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2017.11.26「祈りに導かれた結婚」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
11/25(土)に東京基督教大学(TCU)で行われた故小林高徳学長の合同葬に出席してきました。
新潟−成田間に、一日一本のみ、飛行機(プロペラ機)が往復しており、今回はそれを利用しました。
葬儀そのものは当然ながら写真は撮れませんので、開式前の廊下や入口の写真のみです。
61歳という若さでしたが、きっと濃密な人生であっただろうと思いました。
人の目には最悪な結果に見えても、神の永遠の計画においては常に最善、それが私たちの信仰です。

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小林先生、天国で会いましょう。週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』24章1-27、56-67節 

1.
 私が妻と初めて出会ったのは、神学校一年目の夏、教団の宣教大会の場でした。
私にとっては電撃的な出会いであったのですが、妻にはそうでなかったようで、あまり詳しく顛末を語ると、だいたい後でけんかになってしまいます。
ともあれ、そのとき私の心の深みには妻の顔がはっきりと刻み込まれたのです。
しかし名前や住所、所属教会を聞くほどの関係には至らず、ひと夏の淡い恋で終わるはずでした。
ところが神学校三年目、再び教団の宣教大会で再会します。しかも向こうから私の方に声をかけてきてくれました。
これはまさに神の思し召し、しっかりと名前と所属教会を確認し、約二年間の交際期間を経て結婚に至りました。
その後どうにかこうにか守られてきましたが、もし神様が二人を引き合わせてくださったという確信がなければ、どうなっていたかわかりません。
それほどまでに、趣味も性格もあらゆることが違っている二人を神様は結び合わせられました。

 今日の聖書箇所は、世界で最も美しい結婚物語と呼ばれる、イサクとリベカの結婚です。
しかしリベカはともかく、イサクについてはほとんど触れられていません。にもかかわらず世界で最も美しいと言われるのはなぜでしょうか。
それは、神様のご計画に基づいていることがはっきりとわかる、不思議な出会いの繰り返しによってこの物語が動いているからです。
イサクの父、アブラハムは息子の結婚相手を捜すために、自分の故郷に、しもべを遣わします。
しかしアブラハムの言葉は、よく読むととても不思議です。真の神を知らないカナン人から妻をめとってはならない、というのはわかります。
しかしアブラハムの生まれ故郷もまた、偽物の神を礼拝していた町であって、そこから彼は父、妻、甥と一緒に出てきたのです。
つまり、生まれ故郷にいる女性が信仰を持っているとは限りません。というよりも、持っていない可能性のほうがはるかに高いのです。
 しかしなぜアブラハムは生まれ故郷にこだわったのか。ここにアブラハムの信仰があります。
神がイサクを通して全世界を祝福するとすれば、自分が故郷に置いてきた親族を第一に祝福してくださる、という信仰が。
だから必ず故郷の町には、イサクのために、イサクとともに、最後まで歩んでくれる女性を神はいますでに与えてくださっているのだ、と。
ここに、アブラハムの、神への絶対的な信頼があります。お嫁さんとなる人が信仰をもっているかどうかさえも、彼は神にゆだねています。
 それに対して私たちは、信仰、信仰と口にしながら実際には自分の経験や推測を優先させることが多いかもしれません。
しかし神は私たちを今まさに導いておられるという信仰をしっかりと持ち、たとえ現実はどうあろうとも、神のみこころに従っていきたいものです。
アブラハムの確信が現れている、7節のみことばを心に刻みつけましょう。
「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。」
アブラハムがこのしもべを遣わす前に、すでに神は御使いをしもべの前に遣わしてくださっている、という信仰を握りしめていきましょう。

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posted by 近 at 20:59 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.11.19「ボクはイサク」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私はたまに説教の中で落語やコントを挿入することがありますが、いつも準備不足で中途半端な印象がぬぐえません。
今回も「子ども祝福式」を礼拝の中で行った流れの中で、説教全編を少年イサクの独白という形にしたのですが、やっぱり準備不足。
46のおっさんが照れながら朗読劇をするような感じになりました。昔は原稿も一晩で暗記できたのですが。
いつか、アブラハム役を募集したうえで、練習をしっかり行って再演したいと思います。
週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』22章1-19節 

