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緊張の説教論(12)「4-1.今日における説教論の研究動向」

第4章 「緊張の説教」と「神の言葉化の神学」

 前章で、「緊張の説教」の三一的定義を行った。従前の説教論が「聖書・説教者・聴衆」という三要素を重視するように、緊張の説教においてもそれらが本来指向する「何を・誰が・誰に」語るのかという枠組みを決して無視しない。しかし従前の説教論においては、説教者と聴衆を一種の対極状態に置き、両者の礼拝内位置を説教に対する「取り次ぎ」と「応答」という行為に特化してしまう。しかしそれは説教者の応答を軽視し、聴衆の説教参与を受動的なものに留まらせるという弊害をも内包している。それに対して、緊張の説教は、説教を総体として神による還元的行為として定義する。説教者も聴衆も神に言葉を与えられ、同時にそれを神に再びささげる。その応答は説教の中で既に自己完結的になされる。説教において、説教者も聴衆も神の器として説教をささげ、最後にアーメンをもってその応答を完結する。
 しかしここでこのような反論も考えられよう。いわゆる「緊張の説教論」なるものはかつてカール・バルトら「神の言葉の神学」が標榜したものとほとんど変わらないのではないか。神の啓示はただ一つイエス・キリストであり、聖書はそのキリストを証しする人間の証言集のようなものである。そのため誤謬も有り得るその聖書を通しての、さらに説教者という誤りのある人間の言葉が神の言葉になるのは、神の恵みである。しかるべき場所でこの聖書の言葉が人によって語られるとき、聖霊の関与によってそれは神の言葉となり、説教を通しての神人の実存的な出会いが生じるのである・・・・「神の言葉の神学」の主張をごく簡単にまとめるならば、以上のようなものになろう。しかし実際のところ、それは「神の言葉」を標榜しつつも「神の言葉化」を説くものでしかない。「神の言葉の神学」は「神の言葉化の神学」である。福音主義を標榜する者は、「神の言葉」である聖書に対する権威と信仰を明確に打ち出しつつ、真の意味で「神の言葉の説教は神の言葉である」(第二スイス信条)と告白する者でなければならない。続きを読む
posted by 近 at 14:21 | Comment(0) | 説教論