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2017.12.24「想像を超えた贈り物」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今年、樹齢150年のアスナロを世界最大のクリスマスツリーとして神戸港そばに移設するというイベントがあったそうです。
ところが企画に色々とアラが目立ち、ネットやマスコミからは批判を受けました。
のべ140万人が物珍しさに見に来たそうですが、クリスマス前の一ヶ月だけの期間限定。
お役御免となったツリーは、とりあえず材木に加工したものの神社の鳥居くらいしか使い道が決まっていないそうです。
結局、神戸市開港150周年記念事業とか震災犠牲者への鎮魂とかいう割にはただのお祭りで終わってしまった印象です。
クリスマスツリーをなぜ神社の鳥居に?「樹齢150年→神聖な木→神聖といえば神社→鳥居にGo!」という図式なのでしょうか。
震災への鎮魂とするならば、期間限定で見世物にするのではなく、町を見下ろせるような場所に移植すればよかったのに。
いや、今からでも遅くない、一年間乾燥させたうえ、
全国のキリスト教会の会堂建築に無償で供与すべきだ!クリスマスツリーだけに。

今から50年前、当時の新潟市は新潟港開港100周年記念事業の一環として、敬和学園高校に広大な土地を供与しました。
「社会の礎は教育にあり」という、長岡藩の米百俵に通ずる明晰な視点を新潟市のエライ人たちも持っていたわけですね。
所詮切り倒されてしまうツリーは、「開港記念事業」と呼ぶには将来への視点があまりにも心許ないように思われます。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』2章1-20節 


1.
 クリスマスが近づくと、ほしいものを紙に書いて父親に渡すのが、昔の我が家での決まりでした。
なんでも、うちの父とサンタクロースは昔からの知り合いだそうで、ほしいものを父に言えば必ずサンタさんに伝わるのだそうです。
ただほしいものを紙に書いて渡しても、クリスマスの翌日に枕元にあったのは、ホシカッタノハコレジャナイとため息をつくものばかりでした。
小学校も学年が上がると、さすがにプレゼントは父が選んでいるのだと気づきましたが、あえて私らきょうだいは気づかないふりをしていました。
普段は無口で仏頂面をしている父親が、クリスマスの翌日だけは、ご機嫌だったからです。
父の姿から、人はもらうのもうれしいけれど、じつはあげるほうはもっとうれしいのではないかと思うことがあります。
贈りものには心があります。たとえ贈るのはものであったとしても、それを通して喜んでもらいたいという心がこもっています。
そして神様もまた、すべての人の笑顔を思い浮かべながら、とっておきのプレゼントをこの世に贈ってくださいました。
それが、飼い葉おけに寝かされたみどりご、イエス・キリストです。8節をお読みします。
「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた」。
おそらくこの羊飼いたちは、羊の所有者ではなく、雇われた人々であっただろうと言われます。
当時の羊飼いは、生活も貧しく、身分の低い者としてみなされていました。
そのうえ、預けられたひつじが狼にでも襲われることがあれば、命を賭けてその耳だけでも取り返すことを求められていました。
彼らは、贈りものなどとはまったく無縁な人々でした。しかし神は、この羊飼いたちに真っ先にプレゼントの知らせを持ってきたのです。
9節をお読みします。「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた」。
主の使い、そして真っ白に輝く、主の栄光は、暗闇の生活に慣れた彼らの目にはあまりにも眩しすぎました。
ひたすら恐れ、戸惑う彼らの耳に、ただ静かな、そして優しい声が聞こえてきます。そしてそれは、彼らにとって信じられない知らせでした。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」。

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posted by 近 at 09:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2017年のメッセージ

