こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
礼拝メッセージを音声や動画でネット公開している先生は少なくありませんが、私のように動画と原稿両方というのはあまりないようです。
原稿を公開することで、様々なリスクを負います。著作権のあるものや間違った内容を引用して、批判される恐れもあります。
しかし今日、多くの教会で、牧師によるハラスメントや誤った聖霊理解が横行していることを聞いています。
ネットを通して、外部のクリスチャンの方にもこの教会の説教をチェックしていただくことで、健全性を証しできると考えています。
とはいえ原稿どおりに話していないこともよくあります。今日の説教もそうですね。
動画も見ていただけると幸いです。週報はこちらです。
聖書箇所 『士師記』16章4-31節
序.
司会者には、ずいぶんと長い聖書箇所を読んでいただき、感謝いたします。
今日は旧約聖書の物語から、サムソンというひとりの信仰者の生き様あるいは死に様を通して、私たちの信仰について考えましょう。
とは言いましても、「信仰者」という言葉のイメージからはまるで遠い、サムソンの生活ぶりです。
サムソンは、生まれる前から神様に選ばれて、生まれた時から神様に人生をささげられた、ナジル人という、特別な人でした。
神様の祝福として、彼は驚くような怪力が与えられていました。しかし彼は、与えられた力を正しく用いることができません。
怪力をもてあましながら、このデリラという、魅力的ではあるが危険な心を持っている女性と関係を結ぶ、ただれた生活を過ごしていました。
サムソンの悲劇は、自分自身を知らなかったということに尽きます。
まず彼は、自分の中に弱さがあるということを知りませんでした。サムソンがデリラの本心に気づいていなかったはずがありません。
デリラはいきなり、「どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょう」と直球で聞いてきます。
いくらだらしない男でも、これで気づかないはずはありません。
しかし彼の愚かさは、デリラの思惑を知りながら、自分は大丈夫だと考えて、いわば危険なゲームを楽しんでいたところにあります。
自分の中にある弱さを知らない、それがサムソンの愚かさです。続きを読む
最近の記事
(02/02)2025.2.2主日第二礼拝のプレミア公開
(01/31)2025.1.26「一つになってともに生きる」(詩133-134)
(01/24)2025.1.19「綱は断ち切られた」(詩129:1-8)
(01/17)2025.1.12「祝福の秘訣」(詩128:1-6)
(01/10)2025.1.5「終わりの時代は恵みの時代」(ルカ21:1-19)
(01/31)2025.1.26「一つになってともに生きる」(詩133-134)
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2017.1.29「弱さを知る者は強さをも知る」
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| 2017年のメッセージ
2017.1.22「神の戦にふさわしい者とは」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
こんな雪の中でも、礼拝を求めて集まってくるひとり一人。礼拝には、いのちがあふれています。
これを読んでくださっている方々もそういう方なのでしょう。今週も祝福がありますように。週報はこちらです。
聖書箇所 『士師記』7章1-8節
序.
有名な戦国大名、武田信玄の名前を聞いたことがあるかと思います。
彼の姉は、桶狭間で有名な今川義元と結婚して駿河、今の静岡県へ嫁いでおりました。
信玄が13歳の時、その姉から貝遊びのためにとたくさんのハマグリが送られてきたそうです。
すると信玄は、畳二畳ほどの小部屋にそのハマグリを積み上げさせて、その数を数えました。
そして、次に自分の何人かの家来をかわりばんこに呼んで、「このハマグリの数はどれくらいあるか、数を当ててみよ」と尋ねたそうです。
ある者は「一万くらい?」と言い、またある者は「二万はある」と答えました。
しかし実際には3700余りしかなかったのです。そこで彼は家来にこう言いました。
「人数は少なくてもよいのだ。三千の兵を持つ者なら一万の兵に見せることもできる。目で見たことに頼る者になってはならない」。
家来たちはわずか13歳の信玄の知恵に驚きを隠せなかったということです。続きを読む
太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪ふりつむそんな名詩の叙情を吹き飛ばすかのような大雪です。先日は教会員の方に車を掘り起こして頂きました。
次郎を眠らせ 次郎の屋根に雪ふりつむ(三好達治『雪』)
こんな雪の中でも、礼拝を求めて集まってくるひとり一人。礼拝には、いのちがあふれています。
これを読んでくださっている方々もそういう方なのでしょう。今週も祝福がありますように。週報はこちらです。
聖書箇所 『士師記』7章1-8節
序.
