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2016.9.25「見えなくても信じる」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回は説教の導入で、ちょっと落語めいたものを取り入れてみました。出来はともかくとして、我ながらすごく楽しそうにやっていますね。
説教本編もこれくらい楽しそうにやれば良いのに。やはり道を誤ったんでしょうかネ。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』20章24-29節 


序.
 江戸の笑い話の中に、こんなのがあります。
江戸川のほとり、通称うなぎ長屋に住んでいる、熊五郎のところへ、ご隠居が青い顔をして飛び込んできた。
「どうしました、ご隠居。そんなにあわてて」。
「ああ、熊さん、無事でしたか。よかった。いえ、さっき江戸川の土手っぺりを歩いていたら、おぼれて亡くなった人がいてね、
その顔があなたにそっくりだったんでね、それでまさかと思って、急いで駆けつけた次第なんです」
それを聞いた熊さん、まだ肩で息をしているご隠居を突き飛ばして、恐ろしい早さで外へ飛び出していった。
ぽかんとするご隠居、するとしばらくして熊さんが帰ってきた。
「ご隠居、大丈夫ですよ。あの土左衛門、確かにおれとうり二つだったけど、よくよく見たら、やっぱりおれじゃなかった」。
 これのどこがおもしろいの、という人は、ちょっと頭が硬いかもしれません。
あわて者の熊五郎、で片付けることもできますが、自分の目で見るまでは納得しない、というのは、決して彼だけではありません。
弟子の一人、トマスもそうだったのかもしれません。
そして、多くの人々もまた、自分の目で見て納得しなければ、決して信じようとしないのです。続きを読む
posted by 近 at 20:02 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.9.18「なりふり構わぬ愛」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』20章17-28節 


序.
 芥川龍之介という作家が、ある小説の中でこう書いています。「子供に対する母親の愛ほど、もっとも利己心のない愛はない」。
芥川自身は、母親のぬくもりを知りません。彼は事情があって、物心ついたときに実の母から引き離され、伯母に育てられました。
しかしこの伯母は、芥川を実母に負けない愛で包み、育て上げたといいます。
芥川が、まだ若くして自分の生涯を自ら閉じてしまったことは、彼にとっても、日本の文学界にとっても、不幸なことでした。
しかし彼の亡骸が発見されたとき、枕元には、赤鉛筆が至る所に引かれていたマタイの福音書が開かれていたと言います。
そして今日私たちが開いているのも、そのマタイの福音書です。
そしてそこに書かれている母の愛は、己の幸せへの執着はなくても、息子たちのためならば弟子たちの友情を破壊することも厭いません。
恐ろしいほどにまっすぐな、母の愛です。続きを読む
posted by 近 at 09:06 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.9.11「神の召しは消えず」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』21章1-19節 


序.
 イエスさまはすべてを知っておられます。「食べるものがありませんね」「はい、ありません」。なんとすがすがしい会話でしょうか。
「何か食べるものがありますか」と、イエスさまは聞きません。「食べるものがありませんよね」。
弟子たちが、夜通し働いても何もとれずに意気消沈していることを、初めからご存じでした。
しかしイエスさまがすべてを知っておられるというのは、私たちの苦しい状況を知っているということだけではありません。
そこからどうすればよいのかを、確かに知っておられるということです。
そしてさっそくこう仰ってくださいました。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます」。
その言葉に弟子たちが従って網をおろすと、今までの苦労がうそのように、おびただしい魚が網にかかりました。
このとき、弟子たちのある者たちは思い出したのです。
かつてイエスさまが漁をしていた自分たちに、同じように声をかけて、そのときも大漁の奇跡が起きたことを。
それを最も早く思い出したのが、ヨハネでした。そして彼はおそらくすぐ隣にいたのであろうペテロに、「主です」と呼びかけます。
するとペテロは、上着をまとって湖に飛び込みました。続きを読む
posted by 近 at 14:12 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.9.4「夜明け前が一番暗い」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』22章31-34、54-62節 


序.
 私は19歳のときに洗礼を受けてクリスチャンになりましたが、そのときの感動は今も忘れることができません。
とはいえ洗礼を受けてからの26年間のあいだで、信仰につまずいて教会から離れてしまった時期がありました。
しかしそのときも、教会のみなさんが私のために祈り続けてくださっていたことを、後になって知りました。
そして何よりも、イエスさまは今日のペテロへのことばと同じように、私の信仰がなくならないように、私のために祈ってくださっていたのです。
だから私は、教会形成の中で、とくに信仰につまずいた兄弟姉妹のために祈るということを、大切にしてきました。
私たちは自分が強いと思っていても、実際には弱いものです。
ちょうどこのペテロのように、自分はそのときになれば、イエスさまのために命を捨てることができる、と心の中で豪語してしまいます。
「あなたのために祈りました」というイエスさまのことばを、ペテロはもっと真剣な思いをもって顧みるべきでした。
しかし彼はそのようなものは必要ないとばかりに、鼻息を荒げて「どんなところにでも覚悟はできています」と言い放ちます。
それは、私たち自身の姿です。聖書という鏡を見つめながら、心砕かれていきたいと願います。続きを読む
posted by 近 at 17:29 | Comment(0) | 2016年のメッセージ