2017.12.17「正しい人にも福音を!」

murakami_Xmas-001.jpg こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 村上に新会堂が完成しましたので、市内にクリスマスの案内チラシを配ります。
 カットは、実際の会堂をモチーフに、イラストレーターのまるもりおさんが書いてくださいました。
 「冬の新潟らしく厚い雲と雪がこんこんと降る中にも、雲の切れ間から太陽が出て
 教会を照らしている、という意味を添えた」とのこと。私も色合いが気に入っています。
 実際には鉛色の空が広がることの多い村上(新潟)ですが、
 ここに来た人たちが希望を感じ取っていただけるような教会を目指していきたいですね。
 23日に市内3千戸に配布する予定です。ぎりぎりになってしまいましたが、お祈りください。
 週報はこちらです。

 聖書箇所 『マタイの福音書』1章18-25節 


1.
 「あなたは、いちばん信頼していた人に裏切られたことがありますか?」
そんな質問を、若い女性の読者が多い、ある雑誌の編集部がアンケートをとってみたところ、半数近い読者がはいと答えたそうです。
若い女性向けですから、恋人から裏切られることが多いのかと思ったら、信頼していた友人から裏切られた経験が大半でした。
恋人に対しては、はじめから信頼していない、と答えた人もいたとか。それもまた現代のドライな交際でしょうか。少し悲しくなります。
ヨセフは、婚約者であるマリヤに、裏切られたかもしれないという現実の中で苦しみます。聖書は18節でこう記しています。
「マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」。
聖霊によって身重になったことがわかった、とありますが、それは後でヨセフが夢で御使いに伝えられたからわかったことです。
最初のうち、わかっていたのは、ただマリヤのお腹が日増しに大きくなっていく、という現実だけです。
ヨセフの目の前に起きていたのは、許嫁であるマリヤが、まちがいなく自分以外の誰かの子を身ごもっているということでした。
 当時の社会では、婚約は結婚とほとんど同じことでした。婚約破棄で簡単に済む事柄ではありません。
いったい誰の子なのか。ヨセフは悩み、傷つき、苦しんだことでしょう。
自分に対するマリヤのまなざし、握りしめた手のぬくもり、将来を語り合った日々。たわいもない会話を積み重ねた、幸せな時間。
それらはすべて真実を隠した偽りだったのか。いや、偽りじゃない。偽りじゃないはずだ。だがマリヤのふくらんだお腹は、彼を苦しめます。
 ヨセフの前には、自分とマリヤの関係を清算するために、二つの選択肢が握られていました。
ひとつは、当時の律法の決まりに従い、マリヤを石打ちの刑にするために当局に引き渡すこと。
そしてもうひとつは、マリヤに離縁状を渡して、まったく無関係な二人として歩んでいくことです。
いずれにしても、彼にはマリヤを失う道しか残されていませんでした。
もしあなたがヨセフなら、どちらの道を選ぶでしょうか。
信じていた者にいつのまにか裏切られていた。目の前の現実がそう語っているその時に、それでも「正しい人」でいられるでしょうか。
自分を裏切った婚約者を、文字通り心の底から赦すことができるでしょうか。

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posted by 近 at 20:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2017年のメッセージ

2017.12.10「まことの恐れを抱いて」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
遅ればせながら、恒例のクリスマスチラシをアップします。比較的重いPDFファイル(2MB)なのでご注意ください。
2017xmas-001.jpg2017xmas-002.jpg
今年は地元に6千枚程度、新聞折込をします。たくさん来てくれたら良いですね。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』1章26-38節 

1.
 私の家には物心ついた時から仏壇や神棚がありました。それらにご飯を運んだり、水を取り替えたりすることは私の仕事でした。
毎年秋には近くの神社で祭りがありました。
長い階段を上りきると、大中小の社が三つあって、それぞれに五円、十円、五十円、お賽銭を入れることを決まりにしていました。
総額65円でも、こどもが入れるお賽銭としては十分だろうと、子供心に考えていました。神様もきっと喜んでいるはずです。
お盆には茄子で馬を作り、夕方には浴衣を着てお寺に行き、お墓に線香とお花を供えました。ご先祖様も喜んでいるはずです。
これが99%の日本人の姿でしょう。
仏壇、神棚はもとより、神社やお寺も、怖いとか恐ろしいとか思ったことは一度もありません。

