※以下の文章は、神学校1年時(1999年)「神学英書講読」の提出課題を修正したものです。
ペラギウスは、アウグスティヌスといわゆるペラギウス論争を闘わせた人物として有名である。しかし同時に彼は“異端者”でありながら、アウグスティヌス以上に後世に影響を与えたといっても過言ではない。ヴァン・ティルによれば、ペラギウスから始まった原罪否定は近代の哲学者たちに好んで受容され、その系譜にはカント、シュライエルマッハー、リッチュルらが名を連ねているという。(1)
一方、放蕩生活から劇的な改心を経て、罪に対する無力さを確信するに至ったアウグスティヌスは、人間が罪を犯さない力も与えられているという、ペラギウスの主張を決して受け入れることはできなかった。彼はペラギウス論駁の著述のみならず、異端審問官の派遣や教会公会議の召集を教皇本庁にたびたび要請するなど、あらゆる政治的活動も駆使してペラギウス個人とその影響の駆逐に力を注いだ(2)。
しかしその努力にも関わらず彼の死後、この異端者は半ペラギウス主義として命脈を保った。そしてその残滓はアルミニウス主義の中に自らを滑り込ませた。ジョナサン・エドワーズが原罪について論じた著作の中で、ペラギウスとアルミニウスを並行して語っていることは注目すべきであろう(3)。宇田進氏は『福音主義キリスト教と福音派』の中で、このアルミニウス主義が、今日のプロテスタント諸派の多くに影響を与えていることを指摘している(4)。すなわち異端者ペラギウスは形を変えながら現代の“福音主義”神学の中に脈々と生き続けているのである。
一般にペラギウスは、パウロから始まりルターによって再発見される「恵みの神学」を否定した者として1500年間、新旧教会双方から異端とみなされ続けてきた。しかし近年[筆者注:1999年当時]、ペラギウスを肯定的に評価する動きが同じくカトリック、プロテスタント双方から出てきたことは注目に値する。上智大学中世思想研究所が、最近出版した教父著作集の中に、テルトゥリアヌスやアウグスティヌスと並んでペラギウス書簡を入れていることはまことに象徴的と言える(5)。そこには異端者ペラギウスではなく牧会者ペラギウスという新しい評価が垣間見えるのである。すなわち、彼は確かに人間が罪を犯さないこともできると説いた。しかしそれは神学的主張というよりは、牧会的配慮と言うべきものである、と。大量入信の時代、放縦の中にとどまり続けているキリスト者があまりにも多い中、罪から離れた生活を人々に警告するための、いわばレトリックであったという新しい分析である(6)。
しかし実のところこのペラギウス主義とはいったいいかなるものであったのか。続きを読む
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異端者ペラギウス−信仰と生活の一致を目指して−
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| 神学校時代のレポート
2014.2.23「三十八年、蚊帳の外」
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聖書箇所 ヨハネ5:2-9a
※録音状態が悪いので、音声ボリュームを上げてお聞きください。続きを読む
聖書箇所 ヨハネ5:2-9a
2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。4 [本節欠如]5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
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| 2014年のメッセージ
伝道者バッハ:『音楽の手帖 バッハ』からの一考察
※以下の文章は、神学校1年時(1999年)「教会音楽史T」提出課題を加筆修正したものです。
文末の赤字部分は、指導教師であった作曲家、天田繋氏(1937-2012)のコメントです。
ヨハン・セバスチャン・バッハ わが国におけるバッハ研究の第一人者である角倉一郎氏によれば、「神学者でも福音伝道者でもなく、何よりも音楽家、それもきわめつきの音楽家である(1)」と形容される。この言葉の裏には、一人の音楽家である以上に、その作品はまさに第二の聖書と表現できるほどの深い宗教的感情を聴く者に意識させてしまうことを意味していると言えるだろう。さらにルター派教会音楽のみならずカトリックや世俗音楽をも包含したバロック音楽の完成者であるとされているにもかかわらず、今日その音楽はクラシックという領域を超えて、多くの人々の手によってさまざまな形に姿を変えている。例えばジャック・ルーシェによるジャズ・バッハ、電子音楽によるバッハ、また最近ではパソコンで小学生でも打ち込めるような『トッカータとフーガ ニ短調』のプログラムなども市販されている。「信仰の創始者であり完成者であるキリスト」というヘブル書の言葉を模倣することがもし赦されるならば、バッハこそまさに「西洋音楽の創始者であり完成者である」という表現もあながち誇張とは言えまい。教会音楽の伝統と世俗音楽の改革が一人の人間のなかで共存している。古きを代表する完成者でありながら、その音楽は常に新しい。
