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2017.5.28「何をささげるのか」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』4章1-16節 

1.
 子どもに名前をつけることは、親にとって最上の喜びではないかと思います。
かつて同盟教団の理事長をされた岡村又男先生という牧師先生がおられます。
ご両親が女の子を願っていたのに男の子ばかり続けて産まれるもので、また男かというため息まじりにこの名前になった。
そんな噂がありますが、本当かどうかはわかりません。
 自分たちの犯した罪によって楽園を追放された人類の始祖アダムとエバは、自分の長男にカインという名前をつけました。
カインが後に犯したあまりにも恐ろしい罪により、カインという名前は悪いイメージがありますが、それは神への感謝を意味する言葉だったのです。
カインは、ヘブル語でカーニーシ、神が得させてくださったという言葉から来ています。
アダムとエバは、最初の子どもが生まれたときに涙を流して喜んだのではないでしょうか。
神様に逆らって罪を犯した私たち夫婦に、神様は子供を得させてくださったのだ。
彼らが楽園を去る前、神はエバから生まれる子孫が蛇の頭を踏み砕くという預言を与えておられました。
もしかしたらこの子が、その約束そのものか、あるいはこの子の子孫から、そのような者が生まれるのではないか。
 カインという名前がここまで両親の希望が込められていたのに対して、アベルに対しては名前の言われもなく、あっさりしたものです。
明らかにカインは両親の期待と信頼を背負っていた名前でした。
たとえ彼が後にどれだけ大きな罪を犯してしまうとしても、彼にかけられていた両親の期待と感謝、そして喜びは決して無視することはできません。
カインが両親に愛されずすさんだ心を持ち、アベルがその逆だったという姿を、聖書から読み取ることはできません。
むしろ、両親は表向きには信仰継承に成功していたと言えるでしょう。
二人とも、兄は地の作物を、弟は飼っていた羊からささげものを選んで、神を礼拝していたからです。
しかし両者のいけにえが明暗を分けます。「神はアベルとそのささげものには目を留めたが、カインとそのささげものには目を留められなかった」。
なぜアベルのささげものは受け入れられて、カインのささげものは拒絶されたのでしょうか。続きを読む
posted by 近 at 14:00 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.5.21「罪はどこから始まった」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私は自他共に認める事務用品おたくですが、最近手痛い失敗をいたしました。
ゆうちょ銀行から届く「振替受払通知証」をきれいに綴りたいと思い、近所のコメリで「振替伝票用」とあるバインダーを買ってきました。
はじめまして、コクヨのフ-DF30Nです!まるで新入社員のような透明感と清潔感。期待が高まります。

教会に戻り、さっそく一年分たまりにたまった、振替受払通知証の束に、同じコクヨ製の2穴パンチでどんどんどんどん穴を開けました。
ところが何ということでしょう(加藤みどり風に)。せっかく開けた穴がまるでずれており、フ君にまったく入りません。
どうやらパンチの穴間隔は8センチ、フ君のそれは6センチのようです。よく見たらフ君の背表紙にちゃんと「60mmピッチ」と書いてありました。
同じコクヨ製品なのに。パンチとバインダーの相性が最悪とは。しょうがない、6センチ間隔の2穴パンチでも捜してみっか。
ところが6センチ間隔の2穴パンチは日本のどこを捜しても売っていないということがわかりました。
JIS(日本工業規格)でパンチの穴間隔は8センチと決められているということです。
フ-DF30Nはやはりコクヨが出している、様々な伝票を専用に綴るためのものだそう。それならそうと書いておけば良いのに。
あ、「振替伝票用」と確かに書いてありますね。同じ「振替」だから伝票も通知票も同じようなものだと思っていました。
週報はこちらです。
自由にピッチを変えられるこんなパンチもありますが、なんと5000円。あとこんなに穴いりません。