 しかし高校に入り、生まれて初めてキリスト教会に行ったときに、ここは怖いと思いました。
教会の牧師先生や信徒の方たちに怖さを感じたのではありません。
教会が初めての私にも親切で、何もわからない私の隣に座り、聖書を開いてくれたり、ことばをかけてくれました。
怖いと思ったのは、人でも、教会の雰囲気でもありません。ことばにうまく説明することはできませんが、恐ろしさを感じました。
今振り返ってみると、その恐ろしさというものの正体は、目には見えないが確かに教会におられる神そのものに対してでした。
もちろん生まれて初めて教会に行って、そこに聖なるものがおわしますなんてことがわかるはずはありません。
しかし、私が今まで体験してきたもの、私が知っているものとはまったく異質な何かが教会にはいるということははっきりと感じました。

 マリヤに対して御使いは開口一番「おめでとう、恵まれた方」と告げた後、今度は「こわがることはない」と呼びかけます。
マリヤは何をこわがっていたのでしょうか。
「何のあいさつかと考え込んでいた」ということばからは、マリヤの恐れはあまり伝わってきません。
しかしマリヤにかぎらず、すべての人間は聖なる方に近づく、あるいは聖なる方のほうから近づかれるとき、恐れが起こります。
なぜなら、すべての人間は罪人だからです。罪のない、まったく聖なる方に対して、罪人は恐れを抱かずにはいられません。
罪とは聖なる方、つまりまことの神がわからなくなることです。だから人は本当に聖なるものに触れたとき、恐れを抱きます。
西行法師が伊勢神宮を訪れたとき、「どなたかがおはしますかは知らねどもただありがたさに涙流るる」と歌いました。
これが日本人の宗教観だと言われます。しかし本当に聖なるものに触れたとき、人はありがたさどころか恐れを抱くのです。
生まれつきまことの神についてまったく知らない、すべての人間は、本能的に近づくのを避けようとするからです。

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posted by 近 at 22:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2017年のメッセージ

2017.12.3「希望は目に見えない」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『イザヤ書』9章1-7節 

1.
 1節をお読みします。
「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」
ここに挙げられている地名、ゼブルン、ナフタリ、ガリラヤといった町々は、イザヤがこの言葉を語った頃、すでに滅んでいました。
正確に言うと、町は残っていましたが、そこに住んでいた人々はアッシリヤ帝国という侵略者によって捕らえられ、外国へ連れて行かれました。
代わりにこれらの町々には、やはりアッシリヤに征服された外国の民が強制的に移住させられてきたのです。
さらにアッシリヤの暴挙は、それにとどまりません。
今度は、その連れてきた外国人たちを、移住を免れたわずかなイスラエル人たちと結婚させ、混血の人々を生み出しました。
これが、イザヤから700年後のイエス様の時代、ユダヤ人と対立していたサマリヤ人の先祖になります。
「はずかしめを受けた」とは、そのように民族の純血が犯されたという意味のことばです。
 しかしどんな重く苦しい暗やみが支配しているところであっても、神の御手が差し伸ばされないところはありません。
聖書を注意深く読んでいきましょう。1節後半では、異邦人のガリラヤは光栄を「受けた」。
2節では、やみの中を歩んでいた民は、大きな光を「見た」。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が「照った」。
「受けた」「見た」「照った」。これらは、すべて過去形、すなわち、すでに実現したこととして語られています。
 現実には、町は荒廃し、人々の混血が進み、イスラエル人としての誇りや希望はすべてが取り去られていました。
しかしイザヤの目には、彼らの上に神からの大きな、暖かい光が差し込んでいく光景が、すでに起こったこととして鮮やかに映っているのです。
これこそ、私たちがどんなに暗い世相や現実の中に生きていたとしても、決して勇気を失うことがない秘訣です。

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posted by 近 at 14:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 2017年のメッセージ