最近の記事

2016.8.28「みこころは嵐の中に」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
昨年の記事でも期限付きで紹介したのですが、9/11までGyaO!でアニメ「言の葉の庭」がまた無料視聴できるそうです。
ストーリーは好き嫌いがありますが、絵に限って言えば「ゲ○ゲの鬼太郎」の背景にも負けない、なかなかのリアリティです。
興味のある方は、いかがでしょうか。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』14章22-33節 


序.
 子どもの頃、よく祖母から「いい子にならないとバチがあたるよ」と注意されました。言葉とは恐ろしいものです。
いい子ってどんな子か、バチってどんなことか、知らないけれど、とにかくバチがあたらないようにいい子でいよう、と思いました。
もしそのまま大人になっていたら、何か悪いことが起きるたびに、これはバチが当たったのかな、と考えるようになっていたかもしれません。
事実、私が病気で足を切断したときには、「これはバチが当たったのだ」と言ってくる大人たちがたくさんおりました。
 しかし人間の目には「悪いことが起きた」と見える場合でも、神さまの目にはそうではありません。
弟子たちは、イエスの命令に従って、湖へと漕ぎ出しました。しかし向かい風のために舟が進んでいきません。
これは彼らの目には悪いことに見えます。しかし、弟子たちは神さまのことばに従って、湖へと乗り出したのです。続きを読む
posted by 近 at 14:01 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.8.21「渡されたバトン」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
さて、今年度から、礼拝説教は教会学校で使っている教案誌「成長」の聖書箇所に合わせています。
ただ「成長」で扱っている聖書箇所が常に伝道的な内容であるわけではありません。
しかもそんなときにかぎって、ミッションスクールの生徒さんたちが夏休みの宿題で10人以上大挙してやって来ました。
いつもなら喜ぶところなのですが、求道者向けの説教ではなかったため、講壇に立つ瞬間まで頭真っ白でした。
そんなわけで、この日の説教はほぼアドリブで、オリンピックの話から自分が高校生の頃の話と、まとまりのないものになってしまいました。
今回の説教録画は、もともと用意していた説教原稿に基づいて、第一礼拝(朝8:00からの少人数礼拝)で語ったものです。
本来、教会員の方々に聞いてほしかった説教でした。週報はこちらです。

聖書箇所 『申命記』34章1-12節、『ヨシュア記』1章1-9節 


1.
 さて、7月の最初の日曜日から始まり、私たちは、教会学校ならびにこの礼拝で、モーセの生涯を学んでまいりました。
今日の説教はその締めくくりになります。
イスラエルを導く役目がモーセからヨシュアへとバトンタッチされる姿を通して、私たちが信仰を継承していく姿を学びたいと願います。
まず、申命記の最後のところを見てみましょう。神はモーセの120年の生涯の終わりにあたり、山へ登らせました。
そしてその頂に立ったモーセの目に、神は眼下四方に広がるカナンの光景を見せられます。そしてこうモーセに語られました。
4節、「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに、あなたの子孫に与えようと言って誓った地はこれである。
わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡っていくことはできない」。
なぜ渡っていくことができないのでしょうか。モーセが120歳でよぼよぼのおじいさんになっていたからでしょうか。
いいえ、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった、とあります。
モーセがカナンに入っていけないのは、彼が一度犯してしまった罪のゆえでした。
メリバというところで、民がのどが乾いて死にそうだと騒いだとき、神はモーセに、岩に命じて水を出しなさいと言いました。
ところがそのときモーセは、神の言葉に真っ直ぐに従わない罪を犯してしまったのです。
岩を二度、三度、杖で叩いて、しかも民に向かって「あなたがたのために私たちが水を出さなければならないとは」と言ってしまいました。
それは、モーセがまるで自分の力で水を出したかのように振る舞う罪でした。
また二度、三度岩を叩いたことも、神はモーセがご自身のみことばを信じていない証拠としてみなされました。
そしてそのさばきとして、あなたは約束の地を見るが、そこに入ることができないと、そのときに宣告しておられたのです。
今モーセは約束の地を前にして、その言葉をかみしめていたことでしょう。
しかしカナンは約束の地ではありますが、決して天国そのものではありません。
確かにモーセは自らの罪によりそこに入ることはできませんでしたが、永遠のいのちは手に入れていたのです。
だから彼は神の前に騒ぎ立てることもなく、安らかに瞳を閉じました。神は静かに、彼の波乱に満ちた生涯を静かに終わらせてくださいました。
彼は、決してただ働きのむなしい人生ではありません。
約束の地に入ることはできませんでしたが、信仰による救いという約束のものは確かに手に入れた生涯でした。続きを読む
posted by 近 at 21:10 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.8.14「あのモーセという者」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
クリスチャン用語、というわけではありませんが、8月15日を「敗戦記念日」と言い換えることがあります。
私も以前はそう呼んでいたのですが、では「戦勝」だったらよかったのか、と言われ(そんな意図はまったくないのですが)、
この言葉だけが一人歩きして誤解を与えることがあると気づき、今では普通に「終戦記念日」と呼んでいます。
しかしクリスチャンにとって、8月15日は教会自身が戦争協力を推し進めた罪への悔い改めを祈念する日でなければなりません。
「終戦記念日」もまた、そのニュアンスを伝えるのには不十分なんですよね。ほかによい表現がないかと探しているところです。
もし何かアイディアがあればコメント欄へお願いします。週報はこちらです。

