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2016.11.27「初めにことばがあった」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
最近、説教映像をYoutubeにアップロードする作業のたびに、いつも画面の隅にピコ太郎(さん)の「PPAP」が出てきます。
ただ何度観ても、何がおもしろいのか、私にはわからないのです・・・・
もしかしたら、私が最初から批判的に見てしまっているからかもしれませんね。
逆にみんながおもしろいと感じているからおもしろいはずだと、最初から胸襟を開いたうえで観れば、おもしろく感じるのかもしれません。
(それが他人志向だという批判もあるでしょうが)
説教もまたしかり。とくに私ら牧師は、他の牧師の説教を聞くとき、どうしても批判的に聞いてしまうことが多いのです。
「互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)というみことばを心に留めていきたいと思います。
同じYoutuberとして(意味わかってない)、ピコ太郎(さん)に負けていられませんね。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』1章1-5節 


1.
 今日から、教会は待降節を迎えます。待降節はアドベントとも呼ばれます。
クリスマスまでの四週間、日曜日ごとに一つずつ、キャンドルにともしびをともしていきます。
最後の週はすべてのキャンドルに火を点し、イエス・キリストがこの地上に人として生まれてきてくださったことを感謝する時を迎えます。
大事なことなのでもう一度繰り返しますが、クリスマスはイエス・キリストが人として生まれてくださった、神の時です。
人として生まれてきた」。何という不思議な表現でしょうか。すべての人間の中で、イエス・キリストだけにあてはまることばです。
それでは、イエス・キリストは二千年前のクリスマスまで、どこにいたのでしょうか。どこで何をしていたのでしょうか。
その答えが、今日のヨハネの福音書の冒頭のことばです。
 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。
いま私たちが読んでいるのは、戦後の訳ですが、日本で最初の翻訳では「はじめに、おかしきものござる」と訳されていたそうです。
「はじめに、おかしきものござる」。もちろん、「おかしきもの」とは変なもの、おかしいものという意味ではありません。
私たちの常識を越えた、すばらしい存在という意味です。
そして、それこそが、人としてこの世にお生まれになる前の、イエス・キリストを表すことばでした。
初めに、ことばがあった」。この「ことば」こそ、イエス・キリストです。
ことばは神とともにあった」。イエス・キリストは、いつも父なる神とともにおられたお方でした。
ことばは神であった」。イエス・キリストは、人ではありません。神そのものでした。
人が修行の結果、神のような力を身につけて、キリスト教の教祖になったのではありません。
神であるお方が、私たち人間の罪の姿をあわれみ、人としてこの地上に来てくださったのです。続きを読む
posted by 近 at 10:44 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.11.20「恐れつつイエスに近づけ」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』13章53-58節 


1.
 今日の聖書箇所には、イエス・キリストのふるさと、ナザレの人々が登場します。
彼らは、イエス・キリストが幼い頃からよく知っておりました。イエスの母マリヤ、またイエスの兄弟たちのこともよく知っておりました。
しかしよく知っていたからこそ、彼らはイエスをまっすぐに見ることができず、救われる機会を失ってしまったということができます。
そこまでイエス様と親しく、極めて近いところにまでいながら、人々はどうしてイエス様につまずいたのでしょうか。
それは、自分たちが知っている人間イエスが、イエス・キリストのすべてだと考えたことにありました。
30年間、大工として汗にまみれ、家族と共に暮らしていた、人としてのイエス。それが彼らの知るイエス・キリストでした。
しかしそれがイエス・キリストのすべてではありません。
郷里の人々は、人としてのイエスは知っていても、神としてのイエスについてはまるで知りませんでした。いや、知ろうとしませんでした。
今、目の前の言葉や行動からにじみ出る、キリストの神性を受け入れようとしませんでした。
そこに人々の高ぶりがあり、彼らはイエスを見つけることに失敗したのです。続きを読む
posted by 近 at 20:09 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.11.13「嵐の中で見失ったもの」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』8章22-25節 


