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緊張の説教論(5)「1-3.説教と牧会の統体性を確認する」

 今日、説教の無力さを覆い隠すかのように様々な「牧会的」試みや言葉が溢れかえっている。弟子訓練やセルグループ、生活適用誘導型デボーションテキスト、アダルトチルドレンなどの心療カウンセリング、「健康な教会」、「教会が成長するための原則」など、さながら学習塾の広告のごとく、これをやれば教会は伸びると訴えている。筆者はそれらすべてが無駄な試みだとは言わない。その中には聖書からというよりは、企業的効率主義の残滓としか思えないようなものも交じっているとはいえ、多くは人々の魂をつかむために有益なものであろう。しかしもしそれらが、説教が人々の心に届かないために、そのギャップを補完する目的によってなされているとしたら、これほど危険なことはない。今日の危機的状況を見据えるかのように、後藤光三は既に40年前、このように語っていた。
 講壇と牧会は、切りはなしえない関係にある。その場合、常に講壇が先行し、牧会がそれにしたがわなければならない。牧会も、教会内のさまざまな活動も、団体のあり方も、すべて講壇への応答でなければならない。説教において、神の御旨が示され、その御旨への応答として、教会の活動があり、教会員の生活があるので、説教は常に教会生活の中心でなければならない。牧師が説教の無力を、牧会的手腕で補おうとしたり、教会が御言の宣教を怠りながら、いわゆる交わりと称するさまざまな社会的な会合や、社会事業的な手段方法で補おうとするならば、それはもはや御言による教会とは言えなくなる。それはむしろ、世俗的な団体の一つであると言わなければならない。あるいは、それが、数においては成功を見ることがあるとしても、それはあくまで、キリストの身体なる教会とは言いえないのである。(8)
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posted by 近 at 08:21 | Comment(0) | 説教論