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2014.6.29「永遠のいのちを生きる」

 今週は、新潟山形宣教区の一斉講壇交換でした。
当教会では新発田キリスト教会牧師の本間羊一牧師が説教を取り次いでくださいました。ご奉仕に心から感謝いたします。
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聖書箇所 ヨハネの福音書3:16-21
 16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
21 しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

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posted by 近 at 16:13 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

緊張の説教論(4)「1-2.見える慰めではなく見えない恐れを」

 ドイツの神学者H.J.クラウスは「おそれとおののきの中で生きることが恵みの最高のしるしである」というルターの言葉をひきながら、今日の「説教者は、生ける神の前でおそれとおののきの代わりに、安心感と不遜のとりことなっており、ひとたび少しでも突風が吹きつけると、彼はもう一方の奈落である絶望へと吹き飛ばされてしまう(6)」と告発する。私たちはこのようなクラウスの指摘を聞くとき、それがドイツの教会だけではなく日本の福音主義教会にも広がっている現実を見る。「この聖書の言葉を語る者が、緊張せずにはいられようか」という、ごく単純な反語的問いは今や講壇からも会衆席からもほとんど忘れ去られてしまっている。現実への慰めと安心を求めるあまり、説教者も会衆も忘れてしまっているのだ。今私たちは己を顧みてこう問わなければならない。安心を説くことが会衆を慰めることであると短絡的に考え、文脈を逸脱した慰めを語っているということはないか、と。続きを読む
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2014.6.22「福音は違いを包み込む」

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聖書箇所 使徒の働き11:1-18
  1 さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。
2 そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、
3 「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした」と言った。
4 そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。
5 「私がヨッパの町で祈っていると、うっとりと夢ごこちになり、幻を見ました。四隅をつり下げられた大きな敷布のような入れ物が天から降りて来て、私のところに届いたのです。
6 その中をよく見ると、地の四つ足の獣、野獣、はうもの、空の鳥などが見えました。
7 そして、『ペテロ。さあ、ほふって食べなさい』と言う声を聞きました。
8 しかし私は、『主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません』と言いました。
9 すると、もう一度天から声がして、『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない』というお答えがありました。
10 こんなことが三回あって後、全部の物がまた天へ引き上げられました。
11 すると、どうでしょう。ちょうどそのとき、カイザリヤから私のところへ遣わされた三人の人が、私たちのいた家の前に来ていました。
12 そして御霊は私に、ためらわずにその人たちといっしょに行くように、と言われました。そこで、この六人の兄弟たちも私に同行して、私たちはその人の家に入って行きました。
13 その人が私たちに告げたところによると、彼は御使いを見ましたが、御使いは彼の家の中に立って、『ヨッパに使いをやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。
14 その人があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを話してくれます』と言ったというのです。
15 そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。
16 私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる』と言われたみことばを思い起こしました。
17 こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」
18 人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。

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posted by 近 at 16:12 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

緊張の説教論(3)「1-1.いのちを与える説教めざして」

第一章 今なぜ「緊張の説教論」か    今日の説教壇を取り巻く状況についての一考察

第一節 「いのち」を与える説教めざして

 宗教は今日、人間の幸福のための単なる一手段とか、社会的な一有用物といったところまで、かつてなかったほどに落ち込んでしまった。・・・・(中略)・・・・宗教の領域全体に霊的情熱も霊的深みも欠けている。キリスト教が人間的な文明の言葉を語り、キリストの言葉を語っていない。(1)
 これは決して21世紀の言葉ではない。今からほぼ百年前、P.T.フォーサイスによって語られた言葉である。不名誉なことではあるが、まるで時代の隔たりを感じさせない指摘と言えるだろう。この一世紀の間、教会は霊的情熱と霊的深みを回復できただろうか。説教はキリストの言葉を語ってこれただろうか。フォーサイスよりさらに半世紀前、ルターを生み出した国の、ある牧師の息子はこう叫んだ。「神は死んだ。否、人間が神を殺したのだ」と。しかし今日、多くの教会の会衆席では、さらに辛辣な囁きが聞こえている。「神の言葉は死んでいる。否、説教者が神の言葉を殺しているのだ」。いまや神の言葉の説教は使い古された例話、現実味のない「愛」や「恵み」の連発で彩られている。そのような説教に会衆は何が期待できるのだろうか。彼らはもはや説教に何も期待していない。説教が語り始められた時、彼らが期待することは一つ、それが一刻も早く語り終えられることである。これらはあまりにも悲観的な指摘に思えるかもしれない。しかし断じて筆者は遠い国の知らない教会の話をしているのではない。日本の教会、その中でも福音派を標榜している、私たちの教会の実状について自戒として記しているのである。続きを読む
posted by 近 at 09:25 | Comment(0) | 説教論

緊張の説教論(2)「序」

神学校の卒業論文(2002年)。十年以上経過していますが、加筆修正はせずに原文のまま掲載します。

序.
 神学校三年間の思い出深い授業の一つに説教演習がある。同じ主題や聖書箇所からの説教なのにかくもこれほどと思われるほど各人の個性が現れる。説教の奥深さに感慨深いものを感じた。その場で筆者はよく「間ガナイ」「聞イテテ疲レル」という評価を受けた。批評は謙虚に受け止めざるを得ないが、しかし釈然としないものを常に感じていたことも事実である。(落語を聞いているわけではないのに「間」とはどういうことだ。ましてや神の言葉が他ならぬ自分に対して語られているのだから疲れないはずはなかろう)こんな反論を、カインのごとく顔を伏せながら心の中でつぶやいていたものである。続きを読む
posted by 近 at 09:08 | Comment(0) | 説教論

緊張の説教論(1)「主要参考資料」

神学校の卒業論文(2002年)として提出した「緊張の説教論」です。
あえて一切の加筆修正をしないことに決めました。

まず参考資料(コメント入り)から挙げます。英書は入れておりませんので、ご了解ください。
今では入手できないものもありますが、参考にしていただけたら幸いです。続きを読む
posted by 近 at 11:55 | Comment(0) | 説教論

2014.6.15「見上げてごらん」

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聖書箇所 創世記15:1-6
 1 これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。
「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
2 そこでアブラムは申し上げた。
「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。
4 すると、【主】のことばが彼に臨み、こう仰せられた。
「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」
さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
6 彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

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posted by 近 at 17:43 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

2014.6.8「新しく生まれなければ」

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聖書箇所 ヨハネ3:1-8、16
 1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
 16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

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posted by 近 at 17:54 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

2014.6.1「深みに漕ぎ出せ」

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聖書箇所 ルカ5:1-11
 1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。
そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。 5 するとシモンが答えて言った。
「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。
彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、
「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
10
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。
イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

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posted by 近 at 17:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