教会には毎週たくさんのダイレクトメールが届きますが、「なぜこれをウチに送ってきた?」と首をかしげるものも少なくありません。
先日届けられた、『事例式 寺院・墓地トラブル解決の手引』(新日本法規出版)も、そんな中のひとつ。
チラシには「寺院と檀家などの間で生じるさまざまなトラブルをこの1冊で解決!!」とあります。
事例紹介をめくってみると、ひとつとしてキリスト教会の墓地についての記載はありません。なぜ送ってきたのでしょうか。
なるほどお寺の世界はこうなっているのかという知識はつきますが、ちょっと内容が過激です。
「寺の方針に異議を唱える檀家を離壇させたい」しかしもちろんこれらは極端な例で、宗教は違えど「わかるわかる」と思うような事例もありました。
「破門した弟子から賃金を要求されてしまった」
「宗務総長選挙に落選したので宗派離脱の通知をした」
「教師資格のない息子を後任住職にするため、宗派を離脱し単立化したい」
「住職の妻や息子は、もっと寺に関わるべきだと言われた」住職の家族も、牧師の家族と同じ悩みを抱えているのでしょうか。週報はこちらです。
「寺の将来を考え何かイベントをするべきだと檀家から言われた」
「早朝の鐘の音がうるさいと苦情がある」「自宅から墓地が見えて不愉快だと言われた」
聖書箇所 『マタイの福音書』13章1-23節
1.
牧師になるために私が神学校で学んでいた頃、ある先生が神学生を相手に、この箇所から語ってくださいました。
イエス様が教えられた、種が成長するために大事なことは、どんな種をまくかではない。だれが種をまくかでもない。
問題は、どこに蒔かれたか、ということなのだ。
だから君たちは、将来教会に遣わされた時には、どこからみことばを語るかで、悩んではいけない。
自分の説教のまずさを嘆いてはいけない。だからもし信徒が君たちの説教を批判してきたら、「土が悪かったんだ」と胸をはれ。
しかしそれは心の中の確信にとどめておいて、素直に「ごめんなさい」と謝りなさい。それが牧会の長続きするコツである、と。
聞いていた神学生は苦笑しましたが、確かにイエス様が丹念に語っているのは、
何を蒔いたか、だれが蒔いたか、ではなく、どこに蒔かれたか、ということであることは間違いありません。
道ばた、薄い岩地、茨の中、柔らかい地、そのどれも、みことばという種を受け止めた人の心を表しています。
この道ばたや柔らかい地というのは、その人のそれまでの人生経験や家庭環境から作り出されるものではありません。
幼い頃から両親の愛に育まれ、教養に溢れた人でも、道ばたのように、みことばに対して頑なな心を持つ人がいます。
かと思うと悪習慣や犯罪に手を染め続けていた人が、たまたま聞いたみことばに心を突き刺され、人生を180度変えられる、
すなわち柔らかい地であった人がいます。それは100%、人ではなくて聖霊なる神の働きです。
その日、礼拝が始まったときにも、抱えている仕事の不安が落ち着かず、心そぞろであった人が、
その礼拝の説教を通して、自分の不信仰を示されて、悔い改めるということがよく起こります。
これは、道ばたとか柔らかい地というのが、人間の力ではなく、聖霊なる神の働きによることを示しています。
だから私たちは、今、自分の心がどうであろうと、今までの生活がどうであろうと、
自分は道ばた、自分は茨、と自己評価する必要はありません。ただひとつ、聖霊なる神が私の心から石を取り除き、クワで掘り起こし、
みことばを受け入れることのできる柔らかい地に変えてくださいと願いながら、みことばを受け止めていきましょう。続きを読む