こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』11章1-16節
序.
先週、日野原重明先生が天に召されたのは、私にとって少なからずショックでありました。
昨日も宣教区で子育て講演会がありましたが、
若い人が胸を張って子育てができる社会は、まず高齢者が胸を張って生きていける社会でなければ、下の世代は成長しません。
二十年前の話ですが、当時の市長が百歳の半寝たきりのお年寄りを訪問したときに、
その方がベッドの上で上半身ひれ伏して、「こんなに長生きしてごめんなさい」と言ったということを役所の先輩から聞いたことがあります。
ですから日野原先生には120歳まで生きていてほしかったと思いました。
じつは私は、日野原先生と競争をしていたのです。
日野原先生がこれからは神様のために生きると誓ったよど号ハイジャック事件は、ちょうど私が生まれる一年ちょっと前のでできごとだと知って、
日野原先生はその後の47年の人生を、私は46年の人生を、お互いに悔いのないように神様のために生きよう、と。
お互いにと言っても、ご本人と約束したわけではなく、私の勝手な決意なのですが。
しかし目標のある人生というのは、張りが生まれます。
日野原先生が先に天に召されましたので、私が「生き方競争」に勝利を収めるのは時間の問題と思われますが、
神にささげたわが人生に悔いなしと、いずれ私が天に召されるときに思えるかどうか。
それはみなさんが私の説教と牧会にちゃんと答えてくださるかどうかにかかっております。よろしくお願いいたします。続きを読む
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2017.7.23「みこころがわからなくても」
posted by 近 at 14:38
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| 2017年のメッセージ
2017.7.16「新しい『今』を生きる」

日野原重明先生が天に召されました。105歳だったそうです。
先月末に行われた村上市内の新会堂説明会でも、
日野原先生と星野富弘さんの対談トラクトを配らせていただいた矢先でした。
今頃、天で羽鳥明先生と親しく話し合われている頃でしょうか。
ご遺族の方々の上に励ましがありますように。週報はこちらです。
「生涯現役」として著作や講演など幅広く活動してきた聖路加国際病院名誉院長の
日野原重明(ひのはら・しげあき)さんが、18日午前6時33分、呼吸不全で死去した。
105歳だった。通夜・お別れの会は関係者で行う。
葬儀は29日午後1時から東京都港区南青山2の33の20の東京都青山葬儀所で。
(朝日新聞デジタル)
聖書箇所 『ヨハネの福音書』8章1-11節
序.
いまヒアリという猛毒の昆虫が問題になっておりますが、「罪」という漢字を書くたびに、私は毛虫を連想してぞわっとしてしまいます。
上の「四」に似た字は大きな目のついた頭の部分、下の「非」に似た字は、たくさんの足がついた胴体の部分。
毛虫には罪がありませんので、向こうからしたら迷惑な話だ、と言われるかもしれませんが。
漢字に詳しい人に聞くと、「罪」という象形文字は、毛虫ではなくむしろ人間そのものを指しているということでした。
とくに下の部分、ここが二つに分かれているのは、罪というのは人間そのものを真ん中から分裂させるものを表しているのだ、と言います。
心を分裂させるだけではなく、生活を分裂させます。自分を分裂させるだけではなく、家族も分裂させます。
家族だけではなく、民族を、国家を、世界を分裂させます。
そしてすべての人間が生まれた時にこの罪を持っているのだ、と、聖書は至る所で語っています。
「義人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10)。「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」(同12節)。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」(同23節)と。
だれもが罪を犯しているのには変わらないのに、自分が罪人であることに気づかない。
むしろ他人の罪を批判することで、自分が他人よりはましな人間なんだと安心するために利用する。
このヨハネ8章に登場する者たちすべてが、イエス様を除き、罪人です。
姦淫の現場を捕らえられた女性、その姦淫の罪を鼻高々に訴える律法学者たち、そして第三者としてそれを眺めている群衆たち。
しかし最後には、この女性を除き、みなが罪を認めて出て行きました。私たちも、その中に含まれているのでしょうか。
願わくは、罪を認めてそこから出て行くのではなく、罪を認めたからこそイエス様のもとに留まった、この女性のようでありたいものです。続きを読む
posted by 近 at 11:38
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| 2017年のメッセージ
2017.7.9「天を仰げば」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』5章17-26節
1.