序.
 免許と名がつくものは、運転免許でも、調理師免許でも、学科と実技の二種類をこなさなければなりません。
どんなに学科試験がよくても、実技が未熟であれば免許はもらえません。信仰も同じです。
私たちは、恵みによって、信仰をいただいて救われます。しかし救いに至る信仰は、実際の試練を通して試されなければなりません。
神は、試練を通して、私たちが頭でっかちの信仰者で終わらないように、訓練されるのです。
誤解してはなりませんが、それは救いの免許を失わせるためではなく、むしろ救いに至る信仰を強めるためのものです。
昨日までは何もなかった、私たちの平和な生活に今日、突然起こった苦しみ。
そして二千年前、岸を離れる時には落ち着いていたガリラヤ湖に突然起こった大嵐。
それは、同じく神さまが愛する者たちに与えたもうた試練でした。その試練の中であなたは何と叫ぶのでしょうか。
「主よ、助けてください」とイエスさまにしがみつくのか、それとも「私が滅んでも何とも思わないのですか」と恨み節を垂れ流すのか。
 それまでの弟子たちは、自分たちは他の人々とは違う、イエス様の直弟子なのだ、という誇りを持っていました。
しかしそんな形だけの信仰は、いわばタンスの中のゴールド免許みたいなものです。実際には運転しないから、事故も起こさない。
試練を経験していないから、いざとなると信仰をいかに働かせたらよいかわからず、パニックに陥る。
彼らが嵐の中で見失ったものが何か、それは三つありました。
ひとつ、彼らはイエス様のみことばの約束を見失いました。
ふたつ、彼らはイエス様がいっしょに舟に乗っているという事実を見失いました。
そしてみっつ、彼らは嵐の中でさえ眠っておられる、主が与えてくださる平安を見失いました。
私たちが彼らの失敗を学び、自分自身への戒めとするために、この三つを順に見ていきましょう。続きを読む
posted by 近 at 17:47 | Comment(1) | 2016年のメッセージ

2016.11.6「ただ信じ続けなさい」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マルコの福音書』5章21-24、35-43節 


1.
 22節、「すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。
「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
ヤイロは会堂管理者でした。会堂管理者とは何でしょうか。
読んで字のごとく、ユダヤ教の会堂、通称シナゴーグの管理を任せられていた人です。
会堂の管理を任せられていた、というと、何か寺男のような、戸締まりや掃除をしたりする人を連想するかもしれません。
しかしユダヤ人の社会においては、会堂は単に礼拝をするところではなく、社会生活の中心そのものです。
日本では、檀家という言葉がありますが、あれはもともと江戸時代、人々が村から勝手に出て行かないように、幕府が始めたものだそうです。
同じように、ユダヤ人の会堂もまた、宗教的・政治的・社会的にユダヤ人たちをまとめるためのものでした。
会堂管理者とは、その意味で大きな権威を持っていた人であったと言えます。
 しかしすでにこのとき、エルサレムの宗教指導者たちは、イエス・キリストとその弟子たちを敵とみなしていました。
イエスに協力する者は、だれであっても会堂から追放せよという命令書が、国中の会堂管理者のところにも回っていたことでしょう。
ヤイロは、会堂管理者として、中央の方針に従い、イエス・キリストと距離を置かなければなりませんでした。
しかしヤイロの心は揺れていました。たった今、自分の娘が死にかけている。
そして人々が救い主と噂している、イエス・キリストだけが、娘をこの病からいやすことができるのではないだろうか。
会堂管理者という立場で、イエスに敵対するか、それとも病気の娘の父親という立場で、イエスの前にひれ伏してお願いするか。
彼は悩んだに違いありません。そして悩んだ末、後のほうを選びました。
聖書は、彼の葛藤には一切触れず、彼が決断した行動だけを語っています。それが、この22節です。
「会堂管理者ヤイロは、イエスの足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。
「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください」と。続きを読む
posted by 近 at 17:21 | Comment(1) | 2016年のメッセージ