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(09/24)2023.9.24主日礼拝のライブ中継
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
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緊張の説教論(13)「4-2.バルト説教論の問題点と第二スイス信条」
「人間の言葉を通してなされる説教がどうして神の言葉になるのか」。説教論の焦眉となる命題は恐らくこれに尽きるだろう。しかし福音派においてこの命題が真剣に取り扱われてこなかったのはなぜだろうか。自明の理として片づけられてしまっているのだろうか。それとも宗教改革の時にその問題は既に決着を見たと考えているのか。あるいはバルト神学の二の轍を踏むまいという危惧がこの問題に対する神学作業を先送りにしてきたのだろうか。バルトの神学においてはこの命題が極めて重要な意味を持つ。バルトの初期の著作である『教会教義学』の中においてその思想は既に見られるが、むしろここでは彼の神学的熟成期の言葉に目を留めてみよう。畏友トゥルナイゼンとの共著である『神の言葉の神学』において、バルトは以下のように述べている。続きを読む
posted by 近 at 12:57
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| 説教論
2014.10.5「ゆるい教会の祝福」
週報はこちらです。
聖書箇所 使徒11:19-24
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聖書箇所 使徒11:19-24
19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。
23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。
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posted by 近 at 18:00
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| 2014年のメッセージ
緊張の説教論(12)「4-1.今日における説教論の研究動向」
第4章 「緊張の説教」と「神の言葉化の神学」
前章で、「緊張の説教」の三一的定義を行った。従前の説教論が「聖書・説教者・聴衆」という三要素を重視するように、緊張の説教においてもそれらが本来指向する「何を・誰が・誰に」語るのかという枠組みを決して無視しない。しかし従前の説教論においては、説教者と聴衆を一種の対極状態に置き、両者の礼拝内位置を説教に対する「取り次ぎ」と「応答」という行為に特化してしまう。しかしそれは説教者の応答を軽視し、聴衆の説教参与を受動的なものに留まらせるという弊害をも内包している。それに対して、緊張の説教は、説教を総体として神による還元的行為として定義する。説教者も聴衆も神に言葉を与えられ、同時にそれを神に再びささげる。その応答は説教の中で既に自己完結的になされる。説教において、説教者も聴衆も神の器として説教をささげ、最後にアーメンをもってその応答を完結する。
しかしここでこのような反論も考えられよう。いわゆる「緊張の説教論」なるものはかつてカール・バルトら「神の言葉の神学」が標榜したものとほとんど変わらないのではないか。神の啓示はただ一つイエス・キリストであり、聖書はそのキリストを証しする人間の証言集のようなものである。そのため誤謬も有り得るその聖書を通しての、さらに説教者という誤りのある人間の言葉が神の言葉になるのは、神の恵みである。しかるべき場所でこの聖書の言葉が人によって語られるとき、聖霊の関与によってそれは神の言葉となり、説教を通しての神人の実存的な出会いが生じるのである・・・・「神の言葉の神学」の主張をごく簡単にまとめるならば、以上のようなものになろう。しかし実際のところ、それは「神の言葉」を標榜しつつも「神の言葉化」を説くものでしかない。「神の言葉の神学」は「神の言葉化の神学」である。福音主義を標榜する者は、「神の言葉」である聖書に対する権威と信仰を明確に打ち出しつつ、真の意味で「神の言葉の説教は神の言葉である」(第二スイス信条)と告白する者でなければならない。続きを読む
前章で、「緊張の説教」の三一的定義を行った。従前の説教論が「聖書・説教者・聴衆」という三要素を重視するように、緊張の説教においてもそれらが本来指向する「何を・誰が・誰に」語るのかという枠組みを決して無視しない。しかし従前の説教論においては、説教者と聴衆を一種の対極状態に置き、両者の礼拝内位置を説教に対する「取り次ぎ」と「応答」という行為に特化してしまう。しかしそれは説教者の応答を軽視し、聴衆の説教参与を受動的なものに留まらせるという弊害をも内包している。それに対して、緊張の説教は、説教を総体として神による還元的行為として定義する。説教者も聴衆も神に言葉を与えられ、同時にそれを神に再びささげる。その応答は説教の中で既に自己完結的になされる。説教において、説教者も聴衆も神の器として説教をささげ、最後にアーメンをもってその応答を完結する。
しかしここでこのような反論も考えられよう。いわゆる「緊張の説教論」なるものはかつてカール・バルトら「神の言葉の神学」が標榜したものとほとんど変わらないのではないか。神の啓示はただ一つイエス・キリストであり、聖書はそのキリストを証しする人間の証言集のようなものである。そのため誤謬も有り得るその聖書を通しての、さらに説教者という誤りのある人間の言葉が神の言葉になるのは、神の恵みである。しかるべき場所でこの聖書の言葉が人によって語られるとき、聖霊の関与によってそれは神の言葉となり、説教を通しての神人の実存的な出会いが生じるのである・・・・「神の言葉の神学」の主張をごく簡単にまとめるならば、以上のようなものになろう。しかし実際のところ、それは「神の言葉」を標榜しつつも「神の言葉化」を説くものでしかない。「神の言葉の神学」は「神の言葉化の神学」である。福音主義を標榜する者は、「神の言葉」である聖書に対する権威と信仰を明確に打ち出しつつ、真の意味で「神の言葉の説教は神の言葉である」(第二スイス信条)と告白する者でなければならない。続きを読む
posted by 近 at 14:21
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| 説教論