最近、説教映像をYoutubeにアップロードする作業のたびに、いつも画面の隅にピコ太郎(さん)の「PPAP」が出てきます。
ただ何度観ても、何がおもしろいのか、私にはわからないのです・・・・

もしかしたら、私が最初から批判的に見てしまっているからかもしれませんね。
逆にみんながおもしろいと感じているからおもしろいはずだと、最初から胸襟を開いたうえで観れば、おもしろく感じるのかもしれません。
(それが他人志向だという批判もあるでしょうが)
説教もまたしかり。とくに私ら牧師は、他の牧師の説教を聞くとき、どうしても批判的に聞いてしまうことが多いのです。
「互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)というみことばを心に留めていきたいと思います。
同じYoutuberとして(

聖書箇所 『ヨハネの福音書』1章1-5節
1.
今日から、教会は待降節を迎えます。待降節はアドベントとも呼ばれます。
クリスマスまでの四週間、日曜日ごとに一つずつ、キャンドルにともしびをともしていきます。
最後の週はすべてのキャンドルに火を点し、イエス・キリストがこの地上に人として生まれてきてくださったことを感謝する時を迎えます。
大事なことなのでもう一度繰り返しますが、クリスマスはイエス・キリストが人として生まれてくださった、神の時です。
「人として生まれてきた」。何という不思議な表現でしょうか。すべての人間の中で、イエス・キリストだけにあてはまることばです。
それでは、イエス・キリストは二千年前のクリスマスまで、どこにいたのでしょうか。どこで何をしていたのでしょうか。
その答えが、今日のヨハネの福音書の冒頭のことばです。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。
いま私たちが読んでいるのは、戦後の訳ですが、日本で最初の翻訳では「はじめに、おかしきものござる」と訳されていたそうです。
「はじめに、おかしきものござる」。もちろん、「おかしきもの」とは変なもの、おかしいものという意味ではありません。
私たちの常識を越えた、すばらしい存在という意味です。
そして、それこそが、人としてこの世にお生まれになる前の、イエス・キリストを表すことばでした。
「初めに、ことばがあった」。この「ことば」こそ、イエス・キリストです。
「ことばは神とともにあった」。イエス・キリストは、いつも父なる神とともにおられたお方でした。
「ことばは神であった」。イエス・キリストは、人ではありません。神そのものでした。
人が修行の結果、神のような力を身につけて、キリスト教の教祖になったのではありません。
神であるお方が、私たち人間の罪の姿をあわれみ、人としてこの地上に来てくださったのです。続きを読む