こんにちは。あなたの心にキリストGO。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週、当教会のI兄が、韓国で行われた聖会に参加してきました。韓国みやげとして愛餐会で配られたのが「高麗人参ゼリー」。
私の向かいに座っていたK兄がうまいうまいと言ってむしゃむしゃ食べていたので、私も勇気を出して口に入れました。
封を開けた瞬間から漂う独特の香り・・・口に入れれば言わずもがな。これを美味と賞賛したK兄を心から尊敬しました。
舌よりもむしろ胃そのものに訴えかけてくる味覚の洪水の中で、頭に思い浮かんできたメロディが「この道はいつか来た道」(北原白秋)。
ああ そうだよ。かの北海道名物、ジンギスカンキャラメルを思い出しました。
「激烈な味のゆえに、たいていのいやなことは忘れられます」というあのキャッチコピーが、この高麗人参ゼリーにもきっと書いてあるのでしょう。
ハングルなので読めませんが。
とりあえず、教会にお土産を買ってきてくれたI兄の心遣いに感謝。そのうち、礼拝で証しをしていただきましょう。
週報はこちらです。
聖書箇所 『出エジプト記』14章1-31節
序.
聖書になじみがない方であっても、今日の物語だけは知っている、ということがあるのではないでしょうか。
ここにはイスラエルとエジプトとの間の、手に汗握る攻防のシーンが十分に描かれております。
総勢200万人のイスラエルの民が、男も女も、老いも若きも、人も家畜も、行列を組み、自由の身分となってエジプトを出発しました。
しかし一度はイスラエルを出て行かせたエジプト王パロは、やはり心を翻して、エジプトの精鋭を引き連れて彼らを連れ戻そうと追いかけます。
前は紅海、後ろはエジプト軍、追い詰められた絶体絶命のイスラエル二百万人。
しかしモーセが杖を高く掲げると、なんと紅海が割れて、乾いた海底の道をイスラエルは歩んでいく。
エジプト軍もそれを追いかけるが、神が彼らを混乱させ、追いつくことができない。
やがてエジプト軍は気づく。我々がイスラエルを攻めているのではなく、我々はイスラエルの神、主から攻められている側なのだ、と。
しかし逃げることもままならないなか、モーセが手を差し伸べると、海の壁が崩れ、水がエジプト軍を襲い、彼らは全滅してしまったのです。
まず、多くの人が思うのは、紅海の水がせき止められて道ができるなど、あるわけがない、これは神話にすぎないということでしょう。
実際に、歴史家たちはこう言います。もし本当にこんな出来事が起きたのなら、エジプトの資料に残っているはずだ、と。
しかし、誇り高いエジプト人が、世界最強の軍隊が丸腰の、しかも半数が女子どもの民族に負けたなど、歴史書に書くはずもありません。
むしろ現代の地質学が明らかにしたのは、この紅海は、地震の原因である地球のプレートの境目にあたるところだということでした。
つまり地球の裂け目だというのです。事実、4年前の2012年、紅海で海底火山が爆発して新しい島が生まれています。
もちろん海底火山の爆発が水をせきとめたのだとか言いたいのではありません。
しかしこの自然をすべて作られた神は、私たちの想像を超えたことをおできになるお方です。
科学はそれに追いつくどころか、無限大の神に対して人間の知恵は愚かで矮小なことを痛感するのみです。続きを読む
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(01/17)2025.1.12「祝福の秘訣」(詩128:1-6)
(01/10)2025.1.5「終わりの時代は恵みの時代」(ルカ21:1-19)
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2016.7.24「あの逃げ水へ進め」
posted by 近 at 09:24
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| 2016年のメッセージ
2016.7.17「いのち塗られて」
こんにちは。あなたの心に小さな一票を。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私が高校時代を過ごした某敬和学園では、毎朝礼拝がありましたが、その日歌う讃美歌の番号が体育館の黒板に書かれていました。
あれから約30年・・・・先日、CBD(キリスト教の通販サイト)からのニュースレターに、あの若かりし頃の記憶を彷彿とさせるものが!