有名な戦国大名、武田信玄の名前を聞いたことがあるかと思います。
彼の姉は、桶狭間で有名な今川義元と結婚して駿河、今の静岡県へ嫁いでおりました。
信玄が13歳の時、その姉から貝遊びのためにとたくさんのハマグリが送られてきたそうです。
すると信玄は、畳二畳ほどの小部屋にそのハマグリを積み上げさせて、その数を数えました。
そして、次に自分の何人かの家来をかわりばんこに呼んで、「このハマグリの数はどれくらいあるか、数を当ててみよ」と尋ねたそうです。
ある者は「一万くらい?」と言い、またある者は「二万はある」と答えました。
しかし実際には3700余りしかなかったのです。そこで彼は家来にこう言いました。
「人数は少なくてもよいのだ。三千の兵を持つ者なら一万の兵に見せることもできる。目で見たことに頼る者になってはならない」。
家来たちはわずか13歳の信玄の知恵に驚きを隠せなかったということです。続きを読む
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| 2017年のメッセージ
2017.1.15「罪のかたまりからの解放」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週の今頃まで、新潟は雪がほとんど積もらなかったのですが、後半に入ってからまるで今まで天の窓が詰まっていたかのように、
雪、雪、雪・・・・度重なる雪かきで体力を使い果たし、今週はダウンしていました。
今日は珍しく、朝から青空が広がっています。
少し元気が出て来ました。
みなさまもくれぐれもご自愛ください。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』18章9-14節
序.
私たち夫婦は、自他共に認めるおしどり夫婦ではないか、と勝手に思っておりますが、車の中だけは別です。
車を走らせて十分くらい経つと、もう妻の機嫌が悪くなっています。
私がハンドルを握ると性格が豹変し、というより素の自分が出てしまい、他のドライバーのマナーの悪さを批判してしまうからです。
「どうしてもうこんなに暗くなっているのに、あの対向車はライトをつけないんだよう」とか、
「どうしてウインカーも出さないで、いきなり隣から割り込んでくるんだよう」とか、
「どうしてBABY IN CARとかいうステッカーを貼っているくせにあんなに急ブレーキばかりかけるんだよう」とか、とにかくうるさいと言われます。
教会員や他の牧師を乗せるときにはそんなことはまったく言いません。しかし妻と乗るときには、なぜかお口に歯止めがきかないのです。
とはいえ、どうしてそんなに他のドライバーの批判をしてしまうのか、ははっきりと原因がわかっています。
自分の運転スキルは他人よりうまい、そして自分のように運転しないドライバーは間違っている、と考えてしまうからです。
まさに今日のみことばのとおりです。「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者」とは、私自身のことです。
しかしここで決して見落としてはならない、大切なことばがあります。「者たち」って書いてます。みなさんも同類です。
ある人は言うでしょう。いやいや、わたしは車を運転しませんし、そんな、他人の文句を言いながら走ったりしません、と。
しかし車の運転について語ったのは、それこそひとつのたとえ話です。
自分の生活、言葉、心、そういうものを振り返ってみてください。
私たちは例外なく、取税人よりもパリサイ人のほうに属する者ではありませんか。
すでに救われた者たちがこの取税人で、そうでない人たちがパリサイ人、ということではありません。
私たちは100%、このパリサイ人の側にいる者なのだと受け止めるべきなのです。続きを読む
先週の今頃まで、新潟は雪がほとんど積もらなかったのですが、後半に入ってからまるで今まで天の窓が詰まっていたかのように、
雪、雪、雪・・・・度重なる雪かきで体力を使い果たし、今週はダウンしていました。
今日は珍しく、朝から青空が広がっています。

みなさまもくれぐれもご自愛ください。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』18章9-14節
序.