聖書箇所 『創世記』3章1-24節 


1.
 今日の聖書箇所は、人間の中に罪が入ってきた出来事について語っています。それは蛇がエバに問いかけた言葉から始まりました。
リビングバイブルという、ややくだけた翻訳では、蛇の言葉をまるで再現ドラマのようにこう訳しています。
本当にそのとおりなんですかねえ?いえね、ほかでもない、園の果物はどれも食べちゃいけないって話ですよ。
なんでも神様は、これっぽっちも食べちゃいけないと言ったっていうじゃないですか
」。
神様がそんなケチなことを言うはずがないよね。男だったらドーンと行ってみなさいよ。エバは女ですが。
 エバはどう答えたでしょうか。今度はこの新改訳を使いましょう。
2節、「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せられました」。
罪とは何でしょうか。エバの言葉こそが、罪とは何かを教えています。罪は、神のことばを取り違えるところから始まります
よりわかりやすくするために、もともと神が語られていたのはどういう言葉であったのかを見てみましょう。
ページを前に戻り、創世記2章16、17節で、神はアダムにこのように語っておられました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。
 神様のオリジナルの言葉と、エバの言葉とを比べてみて、違いがわかるでしょうか。
「思いのまま」を取り除き、「それに触れてもいけない」と勝手に付け加え、さらに「必ず死ぬ」という警告を「死ぬかもしれない」と薄めています
エバは、神の愛を疑っていました。彼女にとって、神はすべての所有者なのに肝心なものは独り占めする、恐ろしい方です。
「それに触れてもいけない」と付け加え、「思いのまま食べてもよい」を取り除いているのは、彼女の心の中の疑いを表しています。
じつはこれこそが、罪の本質です。罪とは、何かを盗んだとか誰かを傷つけた、ではありません。
神のことばを軽んじて、神のみこころよりも自分の考えを優先しようとするとき、そこに悲劇が起こります。
私たちにおいてもそうです。聖書の中には、私たちがどう生きていくべきか、何を避けていくべきかが確かに書かれています。
しかし神のことばよりも、自分自身の考えや損得を優先することから、罪は始まります。
盗みや傷害という行いの罪も、もとをただせば神の視線と神のことばを忘れ、自分を神とするところから始まっているのです。
神を正しく恐れなければなりません。神のことばを踏みつけるならば、あなたがたは必ず死ぬと警告されているのです。続きを読む
posted by 近 at 22:02 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.5.14「さあ、神の期待に応えて」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週、聖書考古学特別講演会のアピールをしましたが、一枚だけ勝手に写真を披露します。

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テーブルの上に所狭しと並べられた、これらの土器のかけらはすべて実際に発掘された本物だそうです。
イエス・キリストの時代に使われていた燭台に実際に火を点してみるという実演もありました。
燭台そのものよりも、マッチのほうになかなか火がつかなかったのはご愛敬。
聖書考古学のすばらしさを味わうことができた集会でした。週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』1章26-27、2章4-15節 

1.
 最初に26節のことばをもう一度お読みします。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」。
ただひとりのお方である神が、「われわれ」と言われるのはおかしいと思われる方がいるかもしれません。
これは、旧約聖書に使われたヘブル語特有の表現で、威光の複数形と呼ばれます。神は誰かと相談して人間を創造したわけではありません。
しかし「さあ人を造ろう」と訳された言葉を心に留めましょう。
ここには、私たち人間に対する、神様からのあふれんばかりの期待が込められています。
神様が天を作り、大地を作り、太陽と月を作り、植物を作り、動物を作ったのは、最重要なものから作っていったのではありません。
人間が生きるために必要なものはすべて準備した。さあ、いよいよ人間を造ろう。
こういう風に考えるのはあまりにも人間的すぎるでしょうか。いいえ、神様にとって、人間は天空や大地よりも重要なものだったのです。
空気も水も食物もないところに人間を造っても生きていけません。だから神様はそれらを先に用意して、最後に人間を造りました。
真っ先に造りたかった、すなわち神様の創造の中心は人間そのものにありました。
 その証拠は「さあ」と訳された言葉だけではありません。それに続く、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」もそうです。
あらゆる被造物の中で、神がご自分に似せて造られたのは、人間だけです
すべての生き物に力を与える太陽の光よりも、神の愛と輝きを現しているものを、神は人間の中に造ってくださいました。
満月の夜の平安よりも、神が与える平安を表しているのは、人が神のすばらしさを味わうときの安らぎです。
私たち人間の中には、神の期待が詰まっています
確かに最初の人間アダムとエバは罪によって堕落してしまい、彼らの子孫にあたるあらゆる人間は、罪人として生まれてきます。
しかしそれでも神は罪人である私たちが信仰によって救われて、もう一度全身全霊をもって神の栄光を表すことを期待されているのです。
「さあ、人を造ろう」。この言葉を、神様から呼びかけられた私たちひとり一人への愛の呼びかけとして心に受け止めましょう。
 鎌倉時代の西行という僧は、伊勢神宮を参拝したときにこう歌いました。「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
どんな神様がいるかはわからないが、ここにいるだけで感じられるありがたさに涙がこぼれてくる、そういう意味です。
しかし私たちは神様がどんな方か、知っています。そして私たちひとり一人を作り、期待しておられるお方であることを知っています。
だから私はあえて西行の歌を盗んで、こう歌います。「このものになにができるか知らねども かたじけなさに涙こぼるる
私たちが自分をどう評価しようとも、神様は私たちひとり一人に期待をもって、造ってくださったことを心に刻みつけようではありませんか。続きを読む
posted by 近 at 10:12 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.5.7「創造の秩序」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週、聖書考古学の講演会が県内の2教会(同盟・新津、伝福・高田)で行われます。
案内チラシを私が作成しましたので、ここに改めて案内させていただきます。最寄の方はどうぞご出席ください。

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私も当日、新津教会にて録音録画の奉仕に励みます。週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』1章1-31節 