聖書箇所 『出エジプト記』32章1-35節 


序.
 1節、「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。
私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから」。
私は、この民の言葉から、どうしても思い出してしまう、イヤな経験があります。
私の入学した中学校は、時代の影響もあったのでしょうが、決して雰囲気の良い学校ではありませんでした。
中学一年生の秋くらいのことと記憶していますが、私が教室の入口付近の掃除をしていたときのことです。
女子のクラスメイトから「近って人、そこどいて」と言われました。
入学してもう何ヶ月も経っているのに、クラスメイトから「近って人」と言われたことは、私にとってたいへんなショックなことでした。
 私の通っていた中学校は、同じ町にある四つの小学校から入学してきます。
後から知りましたが、最も大きい小学校出身の人たちは、他の小学校出身者をバカにしていて、私たちはいじめの対象にされていたのです。
しかしその後でもっとショックを受けたのは、その標的から外れるために、同じ学校出身の人たちがお互いに無視したり、いじめに加わる姿でした。
中学校に入るまでは親しくあだ名で呼び合っていたかつてのクラスメイトから、「近って言う人」と呼ばれるようなこともありました。
それでも二年生に上がると、さすがにどの小学校の出身かはどうでもよくなり、私もいじめられなくなりました。
しかしそのとき人間不信になりかけた苦い傷跡は、三十年経っても、まだしっかり残っていたようです。
指導者モーセをまるでよそ者のように「あのモーセという者」と呼ぶ民の言葉は、私にとって、言葉以上の痛みを与えるものでした。続きを読む
posted by 近 at 08:33 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.8.7「十戒という名の保証書」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
四年に一度の祭典、オリンピックが始まりました。実力は勝っているのに、銀メダルで終わり涙をのむ選手もいるでしょう。
ある人が「銀メダルは恨メダル」と言いました。確かに、「金」を「忄(りっしんべん)」に変えるとそうなります。
国家の看板を背負って大会に出場している場合、惜敗したときには恨みが残ることもあるでしょう。
しかし元女子柔道の谷亮子氏が、「という文字にわずかな「」を加えれば、金よりもい字になる」と言ったそうです。
」という字も、わずかな「」を加えることができれば、どんなよりもいものになるかもしれません。
「わずかなテン」とは何でしょう。努力か、それとも心構えか。解釈と適用はお任せします。週報はこちらです。

