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2014.3.30「マリヤはなぜ叫ばなかったのか」

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聖書箇所 ヨハネ19:23-27
 23 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」という聖書が成就するためであった。25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

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posted by 近 at 19:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

2014.3.23「今日、愛に答えて」

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聖書箇所 ルカ23:39-43
 39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

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posted by 近 at 18:52 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

仏式葬儀への対応(「東洋思想」期末考査答案)

1.現代日本において仏教葬儀にどう対応すべきか。
 現代日本における仏教葬儀は、日本の「イエ」=共同体制度における祖先崇拝である。そこには「イエ」に象徴される血縁関係(それはしばしば「近所づきあい」という地縁関係も含む)のしがらみという人間的な面と、死者の霊が祟らないように拝むという宗教的な面が混在している。表面的には前者が専ら現れつつも、そこに人々を駆り立てるものは後者の恐怖感である。キリスト者はこの世から聖め別かたれてはいるが、この世に生きこの世に責任を持って歩む者である以上、そのような仏教葬儀とも関わっていくことが多々ある。
 まずキリスト者として第一に考えなければならないことは、この葬儀の本質を見極めなければならない。この葬儀が偶像崇拝ということではなく単なる近所づきあいという感覚に留まってしまうならば、いずれは焼香といった事柄に対して何の特別な意識も持たなくなってしまうだろう。この仏教葬儀が本来の「仏教」とよぶもおこがましい、人を死によって神とし、その祟りを避けようとする宗教行為である認識を、牧師は教会員に指導しなければならない。
 一方で忘れてはならないのは、その宗教性の故に仏教葬儀をいたずらに拒絶するのではなく、その中でいかにしてキリスト者としての信仰を証しし、それによって誤った宗教行為に陥っている日本人の心に福音をコミットしていけるかということに心を砕くことである。そのためには遺族に対する慰めと憐れみの思いということを決してないがしろにしてはならない。焼香といった宗教行為は避けねばならないが、遺族に対する励ましは焼香以外でも十分出来る。授業で取り上げられたことだが、葬儀という公(おおやけ)以外の時に訪問し、遺族に対して慰めのことばを述べるということも有益であろう。死と復活に関するみことばをカードにして贈るという方法も、キリスト者ならではの励ましとして受け止められると思う。
 私事で恐縮だが、筆者の親戚が死んだとき、私自身も焼香の列に並ばされたことがあった。その時筆者は焼香してはならないという意識はあったものの、どうすれば遺族に理解されるかということで混乱し、結局焼香台の前に立ったものの焼香は摘まずに遺族のために祈った。それは熟慮しての行動とは言い難かったが、筆者がキリスト者であることをよく知っている、件の遺族からは後で非常に感謝された。焼香ということがまぎれもない異教的な礼拝行為であることを意識することからすべては始まるという主張はそのような経験から来ている。それを避けるために死にものぐるいで知恵をはたらかせ、なおかつ遺族に対する励ましの気持ちを忘れないことによって、私たちはキリスト者としての証しを葬儀の場で立てることができるのではないだろうか。
 もし自分が葬儀をする方の側だったらどうだろう。実際の所、教会で葬儀出席に苦しむ人たちとしては、嫁として葬儀に否が応でも出席しなければならない婦人たちの例が容易に考えられる。その場合であっても、死者崇拝である焼香を避けるという基本原則は守らなければならない。その代わりに裏方で必要とされている様々なこと(お茶や食事の準備など)に積極的に関わることによって決して死を悼んでいないわけではないということを示すことが必要だろう。キリスト者が焼香をしないとき、キリスト教に理解のない人々の批判は焼香をしないことそのものよりも、愛が足りないといった感情的なことに集中する。そのような思いを第三者に与えないような、しかし信仰者としての基本を外すことのない関わりが葬儀の場にあっても十分できるのではないかと思われるのである。続きを読む
posted by 近 at 17:03 | Comment(0) | 神学校時代のレポート

2014.3.16「赦しはあなたのために」

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聖書箇所 ルカ23:32-38
 32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
 33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。

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posted by 近 at 19:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

2014.3.9「怒りは十字架と共に」

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聖書箇所 マタイ27:45-46
 45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

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posted by 近 at 20:56 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

2014.3.2「悲しみのススメ」

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聖書箇所 使徒9:19b-31
 19b サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。21 これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」22 しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。23 多くの日数がたって後、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、24 その陰謀はサウロに知られてしまった。彼らはサウロを殺してしまおうと、昼も夜も町の門を全部見張っていた。25 そこで、彼の弟子たちは、夜中に彼をかごに乗せ、町の城壁伝いにつり降ろした。
 26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。27 ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。28 それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。29 そして、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていた。しかし、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。30 兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れて下り、タルソへ送り出した。
 31 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。

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posted by 近 at 13:16 | Comment(0) | 2014年のメッセージ