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2017.8.27「心を耕されよ」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
教会には毎週たくさんのダイレクトメールが届きますが、「なぜこれをウチに送ってきた?」と首をかしげるものも少なくありません。
先日届けられた、『事例式 寺院・墓地トラブル解決の手引』(新日本法規出版)も、そんな中のひとつ。
チラシには「寺院と檀家などの間で生じるさまざまなトラブルをこの1冊で解決!!」とあります。
事例紹介をめくってみると、ひとつとしてキリスト教会の墓地についての記載はありません。なぜ送ってきたのでしょうか。
なるほどお寺の世界はこうなっているのかという知識はつきますが、ちょっと内容が過激です。
「寺の方針に異議を唱える檀家を離壇させたい」
「破門した弟子から賃金を要求されてしまった」
「宗務総長選挙に落選したので宗派離脱の通知をした」
「教師資格のない息子を後任住職にするため、宗派を離脱し単立化したい」
しかしもちろんこれらは極端な例で、宗教は違えど「わかるわかる」と思うような事例もありました。
「住職の妻や息子は、もっと寺に関わるべきだと言われた」
「寺の将来を考え何かイベントをするべきだと檀家から言われた」
「早朝の鐘の音がうるさいと苦情がある」「自宅から墓地が見えて不愉快だと言われた」
住職の家族も、牧師の家族と同じ悩みを抱えているのでしょうか。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』13章1-23節 

1.
 牧師になるために私が神学校で学んでいた頃、ある先生が神学生を相手に、この箇所から語ってくださいました。
イエス様が教えられた、種が成長するために大事なことは、どんな種をまくかではない。だれが種をまくかでもない。
問題は、どこに蒔かれたか、ということなのだ。
だから君たちは、将来教会に遣わされた時には、どこからみことばを語るかで、悩んではいけない。
自分の説教のまずさを嘆いてはいけない。だからもし信徒が君たちの説教を批判してきたら、「土が悪かったんだ」と胸をはれ。
しかしそれは心の中の確信にとどめておいて、素直に「ごめんなさい」と謝りなさい。それが牧会の長続きするコツである、と。
 聞いていた神学生は苦笑しましたが、確かにイエス様が丹念に語っているのは、
何を蒔いたか、だれが蒔いたか、ではなく、どこに蒔かれたか、ということであることは間違いありません。
道ばた、薄い岩地、茨の中、柔らかい地、そのどれも、みことばという種を受け止めた人の心を表しています。
この道ばたや柔らかい地というのは、その人のそれまでの人生経験や家庭環境から作り出されるものではありません。
幼い頃から両親の愛に育まれ、教養に溢れた人でも、道ばたのように、みことばに対して頑なな心を持つ人がいます。
かと思うと悪習慣や犯罪に手を染め続けていた人が、たまたま聞いたみことばに心を突き刺され、人生を180度変えられる、
すなわち柔らかい地であった人がいます。それは100%、人ではなくて聖霊なる神の働きです。
その日、礼拝が始まったときにも、抱えている仕事の不安が落ち着かず、心そぞろであった人が、
その礼拝の説教を通して、自分の不信仰を示されて、悔い改めるということがよく起こります。
これは、道ばたとか柔らかい地というのが、人間の力ではなく、聖霊なる神の働きによることを示しています。
だから私たちは、今、自分の心がどうであろうと、今までの生活がどうであろうと、
自分は道ばた、自分は茨、と自己評価する必要はありません。ただひとつ、聖霊なる神が私の心から石を取り除き、クワで掘り起こし、
みことばを受け入れることのできる柔らかい地に変えてくださいと願いながら、みことばを受け止めていきましょう。続きを読む
posted by 近 at 18:02 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.8.20「神の家族の破れそして回復」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』16章1-16節 

1.
 「あのとき、あんなことを言わなければよかった」「あんなことをしなければよかった」。そんな後悔に引きずられる経験はないでしょうか。
こんな失敗に共通しているのが、「焦り」です。焦っていなければ、もっとじっくりと考えることができたはず。そう後悔している人は多いのです。
焦りの中で、神のみこころとは真逆の行動へと向かってしまったのが、このアブラムの妻、サライでした。
彼女は、やがて子どもを産むという確かな約束を神様から与えられていました。
しかしその約束にかかわらず、神様の時計は何年も止まってしまっているかのように見える。そして自分はどんどん年をとっていく。
その焦りの中で、彼女は夫アブラムにこのように訴えました。2節をお読みします。
「ご存じのように、主は私が子供を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。
たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう」。
サライは、神を信じています。しかし彼女にとって、神は子どもを与えてくださる方ではなく、子どもを産めないようにしておられる方でした。
焦りは、神への不信感を生み、神への不信感は、神なしで目的を達成しようとする誤った行動へと私たちを駆り立てます。
彼女は、どうしても子どもが欲しかった。
自分のお腹から子どもが生まれるといういつになるかわからない約束よりも、今すぐ子どもを胸に抱きたかった。
そしてサライは、自分の女奴隷ハガルに代理出産をさせることで、子どもの母になろうとしたのです。