1.
 ボクはイサク。お父さんの名はアブラハム。お母さんの名前はサラ。
小さい頃は、イシュマエルというお兄さんがいたけれど、あるとき、ハガルさんという本当のお母さんといっしょに家を出ていってしまった。
それから、ボクは自分で言うのもなんだけど、お父さんお母さんから、本当に大切にされてきたんだ。
お父さんは、しょっちゅうボクを丘の頂に連れて行く。そこからは、今住んでいるカナンの場所が全部見渡せる。
そしてお父さんはボクを振り返ってこう言うんだ。
「見ろイサク、これらすべて、天の神様が作られ、わしらに与えてくださったんじゃ。わしのものは、すべておまえのものじゃ」。
お母さんは、いつも羊の肉じゃイサクが飽きるからと、ときどき行商人が集まる市場へ連れて行ってくれる。
でも市場に行くと、会う大人たちみんなが、お母さんにこう言うんだ。「かわいいお孫さんですね」って。
お母さんは最初の頃は、孫じゃありません、息子です、とむきになっていたけど、最近では適当に「ええまあ」とか言ってやり過ごすようになった。
でも、知らない人がみたら、やっぱりお母さんはお祖母ちゃんにしか見えない。だってお母さんが90歳の時にボクが生まれたんだもの。
おばあちゃんどころか、ひいおばあちゃんに見られたって不思議じゃない。おとうさんだって、ひいおじいちゃんだ。
ときどきボクが食事の時にふたりにそう言うと、お父さんは大声で笑う。そしてその後、必ずボクの目をまっすぐ見て、こう言うんだ。
「イサク。わしが100歳、母さんが90歳の時にお前が生まれた。だがお前を生んだのは、わしでも母さんでもない。
神様がわしらへの約束を守って、お前をこの世界に生んでくださったんじゃ。だから何があっても、神様への感謝を忘れてはならんぞ」。
ボクがうなずくと、お父さんはにっこり笑う。お父さんは笑うと皺だらけの顔がもっとくしゃくしゃになって、目が皺のあいだに隠れてしまう。
そんなお父さんの笑顔がボクは大好きだ。お父さんとお母さんが、いつまでも元気で、ずっと一緒に暮らせたらいいなあ。

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posted by 近 at 13:10 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.11.12「目をさまして語り続けよう」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
ブログ移転しました。経緯の詳細は旧ブログのほうに載せておりますが、今後ともご愛顧ください。
移転を機に、ブログ名称も「村の小さな教会」から「豊栄の風〜T-Breeze」に変えました。
当教会の有志で構成している、合唱グループの名前からとっています。決して、SEA BREEZEのパクリではありません
旧ブログを立ち上げてから約6年、「村の小さな教会」で検索すると上位にヒットするようになったのですが、また仕切り直しです。
新ブログは、スマホで見ても従来のうっとうしい広告表示がまったく出て来ません。快適。ぜひスマホ版もお試しください。
スマホ版では私の顔がサムネイルで連続して出てくるので、これもある意味うっとうしいかもしれませんが。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの黙示録』3章1-6節 

1.
 今日の聖書箇所はヨハネの黙示録、イエス様がサルデスの町にあった教会に対して語られたみことばです。
しかしその言葉は、叱責から始まります。しかもその激しさは尋常ではありません。「あなたは生きているとされているが、じつは死んでいる」と。
これは、いのちを与えられたキリスト者にとって、なんと悲しむべき、イエス様からの言葉であるでしょうか。
 この黙示録が書かれたのは、ローマ帝国の時代ですが、サルデスは、かつてリディア王国という国の首都があったところでした。
リディアはペルシャ帝国に滅ぼされ、サルデスはそのペルシャ帝国の重要拠点のひとつとなるのですが、
そのペルシャもやがてギリシャのアレキサンダー大王に滅ぼされ、そしてこの手紙が書かれた時代は、ローマ帝国の重要拠点となっていました。
今日の週報の表紙には、このサルデスの遺跡の写真を掲載しました。
これは公衆浴場とシナゴーグの複合施設です。これだけでも、サルデスの町の豊かさが伝わってくるのではないでしょうか。
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posted by 近 at 15:48 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.11.5「家庭は庭のごとく」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
まったくアナウンスもないままに、トップ記事に、私が兼牧している村上教会の会堂建築趣意書を掲載してしまいました。
そんな中、ブログをよく見ていてくださるという千葉県のKさんから会堂献金へのご協力をいただきました。ありがとうございます。
会堂献金に限らず、今までも、兵庫県のKさんはじめ、多くの方からささげものを送っていただきました。
この場を借りて、改めてお礼申し上げます。なんか催促しているような感じに聞こえたらすみません。
 村上教会の会堂献金は、現在、献金目標額400万円のうち、2%くらい集まっております。
献金者には領収証とニュースレター、そしてあわよくばもう一回ということで振込用紙も送らせていただきます。
どうかお祈りをよろしくお願いいたします。週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』19章1-38節 