お値段100ドル。これを会堂の壁に掛ければ、讃美歌(新聖歌)もスムーズに開いてもらえるかもしれません。

しかしよく見ると、「Attendance Today(本日の出席)364」とか書いてあります。
賛美歌の番号じゃなくて、CS出席人数かよ!さすがアメリカ、スケールがでかい。
ただ「先週の出席」はわかりますが、「一年前の出席」ってどうなんでしょう。あまり意味がないような。
日本の教会はCSの出席人数が一桁でも決してめげません。ええ、めげませんとも。週報はこちらです。
聖書箇所 『出エジプト記』12章21-36節
序.
二十年近く前のこと、私が四年間勤めた市役所を退職したときのことです。
退職は3月末日でしたが、退職の申し出はその半年前に上司に出しておりました。
しばらくして、課長から、「近さん、部長が部屋に来いってさ」と言われました。
その部長さんは、私も決済を取りに何度か伺ったことがありましたが、強面で、いわゆるこわい人でした。
「三、四年でやめるくらいだったら最初から入ってくるな」と怒鳴られるんじゃないかと、びくびくしながら、部長のところに向かいました。
すると穏やかにこう聞いてきました。「あんた牧師だか神父だかになるためにやめると聞いたけれど、牧師というのはどうやったらなれるんだ」。
私が「神学校という所に行きまして、三年間学びそれから試験を受けます」と答えると、「ふーん、がんばってな」と、ものの五分で終わりました。
ところがやめるまでの半年間、その部長さんがちょくちょく私を部屋に呼んでくださるのです。
「聖書は何が書いてあるのか」「教会は何をするところなのか」と、ひとつずつ聞いては、私もひとつずつ答えて、五分経ったら「もういいよ」と。
しかし三月の終わりになって、その方が初めて自分自身の話をしてくださいました。
「自分がまだ小さかった頃に、何ヶ月か重い病気にかかって、このまま死ぬのかな、と思うことがあった。
幸い病気は直り、それ以来大病も経験していないのだが、ふとあの時のことを思い出すことがあって、死というものを考えることがある。
でも役所の中でこんなことは人に言えないし、ただあんたはもうやめていく人間だから、付き合ってもらった。今までありがとう」。
その部長さんとは、その後聖書を贈り、今はお付き合いはないのですが、今日の聖書の箇所を学びながら、ふと思い出しました。
モーセがエジプト王パロに、イスラエルを奴隷から解き放つように語ったとき、パロは決してその言葉を聞こうとしませんでした。
もちろんその強面の部長さんと、かたくななパロが繋がったのではありません。ただ、共通点がありました。
それは、どちらも「死」ということに直面したときに、心が揺れたことです。続きを読む
私が高校時代を過ごした某敬和学園では、毎朝礼拝がありましたが、その日歌う讃美歌の番号が体育館の黒板に書かれていました。
あれから約30年・・・・先日、CBD(キリスト教の通販サイト)からのニュースレターに、あの若かりし頃の記憶を彷彿とさせるものが!
お値段100ドル。これを会堂の壁に掛ければ、讃美歌(新聖歌)もスムーズに開いてもらえるかもしれません。

しかしよく見ると、「Attendance Today(本日の出席)364」とか書いてあります。
賛美歌の番号じゃなくて、CS出席人数かよ!さすがアメリカ、スケールがでかい。
ただ「先週の出席」はわかりますが、「一年前の出席」ってどうなんでしょう。あまり意味がないような。
日本の教会はCSの出席人数が一桁でも決してめげません。ええ、めげませんとも。週報はこちらです。
聖書箇所 『出エジプト記』12章21-36節
序.