序.
 宅配便で届く段ボール箱に「天地無用」というラベルが貼ってあることがあります。
「天地」、つまり箱の上下を逆にしてはいけないという意味ですが、「無用」とあるから「上下を気にしなくても良い」と誤解する方もいるそうです。
「初めに、神が天と地を創造した」。この単刀直入な切り出しは、まさに聖書という宝箱に貼ってある「天地無用」のラベルだと言えます。
先に天が造られ、次に地が造られました。この順番は決して逆にしてはなりません。
「天」と「地」の関係は、「神」と「私」という関係にあてはめることができます。
青春時代、こんな悩みを持つことがあるでしょう。「私がこの世界に生きる目的は何だろう」「何のために私は生きているのだろう」。
人生に問いを持つことはすばらしいことですが、「私が」「私は」から始まる問いは、いわば「地」を先に、上に、考えることです。
しかし私たちはむしろ「天」を上にしてこう問いかけてみるべきでしょう。
神が、この世界に私を生みだしてくださった目的は何だろう」「神は、何のために私を生かしているのだろう」。
それは、人生というドラマの主役を、私から神に移すことだと言えます。
もちろんはじめからこんな風に考えることのできる人はいません。人生に問いを持つにしても、「私が」「私は」というところから始めます。
しかし人生のどこかで「私が生まれた意味」から「神が私を造ってくださった意味」と考え方を変えるとき、見えてくるものがあります。
「私の人生の目的」という問いから「神が私の人生を通して表そうとしておられること」へと考え方を変えるとき、物事が新しい光を放ちます。続きを読む
posted by 近 at 11:31 | Comment(2) | 2017年のメッセージ

2017.4.30「ここから世界へ」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
この数年間、当教会では新会堂について祈り求めておりまして、私も時折インターネットで不動産情報をチェックしております。
すると教会から10キロほど離れた「月岡温泉」に廃業した温泉旅館を発見。なんと破格の980万円です。
「おすすめコメント」に「月岡温泉街の通り沿い」としか書いていないところに、なんともやる気のなさ哀愁を感じます。
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大広間で礼拝をささげた後は温泉にゆっくり浸かり、その後は各客室に分かれて分かち合い。ああ夢は広がります。
あるいは大浴場でメッセージとか。説教が終わるまで30分、語る方も聞く方も湯船から出られません。これは冗談です。
温泉が引けるかどうかはわかりませんが、とりあえず維持管理が大変ですね。しかし魅力的なのはこの価格。
クリスチャンの方は、セカンドハウスとしていかがでしょうか。その際はときどき当教会にも貸してください。週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』1章3-14節 

1.
 もう10年以上前ですが、礼拝説教の奉仕である教会を訪問したときのことです。
礼拝が終わって、それぞれと挨拶を交わしていたとき、ある姉妹から、「先生に話を聞いてもらいたい」と言われたことがありました。
その教会は、その直前にある事情で教会が二つに割れ、そして新しい牧師が来てまたひとつになったという教会でした。
相談がありますと言ったひとは、一度教会を去り、そしてまた戻ってきた姉妹でした。彼女は言葉を選びながら、こう言いました。
「戻ってはきたものの、一度は教会を出たという事実は消えません。また元通りになるまでには時間がかかります。
今の教会に私の居場所はありません」。私が何と答えればよいか言葉を探していると、彼女はこう言いました。
「でも居場所なんかいりません。この教会にイエス様さえいてくだされば」。
 彼女は何を相談したかったのでしょうか。確かに彼女は苦しんでいました。でも悩んではいません。なぜなら答えをすでに持っていたからです。
あれは彼女の信仰告白だったのだ、と思います。そしてあんな力強い信仰告白は、それまでも、あれからも聞いたことがありません。
この教会に自分の居場所はいらない。ただ神がいてくだされば、私の居場所などいらない、と。

 今日の聖書をかみしめているなかで、このできごとがなぜか鮮明に思い出されてきました。
復活したイエス様は四十日後、天へと上られるとき、弟子たちに次のように命じられました。
エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」。
それはこのエルサレムで、やがて弟子たちに聖霊がくだるからでした。しかしすぐにイエス様はこう言います。
聖霊を受けるとき、あなたがたはエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と。
確かにエルサレムにて聖霊はくだる。しかしその恵みはエルサレムにとどまらず、エルサレムを飛び出してユダヤとサマリヤ、地の果てにまで。
これが、私たちに与えられている信仰です。たしかに私たちは教会にその地名をつけます。
豊栄キリスト教会、新発田キリスト教会、村上福音キリスト教会、といった具合に。
しかし教会が名前に地名をつける目的は、その町の人たちが救われることだけではありません。地名は縄張りではなく、出発点です。
どんなに偶像にあふれた町であろうとも、そこに教会があるならば、福音はその町から出発し、地の果てにまで宣べ伝えられます。
教会は、私たちがそこに居心地の良さを感じながら閉じこもる、私の居場所ではありません。隠れ家ではなく、発射台です。
私たちは聖霊を受けて、救いをもたらす福音をここから地の果てにまで持っていきます。あの姉妹が、私に教えてくれたことです。続きを読む
posted by 近 at 14:55 | Comment(0) | 2017年のメッセージ