序.
 敬和学園大学の新井明学長がよく言っていた言葉に、「敬和学園大学は、木を育てるように人を育てる」というのがありました。
この場合の木というのは、自然に生えている木のことではなく、人間が一本一本地面に植えていく木のことを指しています。
教育というのは、木を植えて、肥料をやり、水をやる、それを毎日続けるように、手塩をかけて育てていくこと、それは人も同じだ、と。
 「家庭」という言葉があります。欧米からの留学生が興味深いことを言っていました。「家庭」という言葉は日本にしかないそうです。
英語に「family」という言葉がありますが、これは「家庭」ではなくて、「家族」である。
また同じく英語で「home」という言葉があるが、これも「家庭」ではなくて、「今人が住んでいる家」という意味にすぎない。
家庭的な雰囲気を表すときに使う「アットホーム」という言葉は、和製英語と言って、日本人が作った英語だそうです。
アメリカ人に「アットホーム」と言っても、単に「家にいる」という意味で、暖かな雰囲気というニュアンスは伝わらない、ということでした。
 面白いなあと思いました。日本人も外国人も家族を大切にしますが、「家庭」という言葉は、日本にしかないのだということ。
日本人は、まさに木を育てるように人を育てるというのが、言葉に表れているのです。庭というはまさにそうじゃないですか。
庭に花を植え、木を剪定し、美しく整えていくように、子どもたちを大事に大事に育てていくのが、家庭なんだというわけです。
 今日の聖書箇所は、聖書を読んだことがない人でも「ソドムとゴモラ」の話だというと、あっ聞いたことがあるという有名な場面です。
一見、罪にあふれた町へのさばき、という暗い事実しか見えません。しかしその背後にあるひとつのメッセージを学びましょう。
それは、まさに「家庭」を作ることを軽んじていたロトの過ち、そしてそれでもなお彼を愛し、命を助けてくださった神のあわれみです。続きを読む
posted by 近 at 18:12 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.10.29「われ無力なれど」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私が東京基督神学校に在籍していた頃、ギリシャ語等を教えてくださった小林高徳先生が、61歳の若さで天に召されました。
母校は十年前に閉校し、その働きは東京基督教大学神学部の大学院に引き継がれて今に至っています。
小林先生はその東京基督教大学の学長として尽力され、これからも活躍が期待されていましたが、神は先生を引き上げられました。
 神学校に入ると、ギリシャ語の最初の授業で「ホ・ヘ・ト」という暗号めいたものを覚えます。
もちろんイロハニホヘトではなく、ギリシャ語特有の、男性・女性・中性名詞の冠詞を横につなげたもの。
たったこれだけを覚えるのにも苦労する一年生に、さらなるギリシャ語の容赦なき洗礼を授け続けた先生の姿を思い出します。
口癖は「簡単ですねえ、ふふふ」(ニヤリ)。あっ、思い出したらだんだんむかついてきた。
それは冗談ですが、すばらしい先生でした。天国でもう一度授業を受けたいものです。どうかご遺族の方々に慰めがありますように。
週報はこちらです。
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(東京基督教大学のホームページから引用)
小林高徳 東京基督教大学・日本長老教会東関東中会 合同葬のお知らせ
東京基督教大学学長・教授、日本長老教会東関東中会教師 小林高徳が2017年10月24日に召天しました。
ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでお知らせ申し上げます。
東京基督教大学・日本長老教会東関東中会 合同葬を下記のとおり行いますのでご案内申し上げます。
日時:11月25日(土) 13時〜14時30分(受付開始11時30分)
場所:東京基督教大学チャペル 千葉県印西市内野3-301-5
葬儀委員長:廣瀬 薫(東京キリスト教学園 理事長)

聖書箇所 『創世記』18章16-33節 

1.
 今日は教会学校でも私が同じところから語りましたが、紙芝居とは別にこんな紙を使いました。
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これがいったい何をあらわしているかわかりますか。
いうまでもなく、アブラハムがソドムの町をさばきから救うために次々に神様に訴えた数字です。
彼は、もしかしたら神の逆鱗に触れてしまうのではないかと覚悟しながら、次々に数字を落としていったのでしょう。
まず私たちは、聖書が、この数字のやりとりをひとつひとつ記録していることに目を留めるべきでしょう。
50人、45人、40人、30人、20人、10人、それらの数字を出しながら神と交渉していく、
アブラハムの緊張感をこれでもかというほどにくわしく書き綴っています。ここには、アブラハムのとりなしの必死さが刻み込まれています。
一言でまとめたり、何かをはしょったりすることができない。その口からでる一言一言がまさに命がけのものであった、ということです。
 アブラハムの命がけの態度は、どこから生まれているのでしょうか。そりゃ、信仰からさ、と言うのは簡単です。
ではその信仰を具体的なことばで言い表すと何か。それは、彼は、自分の無力さを知っているということに尽きます。
アブラハムは、自分も、ソドムの人々も、すべての人間が神の前にまったく無力であることを知っていました。
神の正しさに照らすならば、罪に汚れたソドムの町は、神の手で滅ぼされることに何の言い訳もできません。
しかし無力であるからこそ、アブラハムは命がけでソドムのためにとりなします。じつは祈りの力というのは、無力からこそ生まれます。
私たちは何もできない。自分の性格を努力して変えることもできないし、わずかな時間、罪から離れて生きるということさえもできない。
自分が無力だからこそ、全能なる神にしがみつきます。祈ることしかできません。しかしだからこそ、いのちがけで祈る。
それがアブラハムの証ししている信仰です。
 私たちクリスチャンは、神以外に逃げ道を焼き捨ててしまった人々です。
世の人々は、クリスチャンは神に逃げ込んで努力をしないと批判します。しかしむしろ私たちは神以外に何に対しても逃げ込むことをしない。
たとえそれが努力だとか人との絆だとかいう心地よい言葉であったとしても。
自分がとことん無力な者であることを知っている。しかしだからこそ、神にしがみつく。
それが私たちの祈りであり、アブラハムが神の前で表した、いのちがけでソドムの人々のためにとりなした姿です。続きを読む
posted by 近 at 22:48 | Comment(0) | 2017年のメッセージ