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2016.4.24「ほめよ、いと高き神の子を」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
きたる4/29、恒例の「豊栄流茶会」を新潟聖書学園バザーにて開催します。
「ブログを見て来ました」と受付で言うと、なんと!!一席200円が無料に!!(牧師のおごり) ただし教会員は除きます。
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(ポスター、5MBとかなり重いです。クリックするときはご注意を)
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』8章26-39節 

序.
 戦前に活躍し、わずか33才で亡くなった天才作家、中島敦の短い小説に、「山月記」というものがあります。
主人公は、若い頃からプライドの塊であった、あるエリートですが、彼は人と出世を争ったり、妬んだり、憎んだりすることを繰り返します。
やがて心の内側で押さえつけていた獣が、いつのまにか彼の外側にさえもあふれだし、彼を人食い虎に変えてしまうという物語です。
中島が伝えようとしたのは、一部のエリートではなく、すべての人間が、そのような獣を心の中に飼っているということでした。
私たちは理性や一般常識、社会道徳などによってそれを押さえつけて、何事もないように生きています。
しかし、イエス様の前に現れたこの人は、心が幾千の悪霊たちに支配されて、そのたががすべて外れてしまったのです。
そこには、自由はありません。ただ憎み、壊し、恨み、傷つけ、殺すというおぞましい感情に流されるだけの一日でした。
ここに出てくる、悪霊につかれた人というのは、決して現代の精神病のたぐいではありません。
たしかにある種の精神疾患は、重度のときに妄想や破壊衝動を伴うことがあります。
そのため、ある人々はこの悪霊につかれた人をその病気と一緒にしてしまい、本人や家族に対して二重の苦しみを与えることがあります。
しかし、この人の心から常に垂れ流されている強烈な破壊衝動は強引に精神疾患に結びつけてはなりません。
むしろ生まれつき罪人であるすべての人間が持っているものだと言えるでしょう。続きを読む
posted by 近 at 15:42 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.4.17「目が開かれた羊」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
熊本・大分地震の被災者の方々の上に、主の慰めと励ましがありますようにと祈ります。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』9章1-41節 

序.
 今日の聖書箇所を読むたびに、私は自分の少年時代を思い出します。
教会では何度も語ってきましたが、私が中学生のとき、突然骨肉腫という病気にかかり、左足を切断しました。
そのときに、よせばいいのに、両親が占い師の所に行って私のことを聞いてきたのです。
するとその人いわく、「坊ちゃんの先祖にお侍がいて、町人の足を刀で切った。その報いが坊ちゃんに今起きているのです」。
父は、自分は無神論者だと常々言っていましたので笑いながら伝えましたが、隣の母親が動揺していたのはよくわかりました。
前世の報いだとか、因果応報だとかいうのは、日本人の中にびっしりとこびりついてるのは確かだろうと思います。
そして、まるでこの弟子たちの言葉も、まるで同じことを言っているかのようです。
イエスは道ばたで、生まれたときから目が見えない人が物ごいとして座り込んでいるのをご覧になられました。
そしてその視線に気づいた弟子たちは、イエスにこう尋ねました。
2節、「先生、彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。

 注意してほしいのですが、聖書には、前世だとか、生まれ変わりといった考え方はありません。
しかし人間のはるか先祖、アダムとエバが犯した罪が、脈々とその子孫であるすべての人に受け継がれている、ということは書いてあります。
当時のユダヤ人が陥っていた誤解、いや偏見が、弟子たちの質問には現れています。
それは、すべての人が罪をもって生まれてくるという原罪の教理を、とりわけハンディキャップを持つ人たちに当てはめてしまっていたことです。
後になって、パリサイ人たちは、弟子たちより露骨に、その偏見を直接この人に言い放っています。
「おまえはまったく罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか」と。
罪の中に生まれてきたのは、彼らパリサイ人も同じです。少なくとも、彼らが学んできた旧約聖書はそう教えていました。続きを読む
posted by 近 at 17:58 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.4.10「後ろ向きに前進」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日の午後は、教会墓地で召天者記念会を行いました。

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週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』5章1-18節 