二十年近く前のこと、私が四年間勤めた市役所を退職したときのことです。
退職は3月末日でしたが、退職の申し出はその半年前に上司に出しておりました。
しばらくして、課長から、「近さん、部長が部屋に来いってさ」と言われました。
その部長さんは、私も決済を取りに何度か伺ったことがありましたが、強面で、いわゆるこわい人でした。
「三、四年でやめるくらいだったら最初から入ってくるな」と怒鳴られるんじゃないかと、びくびくしながら、部長のところに向かいました。
すると穏やかにこう聞いてきました。「あんた牧師だか神父だかになるためにやめると聞いたけれど、牧師というのはどうやったらなれるんだ」。
私が「神学校という所に行きまして、三年間学びそれから試験を受けます」と答えると、「ふーん、がんばってな」と、ものの五分で終わりました。
ところがやめるまでの半年間、その部長さんがちょくちょく私を部屋に呼んでくださるのです。
「聖書は何が書いてあるのか」「教会は何をするところなのか」と、ひとつずつ聞いては、私もひとつずつ答えて、五分経ったら「もういいよ」と。
しかし三月の終わりになって、その方が初めて自分自身の話をしてくださいました。
「自分がまだ小さかった頃に、何ヶ月か重い病気にかかって、このまま死ぬのかな、と思うことがあった。
幸い病気は直り、それ以来大病も経験していないのだが、ふとあの時のことを思い出すことがあって、死というものを考えることがある。
でも役所の中でこんなことは人に言えないし、ただあんたはもうやめていく人間だから、付き合ってもらった。今までありがとう」。
その部長さんとは、その後聖書を贈り、今はお付き合いはないのですが、今日の聖書の箇所を学びながら、ふと思い出しました。
モーセがエジプト王パロに、イスラエルを奴隷から解き放つように語ったとき、パロは決してその言葉を聞こうとしませんでした。
もちろんその強面の部長さんと、かたくななパロが繋がったのではありません。ただ、共通点がありました。
それは、どちらも「死」ということに直面したときに、心が揺れたことです。続きを読む
posted by 近 at 23:14
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| 2016年のメッセージ
文書仮説と進化論(旧約緒論レポート)
先日の祈祷会メッセージで、「ペンテコステ運動が初めて起こった時期(19世紀中盤)が、教会自ら聖書を捨てた時期と重なるのではないか」という話をしました。そのときに説明が足りなかったので、当時興隆した文書仮説についてのレポートをアップします。今読み返すと、どことなく断定調で言葉もキツいですが、なにしろ福音派の神学校で、しかも〆切に追われて書いたものですので、どうかご勘弁ください。あくまでも参考ということで。十数年前に書いたものなので、質問されても、ちょっと困ります。
「ヨーロッパを一つの怪物がうろついている 共産主義の怪物が」。『共産党宣言』(1848)の序文でカール・マルクスは当時の政治家の恐怖をこのように代弁してみせている。そしてそれから数年後、正統的な聖書信仰をもつ者たちもまたこのように嘆いていたかもしれない。「ヨーロッパを一つの怪物がうろついている 進化論の怪物が」。まさに19世紀後半は、神学においても本文研究においても進化論という怪物に人々が魅せられていた時代であった。それは「JEDP」という架空の資料を切り貼りしてモーセ五書の成立を説明した、ヴェルハウゼン学説の発展と支配に象徴される。18世紀の啓蒙主義が聖書を自由に解体する勇気を与え、19世紀の進化論が聖書を自由に構成する悦びを与えた。人類の起源を実証なき推論によって自在に思い描いた進化論は、聖書研究の領域においても、その起源に架空文書の存在をもって良しとしてしまう学問的態度を許したのである。
このように人々を惹きつけたヴェルハウゼン学説とは何なのか。そして福音派を名乗る者はそれに対してどのように反論していけばよいのか。それには、まずこのヴェルハウゼン学説に至る研究史の変遷についてまとめる必要があるだろう。けだし最初に語らなければならないのは、18世紀にアストリュクが提唱した説である。彼は創世記の中に、神を表す言葉としてエロヒームとヤハウェの二つが出てくることに注目した。そしてそこから彼は、創世記はA資料(エロヒーム)とB資料(ヤハウェ)、さらに10の断片から構成されたと結論づける。これがその後200年間の批評的研究の皮切りとなったのである。続きを読む
「ヨーロッパを一つの怪物がうろついている
このように人々を惹きつけたヴェルハウゼン学説とは何なのか。そして福音派を名乗る者はそれに対してどのように反論していけばよいのか。それには、まずこのヴェルハウゼン学説に至る研究史の変遷についてまとめる必要があるだろう。けだし最初に語らなければならないのは、18世紀にアストリュクが提唱した説である。彼は創世記の中に、神を表す言葉としてエロヒームとヤハウェの二つが出てくることに注目した。そしてそこから彼は、創世記はA資料(エロヒーム)とB資料(ヤハウェ)、さらに10の断片から構成されたと結論づける。これがその後200年間の批評的研究の皮切りとなったのである。続きを読む
posted by 近 at 12:21
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| 神学校時代のレポート
2016.7.10「神の歩幅に合わせて」
こんにちは。あなたの心に小さな一票を。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
さて、南京・・・ではなく、この4月から、 人手不足 次世代伝道の拡充のために、CS(日曜学校)教師も担当するようになりました。
そんなわけで礼拝とCSは、同じ聖書箇所からメッセージしています。手抜きではありません。聴衆の理解度を高めるための牧会的配慮です。
講解説教を14年間続けてきた私としては大きなチャレンジでしたが、礼拝説教ではできないようなこともCSで試みています。
といっても、ネクタイを外してエジプト人のムチにしたりとか、忘年会の隠し芸みたいなノリですが。週報はこちらです。
聖書箇所 『出エジプト記』3章1-14節
序.