 なぜ神は、サライが子どもを産めないようにしておられたのでしょうか。
それは人間的な期待、希望的観測がすべて打ち砕かれたときにこそ、私たちは神の恵みの中にしがみつく者となるからです。
たとえ86歳の年寄りのアブラムでも、若いハガルとならば子どもをつくることができる、サライはそう考えました。
この考えこそ、まだ人間の力に拠り頼んでいる証拠です。私たちが手に力をこめているあいだは、神は奇跡を起こしません。
私がこの手にこめる力も失い、もう何もできない、自分自身には何も期待できない、と絶望するときに、初めて神の力が私を覆います。
私が自分の能力を頼みとしているとき、神は動いてくださいません。
いやむしろ、私たちの我、エゴが心の中に充満しているがゆえに、聖霊が自由に働くことができない、と言ったほうがよいでしょう。
しかし私は何もできないものだということを痛感するとき、そこで初めて神の力が内側から私を変えていきます。
サライとアブラムはそれを知るべきでした。そして私たちひとり一人も。続きを読む
posted by 近 at 16:57 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.8.13「もし罪はないと言うなら」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
説教冒頭にあるボウフラの話、ある著名な牧師(故人)から聞いたのですが、平成の人間には相当まゆつばもの。
語っている最中も、頻繁に頷く熟年層もいれば、ホントかよという顔の若年層もおりました。
しかし沖縄の某企業のブログに、同じような話を発見!!これで安心して眠れます。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの手紙 第一』1章1-10節 

1.
 「ドラム缶に雨水をためて飲み水にしていた」なんて話を聞いて、イメージがわくでしょうか。
決して無人島の生活ではなくて、戦前戦後の貧しい時代にはそんな光景がよく見られたそうです。
そんな時代、あるクリスチャン青年が落ち込んだ顔をして、ある夜、牧師のところに相談に来ました。
「先生、ぼくはもうクリスチャンになってずいぶん経ちますが、いまだに罪ばかり犯してしまうのです。
ぼくも確かにイエス様を信じて救われたはずなのですが、こんな罪人のままでは、洗礼を授けてくださった先生に申し訳ないのです」。
すると牧師先生が、青年にこう言いました。「よしわかった。今日はもう遅い。明日、朝一番に来なさい」。
翌朝早く、牧師先生はその青年を例の、雨水をためて飲み水にしているというドラム缶の前に連れてきました。
なんと水の中には至る所ボウフラがわいています。
牧師が尋ねました。「君、この水をくんで沸かしたいのだが、ボウフラばかりだよ。どうすればいいと思うかね」。
すると青年は、そばにあった棒でドラム缶を思いっきりたたきました。ボウフラが騒いで、しばらくすると底に沈んでいきました。
そして先生がさっと鍋で水をくんで、言いました。
「救われる前の、私たち罪人の心は泥水のようなものだ。あまりにも汚れていて、底も見えないほどだった。
しかし救われて水がきれいになると、今度は今まで見えなかった小さな罪が浮かんでくるのだ。
このボウフラみたいなものだ。だがその罪に気づいたら、そのたびにこうして胸を打ちたたいて、十字架のイエス様にすがりなさい。
罪はまた沈んでいく。救われるということは罪を犯さなくなることではなく、罪が今までよりもよく見えるということだ。
君の心が罪を自覚するたびに、イエス様を呼びなさい。」続きを読む
posted by 近 at 14:49 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.8.6「わが心に立つバベルの砦」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
「恋愛と伝道は一緒」なんて言ったら、つまずきになってしまうかもしれませんが、
言葉を尽くして自分の思いを伝えるという意味では、両者は似通っているのではないかと思うのです。
もちろん人を救いの決心に導くのは、聖霊の働きです。
しかしそれまでの信頼関係の積み上げや、言葉を尽くして自分の思いを伝えようとする「努力」は無駄にはなりません。
バベルの塔の物語は、人間同士、言葉が通じ合わなくなった悲劇です。
しかしむしろ言葉が通じないからこそ、人は自分の持っているすべてを動員してコミュニケートしようとします。
言葉が自由に通じるならば、そこまで自分をさらけ出さなくても済むでしょう。
しかしあえて清水の舞台、いやバベルの屋上から飛び降りる覚悟で臨まなければ、どうしても伝えられないことがあるのです。
だれでも、好きになった相手にそんな経験があるのではないでしょうか。
そして、伝道もまさにそうです。目の前の人を救うために、言葉を尽くして、救い主イエスを伝えます。
だからこそ、一度や二度、言葉が通じなかったからやめてしまうということがないように。
「バベルの塔を築くのをやめてはならない」という意味ではありませんので、そのへんは誤解しないでください。週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』11章1-9節 

