「礼拝説教は毎週、伝道メッセージ」という教会もありますが、私の知る限りでは「伝道メッセージは月一回」というところが多いようです。
もちろん毎回の説教の中にも求道者の方に向けた伝道的要素は盛り込みますが、未信者に特化したメッセージは月一回、ということです。
同盟教団の統計から分析すると、礼拝に出席している信徒のうち祈祷会にも出席している方は、どこも全体の3割前後のようです。
つまり逆から言えば、信徒の7割はもっぱら礼拝説教だけでしか養われていないという過酷な現実があります。
そのために牧師は当然、祈祷会へ出席してそこでみことばを学ぶこと、また家庭礼拝やディボーションの確立を呼びかけます。
そして7割の信徒にとって生命線となる礼拝説教は、求道者よりも信徒を訓練することが主なテーマとなるのは自然なことです。
しかしそうなると求道者の方にとって礼拝説教は難しいということもあり、多くの教会で月一回は「伝道礼拝」を行っています。
豊栄でも普段は信徒向けの説教、第4週だけ「伝道礼拝」と名づけて「未信者の家族、友人を積極的に誘いましょう」と呼びかけていました。
しかし元教団理事長、岡村又男先生があるところでこんな趣旨のことを語っておられました。
「およそ伝道的でない礼拝はない・・・信徒が集まり礼拝をささげる姿そのものが伝道なのだ。」
なるほど。さすがマタオ(敬称略)。礼拝のアタマにあえて「伝道」とか付け加える必要はないってことっスね。
ということで数年前、「伝道礼拝」を「賛美礼拝」と改称し、その週は讃美歌・聖歌ではなく青年会主導でワーシップソングを導入しました。
ところが今度は「賛美礼拝というネーミングだと、ふだんは賛美していないのかということになる」という容赦ないツッコミが。
そこで現在は「求道者歓迎礼拝」と呼んでいます。が、「ふだんは求道者を歓迎していないのか」とツッコまれないか心配です。
そんなわけで今回は伝道メッセージでした。でも読み返してみると終盤、キリストの滋味が欠けていました。何年経っても訓練が必要ですね。
週報はこちらです。
聖書箇所 『イザヤ書』44章9-22節
1.
私の卒業した小学校、平成の大合併でもう廃校になりましたが、
校門から正面玄関まで、細い道が100mくらい続いていて、道の両脇にあるお店に囲まれているような作りになっていました。
その店のひとつに、なんたら石材店というのがあって、学校から帰るときに、オヤジが一生懸命石を削っている様子などが見えました。
そのオヤジも飲んでいないときにはとても気のいい人でして、よくきらきらした石材のかけらなんかを私たちにくれたものです。
ある日、その店の前に1mくらいの石造りの観音像が飾られていました。
子どもの目から見てもよくできていましたが、2階の教室からはその店の裏庭が丸見えで、そこには失敗した観音様がいくつも転がっていました。
子供心に感じたのは、オヤジのノミの当て方ひとつで、石が仏像にもなればごみにもなるんだなということでした。
でもその鍵を握っている当のオヤジは、どう見ても石に魂を宿すことのできるような人には見えませんでした。
今のは40年も前の私の経験ですが、約2700年前、すでに預言者イザヤはこう語っています。
だれがなんの役にも立たない偶像を造るのか。腹がへれば力が衰え、水を飲まなければ疲れはててしまう鉄細工人がつくり、彫刻師は線を引き、鉛筆で輪郭をとり、カンナで削り、コンパスでえがき、人の形につくり、家の中に安置する。人は木の一部をとってたき木として身を暖め、「ああ、あたたまった、熱くなった」といい、またパンを焼き、肉を煮て食べ、その残りで神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って「あなたは私の神だ、わたしを救え」と言う。ある人たちはこういうでしょう。仏壇メーカーの職人たちがどんな人でも、霊験あらたかなお坊さんが魂を入れるから、ご利益がある、と。
しかしそもそも、木や石や金属に魂が入るでしょうか。
どの教会にも、会堂の壁には木や金属の十字架がかかっていますが、その十字架の中にイエス様がおられると聞いたことがありません。
神は木や石や金属には宿りません。物質に魂が宿る例はただひとつ、人間の中に神が住んでくださることだけです。
もし私たちがまことの神を知りたいのであれば、位牌、仏壇、仏像、神木、物質に過ぎないものに神や仏や魂が宿るということの過ちに、
そしてありがたくこれを拝んでもそれはまことの神様を悲しませるだけだということに気づかなければなりません。
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