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2014.7.27「私をお助けください」

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聖書箇所 マルコの福音書9:14-29
 14 さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。
15 そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。
16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」と聞かれた。
17 すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。
18 その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。」
19 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
20 そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。
21 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。
22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
25 イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
26 するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった」と言った。
27 しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。
28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」
29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

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posted by 近 at 16:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

緊張の説教論(7)「2-2.古代から宗教改革期にかけての説教者の緊張意識」

 この緊張意識は、その後の古代教会においては説教だけではなく信仰告白の整備といったかたちでも継承されていった。そこにはユダヤ主義やグノーシス主義といった思想的対決、また皇帝教皇主義などとの政治的対決といった外的要因が大きく関わっている。しかし中世に入り、徐々に説教はかつての律法主義的解釈のごとく訓話的なものとなっていき、そこに含まれていた緊張意識は希薄化する。聖書の代わりに公教要理が用いられ、教訓的ではあるが聖書的とは言えない説教が幅を利かせるようになっていく。泉田氏の言を借りるならば「説教はついに礼拝儀式の片隅においやられてしまった(14)」のである。続きを読む
posted by 近 at 11:59 | Comment(0) | 説教論

2014.7.20「この世界よりも大切なあなた」

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聖書箇所 エペソ1:3-7
 3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。
神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

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posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

緊張の説教論(6)「2-1.聖書にみる、説教者の緊張意識」

第二章 「緊張の説教」の歴史的文脈

 後藤光三は『説教論』の中で、「三千人の悔い改めという、キリスト教会最初の出発を飾る奇跡的な勝利は、実に聖霊降臨の結果として行なわれた大伝道の際の、ペテロ初め11人の使徒たちの説教によるものであった(10)」と述べている。教会の進展の陰には常に説教があった。ペンテコステ然り、宗教改革然り、大覚醒然りである。しかし説教は決して教会と共に生まれたわけではない。後藤の言うとおりペンテコステがキリスト教会の出発だとしたら、説教は明らかにそれ以前にあった。説教の起源は捕囚後のシナゴーグ礼拝に留まるものではなく、旧約の預言者たちのメッセージへと遡及できるものである。
 旧約の預言者たちは、王から貴族階級、祭司、民に至るまであらゆる社会階層に警告と悔い改めを説き続けたが、それは決して社会的・宗教的不正の糾弾だけではない。新約聖書の記者たちが証言しているところによれば、それは究極的にはイエス・キリストを啓示する性格を有していたのであり、例として使徒ペテロを通して次のように言われている。
 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。(第一ペテロ1章10,11節)
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posted by 近 at 08:52 | Comment(0) | 説教論

2014.7.13「やわらかい試練」

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聖書箇所 創世記8:1-22
 1 神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。
それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。
2 また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。
3 そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、
4 箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。
5 水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れた。
 6 四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、
7 烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。
8 また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。
9 鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。
彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。
10 それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。
11 鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。
それで、ノアは水が地から引いたのを知った。
12 それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。
13 ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。
ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。
14 第二の月の二十七日、地はかわききった。
 15 そこで、神はノアに告げて仰せられた。
16 「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。
17 あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」
18 そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。
19 すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。
20 ノアは、【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、
祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
21 【主】は、そのなだめのかおりをかがれ、【主】は心の中でこう仰せられた。
「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。
わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。
22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、
  寒さと暑さ、夏と冬、
  昼と夜とは、やむことはない。」

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posted by 近 at 13:43 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

ONE PIECEと旭日旗

韓国・ソウルで行われる「ONE PIECE」展が、原作に旭日旗の描写があるということで、会場側が開催を拒否している。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2014071000934
原作のファンの一人として、どうか木を見て森を見ずにならぬよう、会場側にはおぼえていただきたいと願う。