私たち夫婦は、自他共に認めるおしどり夫婦ではないか、と勝手に思っておりますが、車の中だけは別です。
車を走らせて十分くらい経つと、もう妻の機嫌が悪くなっています。
私がハンドルを握ると性格が豹変し、というより素の自分が出てしまい、他のドライバーのマナーの悪さを批判してしまうからです。
「どうしてもうこんなに暗くなっているのに、あの対向車はライトをつけないんだよう」とか、
「どうしてウインカーも出さないで、いきなり隣から割り込んでくるんだよう」とか、
「どうしてBABY IN CARとかいうステッカーを貼っているくせにあんなに急ブレーキばかりかけるんだよう」とか、とにかくうるさいと言われます。
教会員や他の牧師を乗せるときにはそんなことはまったく言いません。しかし妻と乗るときには、なぜかお口に歯止めがきかないのです。
とはいえ、どうしてそんなに他のドライバーの批判をしてしまうのか、ははっきりと原因がわかっています。
自分の運転スキルは他人よりうまい、そして自分のように運転しないドライバーは間違っている、と考えてしまうからです。
まさに今日のみことばのとおりです。「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者」とは、私自身のことです。
しかしここで決して見落としてはならない、大切なことばがあります。「者たち」って書いてます。みなさんも同類です。
ある人は言うでしょう。いやいや、わたしは車を運転しませんし、そんな、他人の文句を言いながら走ったりしません、と。
しかし車の運転について語ったのは、それこそひとつのたとえ話です。
自分の生活、言葉、心、そういうものを振り返ってみてください。
私たちは例外なく、取税人よりもパリサイ人のほうに属する者ではありませんか。
すでに救われた者たちがこの取税人で、そうでない人たちがパリサイ人、ということではありません。
私たちは100%、このパリサイ人の側にいる者なのだと受け止めるべきなのです。続きを読む
posted by 近 at 08:46
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2017.1.8「ましてや、神は」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教ビデオの終盤(26”10〜)にて、アドリブ(=原稿にない)で戦国大名・毛利元就の逸話を紹介しています。
なんかうろ覚えで、聞いている人はよくわからなかったかもしれないので出典を示します。といっても、Wikipediaからの引用ですが。
「神から大きなことを期待せよ。神のために大いなることを企画せよ」。
余談ですが、昔見たNHKの大河ドラマ『毛利元就』では、悪役を演じた片岡鶴太郎さんの凄みが印象的でした。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』11章5-13節
序.
二、三年前のことですが、あるキリスト教の映画を新潟で上映したいから協力してほしい、とプロデューサーから頼まれたことがありました。
私の人脈の広さゆえ、なんてことではまったくありません。
そのちょっと前に開かれたある集会に出たとき、その方の荷物の見張り番をしたことで面識があったという関係です。
そのときはたまたま、と思いましたが、背後には神様のご計画があったのでしょう。
協力してほしいというから教会で映画のチケットを買って欲しいということかと思ったら、話をしてたまげました。
新潟県民会館の大ホールを上映場所として予約しているが、宣伝をまったくやっていないので、観客を2000人集めてくれ、というのです。
期間はわずか三週間。もともとそういうイベントが得意な人間ではありませんので、必死で逃げようとしました。
あの先生、この先生に頼んだら、と新潟の他の牧師の名前を挙げてお断りしたのですが、必死さにおいて向こうが勝っていました。
韓国人のその方は急にカタコトになって、「私ニハモウ先生シカ頼レナイノデス・・・・」と黙りこんでしまいました。
もう仕方がない。覚悟を決めて、わかりました、引き受けましょう、と答えました。
すると向こうも急によくしゃべるようになって、では今日から動いてくださいね、神様の祝福がきっとありますから、と言って帰って行かれた。
今度は私がテレビ局や新聞社に頼み込む立場になりました。
ほとんどのところは門前払いを喰ったのですが、ある新聞社が取り上げてくださったときには、担当者から暖かい言葉を頂きました。
色々と大変なことがたくさんあったのですが、とても良い経験をすることができて、それは私の人生にとって忘れられない宝物になりました。
続きを読む
今回の説教ビデオの終盤(26”10〜)にて、アドリブ(=原稿にない)で戦国大名・毛利元就の逸話を紹介しています。
なんかうろ覚えで、聞いている人はよくわからなかったかもしれないので出典を示します。といっても、Wikipediaからの引用ですが。
「江譜拾遺」には、元就がまだ元服前に家臣と共に厳島神社へ参拝に行った際の逸話が残っている。元就が、家臣に祈願の内容を訊ねると、家臣は「松寿丸様が安芸の主になられるよう願いました」と答えた。それに対して元就は「何故天下の主になれるように願わなかったのだ」と言った。家臣は「実現不可能な事を祈願しても意味がありますまい。せいぜい中国地方でござろう」と笑ったが、元就は、「天下の主になると祈願して、やっと中国地方が取れようというもの。まして、最初から安芸一国を目標にしていたのでは、安芸一国すら取れずに終わってしまう」と反論し、自らの理想の高さを示した。18世紀末からインド宣教に献身したウィリアム・ケアリの有名な言葉に通じるところがありますね。
「神から大きなことを期待せよ。神のために大いなることを企画せよ」。
余談ですが、昔見たNHKの大河ドラマ『毛利元就』では、悪役を演じた片岡鶴太郎さんの凄みが印象的でした。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』11章5-13節
序.