先週の説教から、この『出エジプト記』を学んでいます。この聖書の出来事は、今からおよそ3500年前の時代に起きたことです。
モーセの同胞であるイスラエル人は、寄留しているエジプトで、彼らの奴隷として扱われていました。
ただの奴隷としてであればまだ希望があったでしょう。
しかしエジプトの王パロは、イスラエル人の力をそぐために、男の子は生まれたらすぐにナイル川に投げ込んで殺せと命じていました。
そのように、まったく将来に希望のない暗黒の時代に生まれたのが、後にイスラエルの指導者となるモーセです。
先週の説教では、このモーセが、神のご計画の中で、パロの王女に拾われて、養子として育てられていくという不思議を見ました。
彼は40歳になるまで、エジプトの宮殿で、当時最高の学問と教養を学んでいきます。
ここで、モーセに起こったことを、教会学校の紙芝居の一枚を使って説明します。
続きを読む
さて、南京・・・ではなく、この4月から、
そんなわけで礼拝とCSは、同じ聖書箇所からメッセージしています。手抜きではありません。聴衆の理解度を高めるための牧会的配慮です。
講解説教を14年間続けてきた私としては大きなチャレンジでしたが、礼拝説教ではできないようなこともCSで試みています。
といっても、ネクタイを外してエジプト人のムチにしたりとか、忘年会の隠し芸みたいなノリですが。週報はこちらです。
聖書箇所 『出エジプト記』3章1-14節
序.
先週の説教から、この『出エジプト記』を学んでいます。この聖書の出来事は、今からおよそ3500年前の時代に起きたことです。
モーセの同胞であるイスラエル人は、寄留しているエジプトで、彼らの奴隷として扱われていました。
ただの奴隷としてであればまだ希望があったでしょう。
しかしエジプトの王パロは、イスラエル人の力をそぐために、男の子は生まれたらすぐにナイル川に投げ込んで殺せと命じていました。
そのように、まったく将来に希望のない暗黒の時代に生まれたのが、後にイスラエルの指導者となるモーセです。
先週の説教では、このモーセが、神のご計画の中で、パロの王女に拾われて、養子として育てられていくという不思議を見ました。
彼は40歳になるまで、エジプトの宮殿で、当時最高の学問と教養を学んでいきます。
ここで、モーセに起こったことを、教会学校の紙芝居の一枚を使って説明します。

posted by 近 at 20:55
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| 2016年のメッセージ
2016.7.3「『さて』で始まる主の計画」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教の導入で、「『さて』という言葉が、出来事が切れ目なく続いていくことを示す」例話として、「南京玉すだれ」を紹介しました。
「あ、さて、あ、さて、あ、さて、さて、さて、さて」と実演したのですが、家人からは「かんでるうえにすべってるよ」と言われました。ぐぬぬ
そう言えば、かの国民的アニメ『ドラゴンボール』でも、ナレーターの八奈見乗児さんが「あ、さて」で前回のあらすじを始めていましたね。
これも、物語が切れ目なく続いていくことを示すものなのでしょうか。
ちなみに『ボトムズ』次回予告での、銀河万丈さんのナレーションも、独特の言い回しが説教者には参考になります。
世代の違う人にはまったく興味のない話になってしまい、すみません。週報はこちらです。
聖書箇所 『出エジプト記』1章1節-2章10節
序.