聖書箇所 『出エジプト記』20章1-17節 


序.
 今日の聖書の箇所は、十の戒めと書いて「十戒」と言われます。
たしかに、安息日と、両親への尊敬の二つを除き、どれも「○○してはならない」の連続ですので、十戒という表現は間違っていません。
しかし、十戒は決してただの禁止命令ではなく、それは、神と人とのあいだに交わされた契約書と言ってよいでしょう。
神様は、イスラエル人に十戒を与え、この十の戒めに集約された神のおきてを守るなら、イスラエルに救いを与えると約束してくださいました。
それが旧約聖書39巻にちりばめられた律法であり、その律法が十の命令に集約されているのが、この十戒なのです。

 十戒は、イスラエルだけではなく、私たち信仰者すべてに向けられた、神の契約書です。
最初の第一の戒めから第四の戒めまでは、私たち人間が、神さまに対してどう向き合うべきかが、四つの命令で教えられています。
そして第五の戒めから最後の第十の戒めまでは、今度は私たちがこのまわりの人々とどう向き合うべきかが教えられています。
まず神との関係、それから人との関係。この順番が大切なのです。
この背後の十字架の縦棒が神との関係、横棒が人との関係というのはよく聞く言葉ですが、必ず縦棒のほうが長いのです。
まず神との関係が確かなものとされて、そこではじめて私たちは、人々に流される者ではなくて、しっかりと地面に立つ者になれます。
「自分を変える」とか「私が変わればまわりが変わる」とかよく言いますが、そのために必要なのは、神との関係を変えることです。
かつて、ある政党のキャッチコピーに「生活が第一」というのがありました。あるクリスチャンも、礼拝よりも生活が大事、と言います。
しかし礼拝よりも大事な生活などありません。むしろ礼拝と生活を分けてしまっていることが、そもそもの過ちです。続きを読む
posted by 近 at 17:13 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.7.31「感謝は誰がために」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
つい昨日のことですが、ある牧師の葬儀に参列してきました。まだ40歳。これからという年齢です。
格別親しかったということではありませんが、教会のある町が私の母の生まれ故郷でもあり、いつかじっくり話したいと思っていました。
こんなかたちで、昨年亡くなった母の故郷を35年ぶりに訪問することになろうとは考えてもいませんでした。
私に何かできることはなかったのだろうか。おそらく参列した方々みなが、そう思いながらあの場に駆けつけたのでしょう。
しかしそれでも、天国で再会できるという希望が、私たちには残されています。残されたご遺族と教会の上に、天来の慰めを求めます。
週報はこちらです。

聖書箇所 『出エジプト記』16章1-36節 

メッセージの録画ボタンを押し忘れました。撮り直す気力もありませんので、今週はご勘弁ください。

序.
 先日亡くなられた、永六輔さんが、夫婦の成長について語っていたこんな言葉がありました。
結婚して十年間は、愛の夫婦。次の十年間は、努力の夫婦。さらに次の十年間は、忍耐の夫婦。ここまでで三十年ですね。
そして忍耐の次の十年間は、あきらめの夫婦。しかしその後の十年間、そこでようやく、感謝の夫婦になれる、と。
この感謝の十年間が、いつまでも続いていけば最高なのでしょうが、およそ人間のもつ感情の中で、感謝ほど長く続かないものはありません。
イスラエルの民の歴史を挙げずとも、自らの人生を顧みてみればそのことがわかりますが、あえて聖書の実例を見てみましょう。
神が紅海をふたつに割って、イスラエルの民二百万を全員救い出し、エジプト軍を全滅させた出来事を先週学びました。
しかしそのわずか一ヶ月後には、彼らは神への感謝を忘れ、神とモーセにぶうぶう不平を漏らしている姿が、ここに描かれています。
感謝することは難しくありませんが、その間者を保ち続けることはなんと難しいことでしょうか。
一方で、人間がもっともたやすく持ってしまう負の感情は、不信です。
感謝が心の中から忘れられると、不信がそのすき間に入り込んできます。
イスラエル人は、エジプトで自分たちがどれだけ惨めな状態で暮らしていたかをすっかり忘れ、昔のほうが幸せだったと言い始めました。
そして自分たちを奴隷から解放してくださった神を、あろうことか自分たちを荒野で殺すためにここまで連れてきたとまで叫んだのです。続きを読む
posted by 近 at 17:28 | Comment(0) | 2016年のメッセージ