イエス様は、どんな病でもいやしてくださる。そんな噂が村から村へ、町から町へと広がっていました。
パリサイ人や律法の教師たちは、怪しげなイエスという男の尻尾をつかんでやろうと考えていたのでしょう。
彼らも含めて、今日もイエス様の周りには足の踏み場もないほどの人だかりができていました。
野外ならまだしも、それが家の中ですから、集まった人々も大変です。
そんな中、突然天井からばりばりという物音が聞こえました。でかいネズミか、それとも晴天の落雷か。
みなが驚いて天井を見上げます。あれ、目が痛い。ほこりや、漆喰のかけらや、木の切れ端がぱらぱらと落ちてくるではありませんか。
当時のユダヤの家屋は屋根がはがしやすい構造になっていました。しかしそれでも、屋根を外すなんて非常識です。
人々が声を上げるなか、四隅を縄でつり下げられて、寝床がゆっくりと真ん中におろされてきました。
そこに寝かされていたのは、寝たきりの中風の人でした。四隅の縄を天井でつかんでいたのは、おそらく彼の友人たちでしょう。
この招かれざる客人を、イエス様はどのように見上げられたのでしょうか。
しかし、イエス様が見つめておられたのは、ぶち破られた屋根でもなく、吊り下げられた寝床でもありませんでした。
20節にはこう書いてあります。「イエスは彼らの信仰を見て」と。「彼らの信仰」とは何でしょうか。
それは、たとえ人々から非常識だと後ろ指を指されても、神に近づこうとする信仰です。
「彼ら」の中には、この友人だけでなく、この寝床に伏している中風の人も含まれています。
イエスは彼らの破天荒な行いを、「信仰」として認められました。私たちの常識や理性が、私たちを神に近づけるのではありません。
たとえ人の目にはどう映ろうとも、イエス様ならば何とかしてくださると信じて、ひたすら主に近づいていくこと。
それがイエスの認められた信仰です。続きを読む
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』5章17-26節
1.
イエス様は、どんな病でもいやしてくださる。そんな噂が村から村へ、町から町へと広がっていました。
パリサイ人や律法の教師たちは、怪しげなイエスという男の尻尾をつかんでやろうと考えていたのでしょう。
彼らも含めて、今日もイエス様の周りには足の踏み場もないほどの人だかりができていました。
野外ならまだしも、それが家の中ですから、集まった人々も大変です。
そんな中、突然天井からばりばりという物音が聞こえました。でかいネズミか、それとも晴天の落雷か。
みなが驚いて天井を見上げます。あれ、目が痛い。ほこりや、漆喰のかけらや、木の切れ端がぱらぱらと落ちてくるではありませんか。
当時のユダヤの家屋は屋根がはがしやすい構造になっていました。しかしそれでも、屋根を外すなんて非常識です。
人々が声を上げるなか、四隅を縄でつり下げられて、寝床がゆっくりと真ん中におろされてきました。
そこに寝かされていたのは、寝たきりの中風の人でした。四隅の縄を天井でつかんでいたのは、おそらく彼の友人たちでしょう。
この招かれざる客人を、イエス様はどのように見上げられたのでしょうか。
しかし、イエス様が見つめておられたのは、ぶち破られた屋根でもなく、吊り下げられた寝床でもありませんでした。
20節にはこう書いてあります。「イエスは彼らの信仰を見て」と。「彼らの信仰」とは何でしょうか。
それは、たとえ人々から非常識だと後ろ指を指されても、神に近づこうとする信仰です。
「彼ら」の中には、この友人だけでなく、この寝床に伏している中風の人も含まれています。
イエスは彼らの破天荒な行いを、「信仰」として認められました。私たちの常識や理性が、私たちを神に近づけるのではありません。
たとえ人の目にはどう映ろうとも、イエス様ならば何とかしてくださると信じて、ひたすら主に近づいていくこと。
それがイエスの認められた信仰です。続きを読む
posted by 近 at 16:13
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| 2017年のメッセージ
2017.7.2「救いは常識の斜め上」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
台風が列島を横断し、水害の被害に遭われた方々が多くおられます。
東日本大震災の時もそうでしたが、天地を造られ統べ治める主のみこころは、私たちにはわからないことがあります。
ただ、傷ついた人々にいやしと守りがありますように。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』3章1-16節
1.
