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2017.9.17「神の前に富む」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今月に入って、教会に生活資金の援助を求める電話が目立ちます。
かつては、駅の交番で教会の場所を尋ねて直接訪問して援助を求められるという形がほとんどでした。
しかし今はインターネットで教会を検索して、という形になってきているのかもしれません。
今日の電話は県外の方からでした。金銭を送ることはできないと説明させていただきましたが、電話を切った後でも心が泡立ちます。
本当に苦しくて電話されているのか。それともこういう手法の寸借詐欺(!)なのか。
この電話を切った後どうされるのか。なぜ何百キロも離れた教会に、生活費の援助を求めて来られたのか。
 昨夜の祈祷会で、ダビデが祭司アヒメレクにパンの援助を求めにきた場面を学びました。
参考に読んだマックス・ルケードの『ダビデのように』(いのちのことば社)の中に、こんなことばがありました。
 パンと剣。食物と装具  。教会は両方を与えるためにある。それはうまくいっているだろうか。いつもうまくいくとは限らない。人を助けることは、決してきちんと決まりのつく仕事ではない。助けを必要としている人々は、きちんと決まりのつく人生を送ってはいないからだ。・・・(中略)・・・教会のアヒメレクたち(指導者、教師、牧師など)は黒か白を選ぶのではなく、そのどちらとも決められないグレーを選ぶことを余儀なくされている。良いか悪いかではなく、そのどちらもある程度含んでいるものを選ばざるをえないのだ。
もう十年近く前になりますが、ある家族の生活費を約一年以上にわたって援助したことがありました。
資金が尽きたとき、その人は離れていきました。信仰へ導くことができなかったことの悔しさを今もおぼえます。
徒労に終わってしまったのかもしれませんが、本当の結果は地上を去ってイエスにまみえる日まではわかりません。
今日電話してくださった方が、地元の教会に繋がってくださるようにと願います。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章13-21節 

1.
 イエス様が人々に対してみことばを語っているさなか、ある人が大声でこう呼びかけました。
13節、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」。
しかしイエス様は「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか」と答え、その求めをはねつけます。
 イエス様には、この人が抱えている問題の根っこがどこにあるのかわかっていました。
それは、貪欲です。貪欲とは、決して満たされない欲望をひたすら求め続ける、人の心に潜む悪です。
たとえイエス様が彼ら兄弟のあいだの仲裁役として立ったとしても、その貪欲に気づかない限り、彼らが永久に納得することはありません。
どんな人の中にでも眠っている、貪欲に気づかせてくれるのはみことばです。しかしどうでしょうか。
みことばを聞いてもこの人は自分の貪欲に気づかず、むしろその貪欲を自分の願う方向へと満たすためにイエス様を利用しようとしました。
彼はイエス様を、救い主ではなくて調停者としか見ていませんでした。
救いを求めてイエスのことばを聞いていたのではなく、この人ならば兄弟をうまく丸め込み相続を有利に進めてくれるだろう、と。
 使徒パウロは、このような人のことを、「敬虔を利得の手段と考えている人々」と呼び、批判しています。
これはとくに現代の日本において、決して無視できないことばです。
私たちは神のことばを行うことによって祝福を受けます。しかし神のことばを行うというのは、人を変えることではなくて、自分が変わることです。
みことばを行うことによって祝福を受けるとは、外からビジネスチャンスが舞い込んでくることではありません。
富んでいるときにも、貧しいときにも、健康なときにも病気のときにも、あらゆるときに、私たちは感謝して満ち足りることを知るということです。
みことばを行うことで、むしろ私たちはこの世では迫害や不利益さえ生じることもあります。
しかしそれでも神のことばのゆえに苦しみも厭わない人は、次に用意されている新しい天と地においては、栄冠を受ける勝利者となります。
逆にイエスを信じていればこの世で楽に生きていくことができると考えている人は、失望して信仰から離れてしまうことになるでしょう。
 私たちはどちらを選び取るでしょうか。答えは決まっています。
もし私たちが本当にイエス・キリストの十字架を信じて救われたのならば、義のために苦しむ道しか残されていないのです。
なぜならば、信じたときに私たちの内に入ってくださった御霊が、あえてそのような道に私たちを強いて行かせるからです。
だからイエス様は別のところでこう語られました。「義のために迫害されている者は幸いです」と。
もし私たちの生活の中に、キリストを信じるがゆえの苦難があるならば、それは私たちが主に従っているがゆえのバロメーターになります。
しかし自ら策を講じて苦難を避けようとする生活を繰り返しているならば、信仰は成長しません。
この世の知恵には熟達しても、信仰はいつまでも幼児のままです。聖霊の御声にいつも従っていくものでありたいものです。続きを読む
posted by 近 at 17:22 | Comment(0) | 2017年のメッセージ