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2018.2.11「何度でも」(ルカ5:1-11)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
披露宴の定番曲、チェリッシュの「てんとう虫のサンバ」。「森の小さな教会で結婚式を挙げました」という、そうアレです。20110719192602efa.jpg
「森」を「村」と間違えている人が多いらしく、旧ブログ「村の小さな教会」はアクセス数だけは追い風でした。
ところが「豊栄の風」に変えてからアクセスが激減。「か、風が止まった・・・」(「ナウシカ」終盤の大ババ風に→)
 しかしじつはこれも想定内。「村の小さな教会」。豊栄から村上に活動の場所を移して復活です。
春から来られる新任の先生がブログを引き継いでくださるかはわかりませんが、豊栄以上に村上も応援してください。
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山頂にある村上城址まで777mは適当につけたのではなく、Google Mapなどを駆使して算出しています。
登山口までだいたい400m、山の高さがだいたい130mなので実距離をだいたい3倍として390m、若干の誤差を加えてだいたい777m。
だいたいばかりですね。興味のある方は実際に登って測ってみてください。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』5章1-11節 

1.
 この聖書箇所から「人生は出会いで決まる」というタイトルで、ある牧師の説教を聞いたことがあります。
神との出会いによって人生が変えられたクリスチャンたちの証しも交えた素晴らしい説教でしたが、ある点で違和感をおぼえました。
それは、まるでペテロがこのときイエス様に初めて出会ったかのような印象を与えている説教だったからです。
しかし新約聖書に含まれている、四つの福音書を並べてみると、ペテロたちはすでにこのとき、キリストの弟子として知られていました。
イエス様はまずペテロとアンデレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟、その他何人かの者を弟子として選びました。
そしてカペナウムの町を中心に、ガリラヤと呼ばれる地方をその弟子たちといっしょにまわりながら、神の国を宣べ伝えていました。
今日の聖書箇所は、時間で言えばその後にあたります。なぜか弟子たちはまた漁師に戻っているのです。
決して弟子の生活がいやになって漁師に戻っていたというような深読みをすべきではありません。
ただ、彼らは弟子として網を捨てたつもりではあっても、完全に捨てることができていなかった。
弟子としてイエス様に従いたいと願いながらも、家族のことを考えたときに、すべてをゆだねることができなかった。
 同じような経験を、私たちもしているはずです。
確かに人生は出会いで決まります。しかしひとつの出会いで人生が変わるほど、私たちの人生は単純ではありません。
一つひとつの出会いを積み重ねて、人生は軌道修正されていきます。ペテロたちは、まさにそのような経験をしていたのです。
私たちがイエス様の弟子になるとは、どういうことでしょうか。現代で言えば、牧師や宣教師になるということが弟子という意味ではありません。
弟子とは、生活の中心をひたすらイエス・キリストに置く人々のことです。
これも現代で言えば、山奥にこもって自給自足の生活をせよということではありません。
今しているそのことは、イエス・キリストを喜ばせるためにしているかと問われたら躊躇なく、はいと答えられるならば、その人はキリストの弟子です。
ペテロたちはまだそうではありませんでした。魚が捕れないという状況の中で、彼らの関心はまだ家族の生活の上に残っていました。
しかしイエス様は一度弟子として召した者は、そのまま捨て置くということはありません。
イエス様との出会いを積み重ねながら、彼らは少しずつ、まことの弟子とされていくのです。そして私たちも。

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posted by 近 at 14:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