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2017.2.26「絶望から始まる希望」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週、教会員の一人であるA兄のお祖母さまが天に召され、私が司式をさせていただきました。
そのお祖母さまは信仰告白には至っておりません。
しかし私は、お祖母さまの霊は天国のイエス様のふところで安らいでおられ、再会の希望を語らせて頂きました。
それは、はっきりとした信仰告白には至っていなくても、A兄を通して福音を聞いていることは確かだからです。
それがお祖母さまの中で実を結んだのかは人にはわかりません。ただ人知を越えた神のあわれみにすがるしかありません。
 A兄は教会から数キロ離れた農村部に住んでいますが、今回のお祖母さまも含めて三人をキリスト教式葬儀で天へ送り出しました。
そんなこんなで彼のお母さまの話では「近所で変わり者扱いされている(笑)」そうです。
しかし葬儀を通して、このご家族に対する、親戚や近所の方々からの見えない敬意のようなものを感じました。
家族を失った悲しみはあります。しかしこのご家族を通して、この地域も祝福されているように思います。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』22篇1-10節 

1.
 今日の詩篇22篇1節は、十字架にかかられたイエス・キリストが、父なる神に向かって叫ばれた言葉として知られています。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。
永遠の昔から、常に父なる神とひとつであったイエス・キリストが、神にのろわれた者とされたのが十字架刑でした。
それでは、イエス様があえて引用するほどに、このもともとの詩篇22篇の作者は、いったいどのような苦しみの中にあったのでしょうか。
私たちは想像することしかできません。いや、想像することさえできない、と言った方がよいでしょう。
しかし私たちはこの詩篇を味わう中で、慰められます。なぜならば、神と永遠に引き裂かれるかのような苦しみ、絶望を口にする1節。
そこから2節、3節へと進んでいくごとに、神から離れていくのではなく、むしろ神に近づいていくことがわかるからです。
 詩人は確かに絶望するほどの痛みを受けました。神が私を完全に見捨てた、と一度は考えました。
しかし彼はその絶望をあえて神の前に吐き出すことを通して、本当の自分をさらけ出すことができたのです。
以前にも説教で触れたことがありますが、遠藤周作という有名なカトリックの作家のエピソードを紹介します。
同じ作家仲間の椎名麟三がプロテスタント教会で洗礼を受けたとき、遠藤は、椎名の奴は大したもんだと言ったそうです。
何がすごいのですかと人が聞くと、遠藤周作は答えました。
「だって、椎名の奴、洗礼を受けたときに、これでようやく神をのろって死ねると言ったんだよ、これが偉いと言わずとして何と言うんだ」。
私は、あるいは皆さんもそうかもしれませんが、このエピソードを初めて聞いたとき、まるで禅問答のように難しく感じました。
しかし信仰生活を踏む中で、少しずつわかってきたような気がするのです。
クリスチャンの恵みは、神の子どもとして、何でも打ち明けることができることだ。
いや、打ち明けるという生ぬるいものではなく、たとえのろいの言葉であろうとも、神にぶつけることができるのだ、と。続きを読む
posted by 近 at 09:56 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.2.19「幼子のように」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『列王記 第二』5章1-19節 

1.
 どんな人間にも欠点、いや弱点があるものです。
ビジネス街を颯爽と歩くキャリアウーマン。しかし彼女には仕事のために家族を犠牲にしているという負い目がありました。
その負い目を封印するかのように、さらに仕事に没頭すればするほど、家族と過ごす時間は消えていきました。
今日登場するナアマンは、約2800年前の人です。
しかし現代人と同じように、何不自由なく手に入れた中でも彼の心をいつも沈ませているものを抱えていました。それがツァラアトでした。
ツァラアトは、以前の聖書の訳では重い皮膚病と訳されていました。
しかし実際には、ツァラアトは皮膚の下にこそ病の根源があります。どれだけ皮膚をかきむしり、取り除こうとしてもツァラアトには届きません。
それはやがて全身に広がり、筋肉から皮膚を腐敗させ、ついには手足の形をも歪めていきます。
ナアマンは有能な将軍でした。ただ戦に長けていただけではありません。
イスラエルにとって隣の敵国であるアラムの王があえて手紙を書いて通行を求めるほどに、王からも信頼を得ていた側近でもありました。
力、富、名声、彼の人生に欠けたものは何一つないのに、ツァラアトの病は彼が人生を心から楽しむことを妨げ続けるのです。
 このツァラアトは、すべての人間の中に潜んでいる、罪を象徴しています。
どれほどすばらしい人生を送っているように見えても、罪はあらゆる人の中に潜んでおり、私たちが心から人生を楽しむことを妨げています。
人は、悪い行いとして現れてくるものを罪と呼び、自分はそれを抑えているから罪人ではないと言います。
しかし罪の本質は、外側に出て来る行いではなく、内側に隠れている心の深みにこそあります。
ツァラアトの本質が皮膚の下に潜んでいるように、罪の本質も外の行いではなく心の中に隠れているものを解決しなければなりません。
しかし、心の中にあるものをどうやって取り除くことができるでしょうか。それは、私たち人間の努力や心構えでは不可能です。
私たちの創造者である神ご自身が、見えない御手をもって私たちの心の深みに手を差し入れてくださらなければ、罪は解決されません。
将軍ナアマンが、ツァラアトから解放されていく道のりを学びましょう。
そこには、私たちがイエス・キリストを信じることによって罪から解放されていく道のりが語られているのですから。続きを読む
posted by 近 at 16:47 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.2.12「バアルか、キリストか」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『列王記 第一』18章15-40節 