序.
 何十年も前の話です。
新潟市内のある教会で、土・日にまたがる特別集会の講師として、ある有名な伝道者を招いたことがありました。
土曜日の昼前に、若い牧師が新潟駅まで迎えに行き、駅前の食堂で一緒に昼食をとりました。
集会は夜ですので、まだ時間がたくさんあります。そこで牧師はその講師におずおずと聞きました。
「先生、集会は夜ですし、まだホテルのチェックインまで時間があります。もしよろしかったら、市内の名所をご案内しますが・・・・」。
するとその講師はほほえみながら、こう答えました。
「お気遣いに感謝します。しかし私は新潟に観光に来たわけではありません。それよりも先生、いま入院中の方はおられませんか。
突然お伺いしても失礼でなければ、その方にも、今回与えられたみことばを語らせていただきたいと願います」。
青年牧師は、その講師の態度に非常に感銘を受けたそうです。
そして彼もまた、後に特別集会の講師に招かれるようになりましたが、いつも同じことを実践するようにしている、ということです。
 さて、祭りで沸き立つエルサレムの都に上られたイエス様も、祭りを楽しむことを目的とはしておられませんでした。
イエス様が向かわれた先は、祭りの喜びなどまるで無縁な、どんよりとした重苦しい空気が漂う、ベテスダの池。
その水が動くときに一番に入れば、どんな病気もいやされるという噂を信じ、医者に見放された病人たちが集まっていたところでした。
先週学んだ、10人のツァラアトに冒された人のように、彼らは、病を持つ者同士、肩を寄せ合って生きていたのでしょうか。
いいえ、まったくの逆でした。そこはあたかも戦場のようなところだったのです。続きを読む
posted by 近 at 19:31 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.4.3「感謝の心」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。最近、教会でクラフトワーク教室を始めました。
もともとは有志がクラフトで籠を編み、バザーに出品していたのですが、ある方がそのバリエーションで人形作りを教えてくださいました。

DSC00610_1.JPG かわいいフクロウのアベック・・・・じゃない、カップルです。ふう、年がばれる

DSC00608_1.JPG ちょっと雑然としておりますが、みんなで楽しく?制作中。
DSC00612_1.JPG 見よ、子どもたちの真剣な表情。CSでもこれくらい・・・・いやよそう
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』17章11-19節 

序.
 まず12節の前半をもう一度お読みします。「ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った」。
「ある村に入ると」とありますが、実際には「ある村に近づいたとき」と訳すべきでしょう。
なぜならば、ツァラアトに冒された人は、家族と引き離され、それまで住んでいた村から追い出されて、村の外に住むのが決まりだったからです。
ツァラアトという病気がいったいどのようなものだったのか、詳しくはわかりません。
昔の聖書では「らい病」と訳されていたこともありましたが、今ではらい病との関係は否定されており、ツァラアトとそのまま訳しています。
しかしツァラアトがどんな病気であるにせよ、それにかかった人は共同体から締め出されてしまう、恐ろしい病でした。
同じ村の人々と一緒に住むことも許されず、「私は汚れている、汚れている」と叫びながら、生きていかなければなりませんでした。
このツァラアトに冒された十人が、遠く離れた所から声を張り上げてイエスに叫んだのも、そんな厳しいきまりがあったからです。
 しかし彼らは十人とも、ツァラアトとして歩む苦しみを通して、すばらしい信仰をいただいておりました。
それは、見ずに信じる信仰です。彼らはイエス様に叫びました。どうか私をあわれんでください、と。
そしてイエス様はこうお答えになりました。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」。
祭司に見せよ、とは、ツァラアトがいやされたかどうかの判断は、祭司がすることになっていたからです。
しかし、考えてみてください。イエス様が行きなさいといったとき、彼らのからだには何も変化が起きていなかったのです。
それでも彼らは、自分に変化が起きたかどうかではなく、ただイエス様のお言葉だけを信じました。
じつに驚くべき信仰です。そして十人が十人とも、祭司のところへ行く途中でいやされたのです。続きを読む
posted by 近 at 17:05 | Comment(0) | 2016年のメッセージ