二、三年前のことですが、あるキリスト教の映画を新潟で上映したいから協力してほしい、とプロデューサーから頼まれたことがありました。
私の人脈の広さゆえ、なんてことではまったくありません。
そのちょっと前に開かれたある集会に出たとき、その方の荷物の見張り番をしたことで面識があったという関係です。
そのときはたまたま、と思いましたが、背後には神様のご計画があったのでしょう。
協力してほしいというから教会で映画のチケットを買って欲しいということかと思ったら、話をしてたまげました。
新潟県民会館の大ホールを上映場所として予約しているが、宣伝をまったくやっていないので、観客を2000人集めてくれ、というのです。
期間はわずか三週間。もともとそういうイベントが得意な人間ではありませんので、必死で逃げようとしました。
あの先生、この先生に頼んだら、と新潟の他の牧師の名前を挙げてお断りしたのですが、必死さにおいて向こうが勝っていました。
韓国人のその方は急にカタコトになって、「私ニハモウ先生シカ頼レナイノデス・・・・」と黙りこんでしまいました。
もう仕方がない。覚悟を決めて、わかりました、引き受けましょう、と答えました。
すると向こうも急によくしゃべるようになって、では今日から動いてくださいね、神様の祝福がきっとありますから、と言って帰って行かれた。
今度は私がテレビ局や新聞社に頼み込む立場になりました。
ほとんどのところは門前払いを喰ったのですが、ある新聞社が取り上げてくださったときには、担当者から暖かい言葉を頂きました。
色々と大変なことがたくさんあったのですが、とても良い経験をすることができて、それは私の人生にとって忘れられない宝物になりました。
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posted by 近 at 14:24
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| 2017年のメッセージ
2017.1.1「私だけの『主の祈り』」
あけましておめでとうございます。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。今年もよろしくお願いいたします。
新年早々、録画に失敗してしまい(説教前に自分でリモコンを押して録画しています)、今回はビデオはありません。
ちなみに今回の説教題は、昔『特捜最前線』という刑事ドラマのエンディングで流れていた「私だけの十字架」から思いつきました。
今はYoutubeでそんな昔の曲も自由に聴くことができます。今聞いてもよくわからない歌詞ですが、インパクトはありますね。
週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』6章5-15節
1.
「一年の計は元旦にあり」という言葉がありますが、これからの一年間をどのように用いて、自らを成長させていくか。
確かに元旦はそれを決意するにはふさわしい日であります。
しかし私の場合、元旦に決意したことを正月休みが終わるまでにはいつのまにか忘れてしまいます。
これを三日坊主ならぬ三日牧師というべきでしょうか。
私が洗礼を受けたのは、高校三年生のクリスマスでした。ちょうどそれから一週間後に翌年の元旦がやってまいりました。
この一年で、せっかく頂いた信仰を成長させたい。そこで私は、一つの目標を立てました。
それまでは、教会の週報の裏表紙をめくりながら唱えていた、「主の祈り」と「使徒信条」を、見ないでも言えるように、ちゃんと覚えよう、と。
元旦の決意にしては低いハードルに思われるかもしれませんが、当時はこれでも大きなことだったのです。
しかし今になって振り返ってみると、この決意の根元には、ある種の信仰のゆがみというものがあったのだなあと思います。
私は、信仰の成長というものを、神様との関係を強めるというよりは、他の教会員のようになりたいという目で見ておりました。
あの兄弟のように献金の時に流暢に祈りたい、あの姉妹のように聖書の言葉がすらすらと出てくるようになりたい、
そして他の教会員のように、礼拝で主の祈りを唱えるときに、いちいち週報を裏返さなくても口から出て来るようになりたい、と。
「主の祈り」、おぼえました。「使徒信条」、おぼえました。
大学生になって、教会学校で教師を務めるようになって、子どもたちに「まず主の祈りをおぼえようね」と教えました。
献金の時に自分でお祈りができない子どもには、「じゃあ代わりに主の祈りを先生と一緒に祈ろうね」と言いました。
