの?
 そのままのあなたを神さまは愛しておられます。あるがままの姿でおいでください。

Q 持ち物や服装は?
 礼拝で使うものはすべてお貸しいたします。服装も普段着でかまいません。

Q お金は必要?
 必要ありません。
 「献金」という礼拝プログラムがありますが財産の一部を信仰を持って神さまにお返しするものです。
 強制や義務ではありませんし、ご利益を期待するものでもありません。

Q 一度入ったら信じなくてはいけないの?
 信仰は強制されるものではありません。
 安心してお気軽においでください。
 牧師が相談事にのることもできます。

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posted by 近 at 11:25 | Comment(0) | 教会案内

教会の沿革

初代牧師 若月 誠(1972-2000)
第二代  近 伸之(2002-)

1952(昭和27)年
 新潟二葉町教会(現・新潟福音教会)の青年信徒で、葛塚町(現・新潟市北区)に在住していた若月誠が、近隣の子供たちを対象に自宅を開放し、日曜学校を始める。
1953(昭和28)年
 新潟二葉町教会の宣教師・信徒の協力のもと、葛塚町内にて2回の天幕伝道集会を開催する。数名の決心者が与えられ、葛塚を中心とする近隣地域に宣教が進んでいく。
1954(昭和29)年
 新潟二葉町教会の信徒が中心になり、毎週日曜午後および夜に定期集会が持たれるようになり、「葛塚キリスト集会」と名づけられる。
1955(昭和30)年
 葛塚町・木崎村・岡方村の3町村が合併し、豊栄町となる。以降、約15年間にわたり、集会場所を転々としながら、町内各地で伝道の実が結ばれていく。
1970(昭和45)年
 近隣教会の協力のもと、市内嘉山に会堂を建築し、献堂式を行う。なお同年11月、豊栄町は市制に移行し、豊栄市となる。教会としてではなく保育園事業から地域貢献をめざし、「恵み園」を開園。しかし諸般の事情によりわずか二年で閉園となる。
1972(昭和47)年
 4月、若月誠牧師が初代牧師として赴任。宣教に専心する教会として歩み出す。
2001(平成13)年
 1月、若月牧師が健康上の理由により退任。一年間の牧師不在(無牧)を経験する。
2002(平成14)年
 4月、近伸之牧師が二代目牧師として赴任。地域に根差した教会を目指し、バザー・老人福祉施設への慰問、オープン形式による賛美(合唱)教室などを毎月開催する。
2012(平成24)年
 宣教開始50年、教会創立40年を迎える。
posted by 近 at 11:14 | Comment(0) | 教会案内

牧師プロフィール

top_01.jpg牧師  近 伸之 (ちか・のぶゆき)
 1971(昭和46)年、新潟県中条町(現胎内市)に生まれる。
中学2年生の時に、骨肉腫で左足を切断。
高校3年生の時に、イエス・キリストを救い主と信じ、受洗。
敬和学園大学人文学部を卒業後、新潟市役所に勤務。
高齢者福祉を3年、水産行政に1年間携わった後、牧師になるために退職。
東京基督神学校(現TCU大学院神学科)を卒業後、
2002年より豊栄キリスト教会主任牧師として現在に至る。
 現在、学校法人 敬和学園・理事、評議員。同大学同窓会会長(2011.4月〜)
日本同盟福音教団・退職金委員会委員長(2016.4月〜)
新潟福音放送協力会・会計委員(2019.4月〜)
TCU(東京基督教大学)新潟地区支援会・会計委員(2012.4月〜)など。


豊栄の人々へ、牧師からのメッセージ

 「豊栄」という町の名前が、私は大好きです。
「豊かに栄える」そんな人生を送りたいと心から願います。
私だけではなく、すべての人がそんな人生を求めています。
しかしすべての人がまた、こう思っていることでしょう。人生は思いどおりにはいかない、と。

 私は14歳のときに、骨肉腫という病で左足を失いました。
障がい者という、社会がつけたレッテルに私もまた引きずられました。
それまで描いていた人生の青写真が奪われてしまったような気がしました。
しかしそれは、決して消えることのない、本当の希望を私が持つためだったのです。
人生の希望を見失った私に、イエス・キリストは聖書を通して語りかけてきました。
 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(『ヨハネの福音書』9章1-3節)
 ここに私がいました。
生まれつき目の見えない人   それは、神のまなざしを向けられていながらそれに気づかない人です。
それはかつての私であり、そして今のあなたです。しかし神は、あなたを優しく見つめてくださっています。
たとえあなたがどれだけ人生に希望を失っていたとしても、あなたはいま、そこにいます。
そのところから「神のわざ」が始まります。どうか人生に迷ったとき、この教会に来てみてください。
悲しみの中でも決して絶望しない人生、文字通り「豊かに栄える」人生が、あなたを待っているのですから。
posted by 近 at 11:11 | Comment(0) | 教会案内

2013.9.8「自由の国」

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聖書箇所 使徒の働き4章32-5章11節
 4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
 5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」5 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。7 三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずに入って来た。8 ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です」と言った。9 そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」10 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。入って来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。11 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。
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posted by 近 at 13:51 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.9.1「絶望なくして恵みなし」

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聖書箇所 マルコの福音書7章14-23節
 14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。15 外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」17 イエスが群衆を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。18 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。19 そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
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posted by 近 at 19:22 | Comment(0) | 2013年のメッセージ