かつて市役所の老人福祉課に勤めていた頃、新潟市内に何カ所かある老人憩いの家を巡回する仕事をしたことがありました。
ある憩いの家に行ったとき、たまたま大道芸人がそこを訪れており、私もその方の芸を眺めていました。
妙に耳に残るフレーズでして、「あ、さて、あ、さて、あ、さてさてさて、さては南京玉すだれ、・・・・」、そこからはおぼえておりませんが。
今日の聖書箇所で「さて、ヤコブといっしょに、・・・」という書き出しが目に入ったとき、あのときの「あ、さて」のフレーズを思い出しました。
どうでもいいことのように思われるかもしれませんが、玉すだれと出エジプト記がそれぞれ「さて」で始まるのには、じつは大きな意味があります。
「さて」という言葉は、今では日常会話でほとんど使うことがありませんが、本来は話を切れ目なく続けていくためのものなのだそうです。
そして例の南京玉すだれも、すだれを動かして竿にしたり、そこから旗だとか、橋だとか、さまざまなものに切れ目なく形を変えていく芸なので、
芸人の口上として「さて、さて、さて」と言うのがきまりのようです。
この出エジプト記の最初に出てくる「さて」という言葉も、それとまったく同じです。
出エジプト記という書物がこれから新しく始まるのではない。
むしろこれから語られることは、今まで創世記を通して示されてきたことがこれからも続いていくということを、「さて」という言葉で表しています。
言い換えるならば、創世記で語られてきた預言や意味不明の出来事が、この出エジプト記において次々と明らかになっていくのです。
アブラハム、ヤコブ、イサク、ヨセフに与えられた経験やみことばが、この出エジプト記のできごとを通して、次々と現実のものになっていきます。
ここで、私たちは創世記の中で、イスラエル人の先祖アブラハムに神が約束されたことばを開きたいと思います。
創世記15章13節から14節までをお読みします。「そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。
あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる」。続きを読む
今回の説教の導入で、「『さて』という言葉が、出来事が切れ目なく続いていくことを示す」例話として、「南京玉すだれ」を紹介しました。
「あ、さて、あ、さて、あ、さて、さて、さて、さて」と実演したのですが、家人からは「かんでるうえにすべってるよ」と言われました。ぐぬぬ

そう言えば、かの国民的アニメ『ドラゴンボール』でも、ナレーターの八奈見乗児さんが「あ、さて」で前回のあらすじを始めていましたね。
これも、物語が切れ目なく続いていくことを示すものなのでしょうか。
ちなみに『ボトムズ』次回予告での、銀河万丈さんのナレーションも、独特の言い回しが説教者には参考になります。
世代の違う人にはまったく興味のない話になってしまい、すみません。週報はこちらです。
聖書箇所 『出エジプト記』1章1節-2章10節
序.
かつて市役所の老人福祉課に勤めていた頃、新潟市内に何カ所かある老人憩いの家を巡回する仕事をしたことがありました。
ある憩いの家に行ったとき、たまたま大道芸人がそこを訪れており、私もその方の芸を眺めていました。
妙に耳に残るフレーズでして、「あ、さて、あ、さて、あ、さてさてさて、さては南京玉すだれ、・・・・」、そこからはおぼえておりませんが。
今日の聖書箇所で「さて、ヤコブといっしょに、・・・」という書き出しが目に入ったとき、あのときの「あ、さて」のフレーズを思い出しました。
どうでもいいことのように思われるかもしれませんが、玉すだれと出エジプト記がそれぞれ「さて」で始まるのには、じつは大きな意味があります。
「さて」という言葉は、今では日常会話でほとんど使うことがありませんが、本来は話を切れ目なく続けていくためのものなのだそうです。
そして例の南京玉すだれも、すだれを動かして竿にしたり、そこから旗だとか、橋だとか、さまざまなものに切れ目なく形を変えていく芸なので、
芸人の口上として「さて、さて、さて」と言うのがきまりのようです。
この出エジプト記の最初に出てくる「さて」という言葉も、それとまったく同じです。
出エジプト記という書物がこれから新しく始まるのではない。
むしろこれから語られることは、今まで創世記を通して示されてきたことがこれからも続いていくということを、「さて」という言葉で表しています。
言い換えるならば、創世記で語られてきた預言や意味不明の出来事が、この出エジプト記において次々と明らかになっていくのです。
アブラハム、ヤコブ、イサク、ヨセフに与えられた経験やみことばが、この出エジプト記のできごとを通して、次々と現実のものになっていきます。
ここで、私たちは創世記の中で、イスラエル人の先祖アブラハムに神が約束されたことばを開きたいと思います。
創世記15章13節から14節までをお読みします。「そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。
あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる」。続きを読む
posted by 近 at 08:00
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