じつはこの年齢に至るまで、私はバッハの音楽についてはただの一曲しか聴いたことがない。それはあの有名な『マタイ受難曲』である。しかしこれは聴いたというよりは使用したといったほうがよい。私が高校生の頃、武田泰淳の『ひかりごけ』という劇を学園祭で上演することになり、演劇部に属していた私がその演出を担当した。内容について若干説明を加えることをお許しいただきたい。戦時中、遭難して仲間の人肉を食べて生き延びようとした男の葛藤を描いた作品である。仲間を食べた人間は首の回りに緑色のひかりごけに似た光を放つ。戦後帰国して裁判にかけられた男は裁判長に始まり、検事、弁護士、すべての傍聴人に至るまで首の回りに緑色の光を放っているのを見る。戦争はすべての人間を、決して自分では手を下さなくても仲間の肉を食べて生き延びているに等しくしてしまう。戯曲という形式をとることによって、生きることの苦しみ、そしてそれを乗り超える意味を視覚的に訴えた作品である。
この演劇を演出するにあたり、主人公が仲間を食べなければ生きていけない葛藤、人間の原罪の表現にどのような効果音を使えばよいかで私は頭を悩ませた。武田泰淳の原作ではアイヌの音楽を指定しているが、どうもしっくりこない。そんな時クラシック好きの友人が持ってきたのが『マタイ受難曲』だった。むろん短い劇のなかでのさらに短い一幕のみに使うのだから、マタイ受難曲のサビのほんの一部にすぎなかったのだが、それを使用したことによって劇に与えた影響は我ながら驚いた。ちょうど上演時間も半ばを過ぎ緩慢な印象が役者にも観衆にも感じられるようになるその瞬間、わずか数十秒の音楽が劇全体を引き締めたのである。音楽に対して無知な私もその時ばかりはこのバッハという音楽家の持つ恐ろしさを痛感した。当時私はキリスト者ではなかったが、それゆえに今振り返ってみると「バッハの教会音楽が、キリスト教信者であるか、ないかを問わず、多くの人をひきつけるのは、ほかならぬこの緊張感である・・・(中略)・・・この独特な緊張感はバッハの音楽によってのほか得られないのである(2)」(辻荘一)という賛辞に対しても力強く頷くことができるのである。続きを読む
文末の赤字部分は、指導教師であった作曲家、天田繋氏(1937-2012)のコメントです。
ヨハン・セバスチャン・バッハ
じつはこの年齢に至るまで、私はバッハの音楽についてはただの一曲しか聴いたことがない。それはあの有名な『マタイ受難曲』である。しかしこれは聴いたというよりは使用したといったほうがよい。私が高校生の頃、武田泰淳の『ひかりごけ』という劇を学園祭で上演することになり、演劇部に属していた私がその演出を担当した。内容について若干説明を加えることをお許しいただきたい。戦時中、遭難して仲間の人肉を食べて生き延びようとした男の葛藤を描いた作品である。仲間を食べた人間は首の回りに緑色のひかりごけに似た光を放つ。戦後帰国して裁判にかけられた男は裁判長に始まり、検事、弁護士、すべての傍聴人に至るまで首の回りに緑色の光を放っているのを見る。戦争はすべての人間を、決して自分では手を下さなくても仲間の肉を食べて生き延びているに等しくしてしまう。戯曲という形式をとることによって、生きることの苦しみ、そしてそれを乗り超える意味を視覚的に訴えた作品である。
この演劇を演出するにあたり、主人公が仲間を食べなければ生きていけない葛藤、人間の原罪の表現にどのような効果音を使えばよいかで私は頭を悩ませた。武田泰淳の原作ではアイヌの音楽を指定しているが、どうもしっくりこない。そんな時クラシック好きの友人が持ってきたのが『マタイ受難曲』だった。むろん短い劇のなかでのさらに短い一幕のみに使うのだから、マタイ受難曲のサビのほんの一部にすぎなかったのだが、それを使用したことによって劇に与えた影響は我ながら驚いた。ちょうど上演時間も半ばを過ぎ緩慢な印象が役者にも観衆にも感じられるようになるその瞬間、わずか数十秒の音楽が劇全体を引き締めたのである。音楽に対して無知な私もその時ばかりはこのバッハという音楽家の持つ恐ろしさを痛感した。当時私はキリスト者ではなかったが、それゆえに今振り返ってみると「バッハの教会音楽が、キリスト教信者であるか、ないかを問わず、多くの人をひきつけるのは、ほかならぬこの緊張感である・・・(中略)・・・この独特な緊張感はバッハの音楽によってのほか得られないのである(2)」(辻荘一)という賛辞に対しても力強く頷くことができるのである。続きを読む