序.
 先週、リース元宣教師が天に召されたという知らせが入りました。リース先生と聞いてもご存じない方もいるかもしれません。
二年半前にやはり天に召されたマクダニエル元宣教師とともに、新潟の教会の礎を築くために労してくださった方です。
豊栄を担当してくださったのは主にマクダニエル先生でしたが、リース先生は今の山の下福音教会を中心に活動をされていました。
新潟で働いてくださった数々の宣教師の方々の中でも、リース、マクダニエル先生の滞在期間は群を抜いていました。
先生方の働きがあったからこそ、私たち宣教区の諸教会は今に至るまで守られていると言えます。
豊栄キリスト教会の45周年記念誌の中にも、先生方が豊栄を訪問してくれたときの写真が幾つも載っています。
感謝ととともに、ご遺族、とくに奥様の上に豊かな慰めがありますようにと祈ります。

1.
 二年前、宣教区でマクダニエル先生の追悼文集を作りました。リース先生に対しても、同じようにしたいと思っています。
文集作業で一番大変だったのは、40人から寄せられた原稿を、アメリカのご遺族に送るために英語に訳するという作業でした。
私が半年くらいかけて訳したのですが、いま思い出そうとしても、その頃の記憶が欠けているのです。
どうやら脳が思い出すことを拒否しているようです。日本語を英語に直す、それは大変な作業でした。
そこで今日の1節のことばをかみしめます。「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった」。
うらやましい。ただそれだけです。日本語から英語に直し、英語から日本語に直すとかいうような悩みのまったくない世界。
英検何級とか、トーフル(TOEFL)何点とかで、頭の良さを評価されない、すばらしい世界。
 しかしかつて世界が一つの言葉だったという事実を、聖書は祝福として描いておりません。
むしろ一つの言葉であったゆえに、一人の言葉が瞬く間に広がって、みなが集まって罪の下り坂を転げ落ちていく様を描いています。
この11章の直前、洪水後の世界に降り立った、人類の生き残り、ノアたち8人に対して、神は次のように語られました。
「生めよ、増えよ、地を満たせ」。しかしノアの子孫から増えていった人類は、この神の命令とは真逆の道を愛しました。
4節をご覧ください。「そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。
われわれが全地に散らされるといけないから」。「地を満たせ」と「地に散らされるといけないから」。
このとき、神のみこころと、人の願いは、まったく逆を向いていました。続きを読む
posted by 近 at 17:22 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.7.30「信仰が弱まったとき」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
故星新一氏の小説に「おーい出てこーい」というものがあります。(いつかの説教でも紹介しました)
道ばたに底知れぬ穴があり、最初にそれを見つけた人が小石を投げ入れます。跳ね返る音もしない深い穴でした。
やがて人々は家庭ゴミ、産業廃棄物、使用済核燃料、○○!だのを次から次へと投げ込んでいきました。
穴はそれらを何事もなく吸い込み、そして何事もなかったかのように存在し続けました。
やがて投げ込んだものを人々が忘れてしまうほど時間が経った頃に、空からひとつの小石が落ちてきます。
小説はそんな不気味なラスト(後はわかるな?)で終わっています。この一週間、私も似た経験をしました。
人の心は底の知れぬ穴のようですが、そこに投げ入れてしまったものは必ず後になって自分に返ってきます。
悪しきものを投げ入れていたことを悔い改めるとともに、投げ入れない勇気を持ちたいと思います。
行き場を失った私たちのすべての悪しき思い・・・そんなものさえも完全に受け止めてくださるイエス様にただ感謝をささげながら。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』11章17-45節 

序.
 まず最初に、先週の説教を振り返ってみます。ベタニヤ村に、マルタ、マリヤ、ラザロという三人の兄弟姉妹が住んでいました。
マルタ、マリヤが女性、ラザロが男性です。今、そのラザロが死にかけていました。
そこでふたりの姉妹は、ふだんから親しくしていたイエス・キリストに使いを送り、この言葉を託しました。
その言葉が3節に記されております。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。
 先週も触れましたが、ここで彼女たちは「ラザロ」と名前を挙げません。「ベタニヤに来て、ラザロをいやしてください」とも頼みません。
ベタニヤから3キロしか離れていないエルサレムの、宗教指導者たちがイエスの命を狙っていることをよく知っていたからです。
だから彼女たちの思いはこうでした。
「主よ。私たちはあなたが今置かれている状況を知っております。ただ、あなたの目をこのベタニヤ村に向かって注いでください。
あなたが愛してくださった者が死にかけていることを、そのお心にとめてください」。
何とすばらしい信仰でしょうか。そしてこの信仰がなくならないように、イエス様は次のことばを使いに託しました。
4節、「この病は、死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」。
これは、ただの慰めの言葉ではありません。
イエス様は、マルタとマリヤが、悲しみの中で信仰が衰えることがないように、この言葉を心の中にとどめておくように願っておられたのです。
40節には、イエス様がマルタに次のように言われています。
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」。
これがまさに4節の言葉を指しているのです。わたしがあなたにあらかじめ伝えておいた、あのみことばを忘れてはいけないよ、と。続きを読む
posted by 近 at 10:22 | Comment(0) | 2017年のメッセージ