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2017.10.29「われ無力なれど」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私が東京基督神学校に在籍していた頃、ギリシャ語等を教えてくださった小林高徳先生が、61歳の若さで天に召されました。
母校は十年前に閉校し、その働きは東京基督教大学神学部の大学院に引き継がれて今に至っています。
小林先生はその東京基督教大学の学長として尽力され、これからも活躍が期待されていましたが、神は先生を引き上げられました。
 神学校に入ると、ギリシャ語の最初の授業で「ホ・ヘ・ト」という暗号めいたものを覚えます。
もちろんイロハニホヘトではなく、ギリシャ語特有の、男性・女性・中性名詞の冠詞を横につなげたもの。
たったこれだけを覚えるのにも苦労する一年生に、さらなるギリシャ語の容赦なき洗礼を授け続けた先生の姿を思い出します。
口癖は「簡単ですねえ、ふふふ」(ニヤリ)。あっ、思い出したらだんだんむかついてきた。
それは冗談ですが、すばらしい先生でした。天国でもう一度授業を受けたいものです。どうかご遺族の方々に慰めがありますように。
週報はこちらです。
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(東京基督教大学のホームページから引用)
小林高徳 東京基督教大学・日本長老教会東関東中会 合同葬のお知らせ
東京基督教大学学長・教授、日本長老教会東関東中会教師 小林高徳が2017年10月24日に召天しました。
ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでお知らせ申し上げます。
東京基督教大学・日本長老教会東関東中会 合同葬を下記のとおり行いますのでご案内申し上げます。
日時:11月25日(土) 13時〜14時30分(受付開始11時30分)
場所:東京基督教大学チャペル 千葉県印西市内野3-301-5
葬儀委員長:廣瀬 薫(東京キリスト教学園 理事長)

聖書箇所 『創世記』18章16-33節 

1.
 今日は教会学校でも私が同じところから語りましたが、紙芝居とは別にこんな紙を使いました。
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これがいったい何をあらわしているかわかりますか。
いうまでもなく、アブラハムがソドムの町をさばきから救うために次々に神様に訴えた数字です。
彼は、もしかしたら神の逆鱗に触れてしまうのではないかと覚悟しながら、次々に数字を落としていったのでしょう。
まず私たちは、聖書が、この数字のやりとりをひとつひとつ記録していることに目を留めるべきでしょう。
50人、45人、40人、30人、20人、10人、それらの数字を出しながら神と交渉していく、
アブラハムの緊張感をこれでもかというほどにくわしく書き綴っています。ここには、アブラハムのとりなしの必死さが刻み込まれています。
一言でまとめたり、何かをはしょったりすることができない。その口からでる一言一言がまさに命がけのものであった、ということです。
 アブラハムの命がけの態度は、どこから生まれているのでしょうか。そりゃ、信仰からさ、と言うのは簡単です。
ではその信仰を具体的なことばで言い表すと何か。それは、彼は、自分の無力さを知っているということに尽きます。
アブラハムは、自分も、ソドムの人々も、すべての人間が神の前にまったく無力であることを知っていました。
神の正しさに照らすならば、罪に汚れたソドムの町は、神の手で滅ぼされることに何の言い訳もできません。
しかし無力であるからこそ、アブラハムは命がけでソドムのためにとりなします。じつは祈りの力というのは、無力からこそ生まれます。
私たちは何もできない。自分の性格を努力して変えることもできないし、わずかな時間、罪から離れて生きるということさえもできない。
自分が無力だからこそ、全能なる神にしがみつきます。祈ることしかできません。しかしだからこそ、いのちがけで祈る。
それがアブラハムの証ししている信仰です。
 私たちクリスチャンは、神以外に逃げ道を焼き捨ててしまった人々です。
世の人々は、クリスチャンは神に逃げ込んで努力をしないと批判します。しかしむしろ私たちは神以外に何に対しても逃げ込むことをしない。
たとえそれが努力だとか人との絆だとかいう心地よい言葉であったとしても。
自分がとことん無力な者であることを知っている。しかしだからこそ、神にしがみつく。
それが私たちの祈りであり、アブラハムが神の前で表した、いのちがけでソドムの人々のためにとりなした姿です。続きを読む
posted by 近 at 22:48 | Comment(0) | 2017年のメッセージ