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2014.2.16「待ち続ける神」
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聖書箇所 ルカ15:11-32
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聖書箇所 ルカ15:11-32
11また話された。「ある人に息子がふたりあった。12 弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
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2014.2.9「小さき者よ、忠実たれ」
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聖書箇所 使徒9:10-19a
説教者の髪型がおかしなことになっておりますが、インフルエンザで寝込んでおりましたのでご容赦ください。続きを読む
聖書箇所 使徒9:10-19a
10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。12 彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、19 食事をして元気づいた。
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2014.2.2「人はただ恵みによって変わる」
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聖書箇所 使徒9:1-9
今回は説教録画を割愛させていただきます。
今から130年以上前のアメリカ。ある列車に二人の男が向かい合って座っていました。そのうちの一人が、窓から見える教会の十字架を指さして、片方にこう言いました。「なあ君、この国はあんなキリスト教などという古くさい教えを守っている輩で溢れている。君は学もあるし、筆も立つ。イエス・キリストなんて存在しなかったと証明する本を書いてみたらどうだ。きっとベストセラーになるよ」。話しかけられた男、当時のニューメキシコ州の副知事ルー・ウォーレスは友人の勧めに強く頷きました。そして多忙な職務の間を縫って、様々な資料を集め、本を書き続けました。数年後、その本は「ベン・ハー」というタイトルで出版され、友人の予言通りにベストセラーになりました。しかしこの本はイエスの実在を否定するどころか、むしろイエスによって主人公とその家族も救われるという筋書きに変わっていました。ウォーレスは、資料を調べれば調べるほど、イエス・キリストが実在した神であったということを否定できなくなってしまったのです。(1)続きを読む
聖書箇所 使徒9:1-9
1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
今回は説教録画を割愛させていただきます。
今から130年以上前のアメリカ。ある列車に二人の男が向かい合って座っていました。そのうちの一人が、窓から見える教会の十字架を指さして、片方にこう言いました。「なあ君、この国はあんなキリスト教などという古くさい教えを守っている輩で溢れている。君は学もあるし、筆も立つ。イエス・キリストなんて存在しなかったと証明する本を書いてみたらどうだ。きっとベストセラーになるよ」。話しかけられた男、当時のニューメキシコ州の副知事ルー・ウォーレスは友人の勧めに強く頷きました。そして多忙な職務の間を縫って、様々な資料を集め、本を書き続けました。数年後、その本は「ベン・ハー」というタイトルで出版され、友人の予言通りにベストセラーになりました。しかしこの本はイエスの実在を否定するどころか、むしろイエスによって主人公とその家族も救われるという筋書きに変わっていました。ウォーレスは、資料を調べれば調べるほど、イエス・キリストが実在した神であったということを否定できなくなってしまったのです。(1)続きを読む
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