ところが、一番わかっていなかったのは私自身でした。「主の祈り」は覚えても、「主の祈り」が出てくる前後の聖書箇所を読んでいませんでした。
ちょうど今日の箇所です。読んだとき、愕然としました。
イエス様は主の祈りを覚えなさいと言われたでしょうか。主の祈りのとおりにそのまま祈りなさいと言われたでしょうか。
まったく逆なのです。異邦人は、すでに決められた祈りのことばを朗々と読み上げて、それで聞かれると勘違いしている。
そのような祈りに弟子たちが陥らないために、イエス様は「だから、あなたがたはこう祈りなさい」と言われたのです。
「こう祈りなさい」とは、私が教える一言一句そのままに祈りなさいではありません。
私が教える祈りを模範として、あなたの言葉で祈りなさいということです。主の祈りは、暗記するものではなく、祈りの模範とするためのものです。自分自身のことばで真剣な思いで祈ることを放棄して、まるでお経やかけ声のように主の祈りを使ってはならないのです。続きを読む
新年早々、録画に失敗してしまい(説教前に自分でリモコンを押して録画しています)、今回はビデオはありません。
ちなみに今回の説教題は、昔『特捜最前線』という刑事ドラマのエンディングで流れていた「私だけの十字架」から思いつきました。
今はYoutubeでそんな昔の曲も自由に聴くことができます。今聞いてもよくわからない歌詞ですが、インパクトはありますね。
週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』6章5-15節
1.
「一年の計は元旦にあり」という言葉がありますが、これからの一年間をどのように用いて、自らを成長させていくか。
確かに元旦はそれを決意するにはふさわしい日であります。
しかし私の場合、元旦に決意したことを正月休みが終わるまでにはいつのまにか忘れてしまいます。
これを三日坊主ならぬ三日牧師というべきでしょうか。
私が洗礼を受けたのは、高校三年生のクリスマスでした。ちょうどそれから一週間後に翌年の元旦がやってまいりました。
この一年で、せっかく頂いた信仰を成長させたい。そこで私は、一つの目標を立てました。
それまでは、教会の週報の裏表紙をめくりながら唱えていた、「主の祈り」と「使徒信条」を、見ないでも言えるように、ちゃんと覚えよう、と。
元旦の決意にしては低いハードルに思われるかもしれませんが、当時はこれでも大きなことだったのです。
しかし今になって振り返ってみると、この決意の根元には、ある種の信仰のゆがみというものがあったのだなあと思います。
私は、信仰の成長というものを、神様との関係を強めるというよりは、他の教会員のようになりたいという目で見ておりました。
あの兄弟のように献金の時に流暢に祈りたい、あの姉妹のように聖書の言葉がすらすらと出てくるようになりたい、
そして他の教会員のように、礼拝で主の祈りを唱えるときに、いちいち週報を裏返さなくても口から出て来るようになりたい、と。
「主の祈り」、おぼえました。「使徒信条」、おぼえました。
大学生になって、教会学校で教師を務めるようになって、子どもたちに「まず主の祈りをおぼえようね」と教えました。
献金の時に自分でお祈りができない子どもには、「じゃあ代わりに主の祈りを先生と一緒に祈ろうね」と言いました。
ところが、一番わかっていなかったのは私自身でした。「主の祈り」は覚えても、「主の祈り」が出てくる前後の聖書箇所を読んでいませんでした。
ちょうど今日の箇所です。読んだとき、愕然としました。
イエス様は主の祈りを覚えなさいと言われたでしょうか。主の祈りのとおりにそのまま祈りなさいと言われたでしょうか。
まったく逆なのです。異邦人は、すでに決められた祈りのことばを朗々と読み上げて、それで聞かれると勘違いしている。
そのような祈りに弟子たちが陥らないために、イエス様は「だから、あなたがたはこう祈りなさい」と言われたのです。
「こう祈りなさい」とは、私が教える一言一句そのままに祈りなさいではありません。
私が教える祈りを模範として、あなたの言葉で祈りなさいということです。主の祈りは、暗記するものではなく、祈りの模範とするためのものです。自分自身のことばで真剣な思いで祈ることを放棄して、まるでお経やかけ声のように主の祈りを使ってはならないのです。続きを読む
posted by 近 at 21:53
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