私たち日本のクリスチャンは、韓国のクリスチャンから多くの霊的祝福をいただいている。
同盟教団の中にも、韓国人の牧師先生がたくさんおられるが、すばらしい方々ばかりだ。
私が神学生時代に奉仕した教会も、韓国人牧師によって開拓、伝道されたところだった。
こんな牧師になりたいと思わずにはいられない、愛に満ちた交わりがそこにはあった。

だが、韓国そして中国の若い世代が、日本の過去の戦争犯罪と、現在の日本を混同していることには悲しみを覚える。
「日本のアニメは大好きだが、日本人は大嫌い」というようなゆがんだ主張が、かの国ではある程度の市民権を得ている。
「ある程度」と書いたように、全部ではなく、一部の人々である。
集団的自衛権が必要であり正当であると主張している日本人が、全部ではなく一部であるのと同じように。

「ONE PIECE」ファンの間では「空島篇」と並んで評価の低い「魚人島篇」ではあるが、こんな印象深い場面がある。(アニメ版)
人間を憎み、「凶薬」(ドラッグ?)によって力を得て人間を滅ぼそうとする魚人反乱軍のリーダーに魚人族の王子がこう聞く。
「人間たちがおまえたちにいったい何をしたというのか?」
すると彼は答える。「何も」。
そして次の瞬間、手にしていた銛で、王子のからだを貫いた。

彼は以前のリーダーに植え付けられた「敵意」に支配されていた。
幼い頃の描写では、人間を憎みながら、人間が作った遊園地に憧れて、海面から見上げる場面もあった。
うがち過ぎとの批判も免れないだろうが、このほうがよほど旭日旗よりもはるかに直接的な、作者のメッセージではないかと思う。
70年前の日本の戦争犯罪を、まるで今自分たちが受けている被害のように考え、そこに縛り付けられている一部の若者たちに対して。

中韓には、70年以上前に実際に経験した痛みを今なお忘れ、許すことのできない方々がおられる。
日本と日本人は、そのような、すでに高齢となられた方々に誠意をもって対応しなければならない。
「すでに中韓共に、条約によって賠償を放棄した」という日本側の言い分は、政治的には真であっても、
人間の感情としては、それを盾にして、このような方々の思いを踏みつけるべきではない。

だが、日本の文化に囲まれて育ってきたにもかかわらず、自分たちを被害者のように語る若い世代に対しては、こう問いかけたい。
「あなたがたの祖父でも父でもなく、あなたがた自身に対して、私たち日本人が何をしたというのか?」
ONE PIECEを良く読んでいる彼らなら、その問いにどう答えるべきかがわかるだろう。
過去を語り継ぐとは、憎しみを語り継ぐことではない。過去を引き継ぐとは、理由なき憎しみを引き継ぐことではない。
旭日旗に目を留める観察眼があるならば、この漫画に込められた、はるかに建設的なメッセージに気づくことを願ってやまない。
posted by 近 at 09:55 | Comment(0) | 牧会卓話

「雨が降っても槍が降っても・・・・」

台風8号が日本を縦断中である。7月に来る台風では、史上最大と言われている。
昨日は、新潟県内も各地で大雨洪水警報が出された。また佐渡市では50年に一度の降水量を記録した。
私の住んでいる、新潟市北区でも河川の氾濫が危惧され、一部の地域では避難準備も発令されていた。
幸い教会員の住んでいる地区は外れていたが、鳴り止まぬ雷鳴、降り止まぬ豪雨は予断を許さない。
私たちも、万一に備えて避難所への持出品を用意しながら、教会員の名前を挙げながら祈り続けた。
昨日は水曜日であり、私たちの教会では夜に祈祷会を行う曜日にあたる。
午後3時を過ぎる頃には、雷雨も収まり、警報も解除され、無事、集会を守ることができた。
散会後、数名の信徒を見送りながら、教会前のぬれた道路を見つめた。
まるで朝の豪雨が幻と思われるかのように、落ち着いた路面になっていた。