将棋を指す人を棋士と言いますが、先日77歳で棋士を引退された、加藤一二三さんがテレビ番組に出演しておられました。
その中で、彼が羽生三冠名人と別の番組で共演されたとき、羽生三冠からこう聞かれました、と紹介しておられました。
「加藤先生、私も先生のようにいつまでも元気で現役を続けたいのですが、その答えを教えてください。」
そのとき、加藤名人が言いたかったのは、「それはね、自分が30歳の時に洗礼を受けてクリスチャンになったからだよ」ということ。
しかし番組進行の手前、羽生名人に対して単刀直入に洗礼受けなさいよとも言えず、結局、「答えは言わなかった」と。
私の説明だとなかなかニュアンスが伝わらないかもしれませんが、たいへんそのやりとりをかわいくおっしゃるのですね。
司会者の芸人さんが「答え、ないんかい」とお約束の突っ込みで笑いをとっていましたが、答えがないのではなく、答えを言わなかったのです。
にこにこしている加藤名人の顔を見ていると、彼はカトリックで私たちプロテスタントと教派は違いますが、
ああ、信仰を持ったからこそ、この方はいつも平常心で戦ってこられたんだなあ、と感動しました。
彼は30歳で信仰を持ちました。日野原先生は牧師家庭に生まれて洗礼は受けていましたが、信仰に目覚めたのは60歳の時でした。
しかし信仰には手遅れという文字はありません。なぜならば、信仰は神からの賜物ですから、早すぎるとか遅すぎるということはないからです。
ニコデモはそのことを知っていたでしょうか。今日はこの求道者ニコデモについていっしょに考えてみましょう。
ニコデモの年齢については聖書に書いてありませんが、彼は高齢者の仲間入りをしていたと思われます。
そして彼は年齢と共に築き上げてきた様々なものをたずさえて、イエス様のもとにやってきました。
そのひとつは社会的地位です。彼はユダヤ人の指導者であり、パリサイ人でした。年齢と地位は、時として人に過度のプライドをもたらします。
年齢的にも、社会的地位においてもずっと格下であるはずのイエス様に教えを請うことには、ためらいがあったことでしょう。
そのためらいは、人目につくことのない「夜」の訪問という行動に表れています。
しかし一番厄介で、そしてニコデモ自身気づいていなかった壁は「常識」でした。年齢は人生経験をもたらします。
しかし人生経験にばかりよりかかるならば、常識の範囲内に限り神を信じるといういびつな信仰になってしまいます。
イエス様はニコデモが抱えている闇を一瞬で見抜きました。そして長々とあいさつを始めたニコデモに、ずばりと一言こう言われました。
3節、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。続きを読む
台風が列島を横断し、水害の被害に遭われた方々が多くおられます。
東日本大震災の時もそうでしたが、天地を造られ統べ治める主のみこころは、私たちにはわからないことがあります。
ただ、傷ついた人々にいやしと守りがありますように。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』3章1-16節
1.
将棋を指す人を棋士と言いますが、先日77歳で棋士を引退された、加藤一二三さんがテレビ番組に出演しておられました。
その中で、彼が羽生三冠名人と別の番組で共演されたとき、羽生三冠からこう聞かれました、と紹介しておられました。
「加藤先生、私も先生のようにいつまでも元気で現役を続けたいのですが、その答えを教えてください。」
そのとき、加藤名人が言いたかったのは、「それはね、自分が30歳の時に洗礼を受けてクリスチャンになったからだよ」ということ。
しかし番組進行の手前、羽生名人に対して単刀直入に洗礼受けなさいよとも言えず、結局、「答えは言わなかった」と。
私の説明だとなかなかニュアンスが伝わらないかもしれませんが、たいへんそのやりとりをかわいくおっしゃるのですね。
司会者の芸人さんが「答え、ないんかい」とお約束の突っ込みで笑いをとっていましたが、答えがないのではなく、答えを言わなかったのです。
にこにこしている加藤名人の顔を見ていると、彼はカトリックで私たちプロテスタントと教派は違いますが、
ああ、信仰を持ったからこそ、この方はいつも平常心で戦ってこられたんだなあ、と感動しました。
彼は30歳で信仰を持ちました。日野原先生は牧師家庭に生まれて洗礼は受けていましたが、信仰に目覚めたのは60歳の時でした。
しかし信仰には手遅れという文字はありません。なぜならば、信仰は神からの賜物ですから、早すぎるとか遅すぎるということはないからです。
ニコデモはそのことを知っていたでしょうか。今日はこの求道者ニコデモについていっしょに考えてみましょう。
ニコデモの年齢については聖書に書いてありませんが、彼は高齢者の仲間入りをしていたと思われます。
そして彼は年齢と共に築き上げてきた様々なものをたずさえて、イエス様のもとにやってきました。
そのひとつは社会的地位です。彼はユダヤ人の指導者であり、パリサイ人でした。年齢と地位は、時として人に過度のプライドをもたらします。
年齢的にも、社会的地位においてもずっと格下であるはずのイエス様に教えを請うことには、ためらいがあったことでしょう。
そのためらいは、人目につくことのない「夜」の訪問という行動に表れています。
しかし一番厄介で、そしてニコデモ自身気づいていなかった壁は「常識」でした。年齢は人生経験をもたらします。
しかし人生経験にばかりよりかかるならば、常識の範囲内に限り神を信じるといういびつな信仰になってしまいます。
イエス様はニコデモが抱えている闇を一瞬で見抜きました。そして長々とあいさつを始めたニコデモに、ずばりと一言こう言われました。
3節、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。続きを読む
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