序.
 今から90年前の1927年、中近東にあるシリヤのラス・シャムラという町で、古い粘土板が発見されました。
考古学者が何年もかけて調査したところ、これはモーセと同じ頃かそれよりも古い時代にまで遡るものだとわかりました。
しかし人々が驚いたのはそこからです。
その粘土板からは、聖書に繰り返して登場する異教の神バアルが他の神々と戦う物語が解読されたからです。
 バアルはそれまで旧約聖書以外の資料がほとんど残っておらず、その実態についてはほとんどわかっておりませんでした。
しかしこのラス・シャムラ文書の発見によって、断片的だったバアル神話の全体像が明らかになったのです。
バアルは豊かな収穫を約束する神でした。しかしその収穫は、バアルが牛の姿をとって自分の妹である別の神を犯すことから始まります。
バアル神話は、男女の性行為を通して収穫が約束されるという禍々しい営みで満ちておりました。
神が自分の妹を犯すという近親相姦、また神が獣に姿を変えて人間と交わるという獣姦。
旧約聖書には、バアルを信じる者たちが高い丘の上や青々とした木々の下で口にするのも憚られるような淫らな行ないにふけったこと、
またバアル神殿では巫女による売春や、同性同士の性交が営まれていたことが記されています。
それがバアル礼拝であり、神がカナン人を絶滅させてでも決して取り入れてはならないと厳しく命じられたことでした。
預言者エリヤが自分の命をかけて戦ったのは、いま国中にはびこっている、この偶像バアルとその教えに対してであったのです。続きを読む
posted by 近 at 17:10 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.2.5「ソロモン王の光と影」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
昨年から、礼拝説教とCSメッセージは、同じ聖書箇所から語るという試みを続けています。
同じ箇所から語っても内容がだいぶ変わるということも時々あり、今回もまたそうでした。
CSメッセージではソロモンに知恵が与えられ、それを用いて本当の母親を見分けた(「大岡裁き」のモデル?)できごとが語られました。
しかし礼拝説教ではいわゆる「大岡裁き」には触れず、知恵が与えられたソロモンがその知恵を生かし切れなかったのはなぜか、でした。
子どもたちはCSと礼拝の二回、同じ箇所から聞いているので、混乱しないだろうかという心配もないわけではありません。
しかし一つの聖書箇所を異なる切り口から見つめることで、みことばの芳醇さを味わってほしいとも思います。
いやあ、聖書って本当におもしろいですね(故・水野晴郎風に)。週報はこちらです。

聖書箇所 『列王記 第一』3章1-15節 

序.
 今から420年前のちょうど今日にあたる1597年2月5日、長崎で26人のカトリック信者が十字架刑に処せられました。
その中で最も最年少にあたるルドビコ茨木という少年は、わずか12歳でした。
処刑を担当していた役人は、まだ幼いルドビコをあわれに思い、「もしキリシタンの教えを捨てれば命を助けてやる」と言ったそうです。
しかし彼は「御奉行様、この世の束の間の命と天国の永遠の命を取り替えるわけにはまいりません」と毅然と答えた、と書き残されています。
彼ら26人が十字架の上で殉教したのと同じ日、キリストのために地上の命を捨てた先達をおぼえながら、信仰を学んでいきましょう。
 先ほどお読みしたソロモンがイスラエルの王として即位したのは、12歳とは言いませんが、まだ若かったことは間違いありません。
彼の父ダビデは王国の礎を築いた、偉大な王でした。
まだ若いソロモンが父ダビデの後を引き継ぐのはどれだけの重荷であっただろうか、想像に難くありません。
自分と父を比較して批判する者たちを黙らせるだけの富、力、栄光を求めてもおかしくはありません。
しかしソロモンは、主を愛し、父ダビデを尊敬していました。
そして自分が父に及ばない小さな者であることを認める謙遜さを持ち合わせていました。
だから彼は、夢の中で一つの願いを許されたとき、こう願いました。
このしもべのような小さい子どもが、数え切れないあなたの民の声を聞き取り、正しいさばきを行えるように、知恵と判断力をください、と。
それは、神のみこころと一致したと聖書は記しています。
さらに神は、知恵だけではなく、ソロモンが願わなかった富と誉れをも与える、と約束してくださった、とも。

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posted by 近 at 08:49 | Comment(0) | 2017年のメッセージ