だが一日を振り返ると、判断に苦慮したところがあったのも事実である。
午後、警報は解除されないが、しかし天候は落ち着いてきたように見えた時間帯が長く続いた。
夜になる前に、集会を開くべきかどうか判断し、連絡しなければならない。そこで悩んだ。
牧師の中には、「雨が降っても槍が降っても、集会は必ず守りなさい」と指導する人がいる。
そしてそれを「集会を死守する」という立派な信仰だと考える人々がいる。
彼らは、たとえ行政や警察がどれだけ警報を鳴らし、被害を食い止めようとしても、車を走らせて、集まってくる。
それが信仰の戦いだと言うのである。

村上密牧師のブログで、あるアメリカの教会が、暴風雨の中、海岸洗礼式を強行したことが掲載されていた。
http://maranatha.exblog.jp/21855370/
また私の神学校の恩師も、かつて授業の中で同じような事件について語っていたことを思い出す。
集会を守らなくても結構と言っているのではない。
だが、なぜ集会を守るのかを考えてほしい。
警報が発令され、万一の場合に備えて自宅で待機することが求められている中で、
「それでも私は集会出席を守る」というのは信仰ではない。
むしろ自分の外の世界を顧みようとしない、ただの自己満足である。

神が最も喜ばれるのは、どんな悪天候の時でも集会出席を守ることではない。
集会出席そのものが目的化してはならないのである。
そのような非常事態のときに、教会に来て祈り、礼拝することよりも大事なことがある。
おびえる家族や隣近所の人々と共にいてあげて、励ますことである。
そして教会ではなくて、自分の家の中で、取りなしの祈りをささげ、御名をほめたたえよう。
クリスチャンひとり一人が、自分の信仰を冷静に見つめていくことを学んでいけるように。
posted by 近 at 12:08 | Comment(0) | 牧会卓話

2014.7.6「あなたの心は良い地のごとく」

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聖書箇所 ルカの福音書8:4-15
 4 さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。
5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。
6 また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。
7 また、別の種はいばらの真ん中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。
8 また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」
 イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた。
 9 さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。
10 そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。
彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。
11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。
12 道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、
あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。
13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。
聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。
14 いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。
みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。
15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。
正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

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posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

緊張の説教論(5)「1-3.説教と牧会の統体性を確認する」

 今日、説教の無力さを覆い隠すかのように様々な「牧会的」試みや言葉が溢れかえっている。弟子訓練やセルグループ、生活適用誘導型デボーションテキスト、アダルトチルドレンなどの心療カウンセリング、「健康な教会」、「教会が成長するための原則」など、さながら学習塾の広告のごとく、これをやれば教会は伸びると訴えている。筆者はそれらすべてが無駄な試みだとは言わない。その中には聖書からというよりは、企業的効率主義の残滓としか思えないようなものも交じっているとはいえ、多くは人々の魂をつかむために有益なものであろう。しかしもしそれらが、説教が人々の心に届かないために、そのギャップを補完する目的によってなされているとしたら、これほど危険なことはない。今日の危機的状況を見据えるかのように、後藤光三は既に40年前、このように語っていた。
 講壇と牧会は、切りはなしえない関係にある。その場合、常に講壇が先行し、牧会がそれにしたがわなければならない。牧会も、教会内のさまざまな活動も、団体のあり方も、すべて講壇への応答でなければならない。説教において、神の御旨が示され、その御旨への応答として、教会の活動があり、教会員の生活があるので、説教は常に教会生活の中心でなければならない。牧師が説教の無力を、牧会的手腕で補おうとしたり、教会が御言の宣教を怠りながら、いわゆる交わりと称するさまざまな社会的な会合や、社会事業的な手段方法で補おうとするならば、それはもはや御言による教会とは言えなくなる。それはむしろ、世俗的な団体の一つであると言わなければならない。あるいは、それが、数においては成功を見ることがあるとしても、それはあくまで、キリストの身体なる教会とは言いえないのである。(8)
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posted by 近 at 08:21 | Comment(0) | 説教論