私は今もう一つの教会の代務をしておりますが、先日そちらの物品整理をしていたときに、一本のビデオが出てきました。
現代ぷろだくしょん制作、長編アニメ映画『キムの十字架』(1990)。80分の大作です。ジャケットにもシワが入っています。

しかし何気なく箱を裏返して、驚愕の事実を発見。

声優界の重鎮たちがこれでもかというくらいに名を連ねております。山田監督の人脈恐るべし。
1990年というと、『ドラゴンボールZ』が一番輝いていた、ベジータ>>>フリーザ様の全盛期。
ナメック星での激闘の背後で、孫悟空とヤムチャがまさかこんな所で共演を果たしていたとは。
ちなみにピッコロ役の古川登志夫さんはご夫妻共にクリスチャン(カトリック)だそうです。うれしいですね。
週報はこちらです。
<追記>声優陣にある「三浦清志」はどうやら「三浦雅子」氏の誤植のようです。参考サイト:MovieWalker
聖書箇所 『ルカの福音書』24章13-35節
1.
13節、「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった」。
「ちょうどこの日」とは、イエス・キリストがよみがえられたその日のことです。
ふたりの弟子は、そのうちのひとり、クレオパという名前しかわかっていません。
しかし「話し合ったり、論じ合ったり」という言葉から、彼らの話題が、結論の出ない堂々巡りのものであったことがわかります。
それは、イエスは本当によみがえったのかどうか、ということでした。彼らは、仲間の女たちの証言を信じようとしなかったのでしょうか。
じつはその時代のユダヤでは、現代社会では考えられないほどに、女性に対するすさまじい偏見がありました。
当時の格言には、「女たちに律法の教えを伝えるくらいならば、道に捨ててしまったほうがましだ」という言葉さえあるほどです。
クレオパたちも、女性に対する偏見から完全に解放されていなかったのかもしれません。
イエス様がよみがえったという女性たち、しかもその中にはクレオパの妻が含まれていた可能性も、聖書の別の箇所から推測されます。
しかし女性たちの復活の証言は、男たちには喜びを与えませんでした。「暗い顔つきで立ち止まった」ということばにあるとおりです。
彼らは、主がよみがえったというすばらしい知らせを受け入れることができません。
死んだ者がよみがえるはずがない、あるいは女性たちの証言など信用できないという社会的常識にとらわれています。
彼らは確かにキリストの弟子です。信仰を持っていなかったわけではありません。
しかし信仰が、常識や偏見とのシーソーゲームを繰り返しているために、いつまでもどっちつかずの議論を繰り返していたのです。
勝負のつかないシーソーゲームを終わらせるためには、こちら側にもう一人、できれば重くて強い人を座らせなければなりません。
そのために、イエス・キリストは彼らのそばに近づいてくださったのです。
もし私たちが、信仰をとるか、この世の基準をとるかで悩むとき、まず静まってイエス・キリストは今、どこにおられるだろうかと考えましょう。
もし私のそばにおられるのであれば、シーソーゲームではなくて、私たちは信仰の勝利をいただくはずです。
しかしそれが浮いたり沈んだりのシーソー状態になっているのは、こちら側の重みが足りないからです。
イエス様が私のそばにおられないのです。この弟子たちは復活を信じ切れないゆえに、イエスを呼び求めることはできませんでした。
だからイエス様のほうから近づいてくださいました。でも私たちは、イエス様を自ら呼び求めることができます。
今自分がシーソーの片方に座っていると思われるならば、「主イエスよ来てください」と、叫ぼうではありませんか。続きを読む