最近の記事

2018.3.25「選択」(ルカ23:32-43)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
更新が遅くなって申し訳ありません。イエス様が十字架にかかられた受難週・・・・どうして年度末と重なるの。忙しすぎます。
逆に考えると、当時のユダヤの宗教指導者たちが過越の前にイエス様の処刑をねじ込もうとした姿は、
様々な仕事を、年度を繰り越さないように淡々と処理していく私たちの姿にも重なるわけで、
イエス様をそこまで貶めたのは自分自身の罪であるということが迫ってきます。とくに今年の場合は
いのちと誠実を尽くすべき事柄を、忙しさと年度末を理由に適当に済ませてしまったことはなかったか、心の中を探られているところです。
 さて、そんなわけで、いよいよ村上教会の1年9ヶ月に及んだ代務も引き継ぎを終え、新任の面f先生へゆだねられました。
名前、なんて読むの。そう思った方は下の画像をクリック!ニュースレターも最新の最終版を含めて全部読めます。
mura_top.png
しばらくトップを飾っていた献金趣意書も向こうのブログへ移転しました。募集期間の前半を終え、ちょうど目標額の半分に達しました。
こうして見ると当教会の旧ブログ「村の小さな教会」のテイストをかなり残していますね。だって作った人が同じですもの。
どうぞ姉妹ブログをよろしく。勝手に姉妹にしてしまいました。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』23章32-43節 

序.
 今日から、キリスト教の暦では受難週に入ります。
受難週というのは、イエス・キリストの地上での生涯の最後の一週間をあらわします。
その中でも、イエス様が十字架にかけられた日である金曜日は、英語ではグッド・フライデーと呼ばれています。
日本では受難日、苦難を受けた日と書く同じ日が、アメリカではグッド・フライデー、よい金曜日と呼ばれる。面白いですね。
日本人の感覚でいうと、救い主が十字架につけられた金曜日ですもの、むしろバッド・フライデーではないでしょうか。でもグッド・フライデー。
グッドとかバッドというのは人間の受け取り方で変わります。しかし神のご計画においては、グッドもバッドもありません。
「禍福はあざなえる縄のごとし」ということわざがあります。不幸や幸せは、撚り合わせた縄のようにかわりばんこにやってくるという意味です。
しかし実のところ、不幸と幸せは待っていればかわりばんこにやってくるということではありません。
私たち自身が、自分自身を、人生をどのようなものとして見ているか。
その態度が、不幸を幸いへの下ごしらえと受け止めることもできるし、せっかくの幸いに気づかず、不幸のまま終わってしまうこともあります。
ではどうすれば、不幸を幸いに変えることができるでしょうか。
神を中心とする正しい人生観を持つこと、そしてそのみことばの基準に基づいて、正しい選択を行うことです。

1.
 今日、私たちは三本の十字架を見つめています。しかしちょっと考えてみてください。なぜ三本なのでしょうか。
ローマ帝国は皇帝による独裁とはいえ、曲がりなりにも法治国家としての形を取っていました。
ローマの法律に限りませんが、同じ日、同じ場所、同じ方法による刑罰を受けるのは、同じ罪を犯した者に限られます。
つまり、イエスがユダヤ人の告発どおりに神を冒とくした罪で十字架につけられるとすれば、
同じ死刑囚とはいえ、強盗殺人を犯した者たちといっしょに処刑するということは、本来ローマの法律ではあり得ないことでした。
しかし歴史を治めておられる神は、このとき、人の作った決まりを越えて、イエスと他のふたりを一緒に十字架につけたのです。
 なぜでしょうか。色々な理由が考えられます。
たとえば、神の子が強盗たちと一緒に処刑されるという耐えがたい恥を背負うほどに、イエスは罪人のために命を捨てられたことを示すため。
あるいは、このひとりの強盗が回心し救われるために、この日イエスは彼らと共に十字架へと向かわれたということかもしれません。
これは取税人ザアカイが救われるために、イエスがわざわざエリコへと向かわれたということに似ています。
しかし、三本の十字架が立っている情景を思い描きながら、もっと大胆に思い巡らしてみましょう。
イエスのかけられた真ん中の十字架を中心として、右に十字架、左にも十字架。でも別にイエスが真ん中じゃなくてもよかったのではないか。
いや、罪人のひとりとして、とことんまで恥をすする人生を選ばれたならば、中央よりもむしろ端の十字架のほうがふさわしいような気さえします。
しかしイエスを真ん中に、一人は右に、一人は左に。
片方の十字架につけられた強盗は信じて救われ、もう片方の十字架につけられた強盗は信じず嘲り続けました。
イエスを中心として、右に、左に。その鮮烈なイメージの中で、永遠のいのちと永遠の滅びがはっきりと分けられています。
三本の十字架は、選択という二文字を私たちに呼びかけています
イエスの十字架を前にし、私たちは右を選ぶか、左を選ぶか。いのちを選ぶか、死を選ぶか。信じるほうを選ぶか、信じないほうを選ぶか。
イエス様は、たとえ話の中で数え切れないくらい、二つからひとつを選ぶことについて語っておられます。
広い門、狭い門。岩の上に建てた家、砂の上に建てた家。神に仕えるか、富に仕えるか。この世の水と、いのちの水。
しかしこの三本の十字架ほど、数々の二者択一の話の中で、最も切迫した箇所はありません。
三本の十字架は、私たちが真ん中の十字架を見つめつつ、どちらの十字架を選ぶべきかということを呼びかけているのです。

続きを読む
posted by 近 at 16:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.3.18「祈りのチカラ」(マタイ26:36-46)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週の水〜木は、横浜の某コンベンションセンターにてわが同盟教団の総会が開催されるので行ってまいります。
帰ってくるとヘロヘロになって、そのまま寝込んでしまうのが常ですので、今のうちに急いで更新しておきます。
教団総会でようやく人事発表です。それが終わってようやく村上の新任教師もオープンにできます。
・・・長かった・・・今だから言いますが、ストレスでなんとかディスペプシアとかいう病気にもなりました。もう直ったけど。兼牧って大変ですね。
というわけで来週は村上で歓送会です。ボクの。自分で自分の歓送会を言い出すのも勇気がいりましたが。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』26章36-46節 

序.
 「お祈りメール」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
その温かいイメージとは裏腹に、企業の不採用通知を指す言葉です。
不採用を伝えるメールの最後に、「○○様の今後のご活躍をお祈りしております」とまとめているので、「お祈りメール」と呼ぶそうです。
しかしクリスチャンが「お祈りメール」と聞けば、同じ兄弟姉妹から「祈っています」という励ましの言葉を思い浮かべると思います。
「お祈りしています」というこの一つの言葉は、この世の人々とクリスチャンとのあいだではまったく受け取り方が違うのですね。
この世の人々にとって、「お祈り」とは気休めか、悪い知らせをオブラートに包むような意味でしかありません。
しかしクリスチャンは、文字通り働く、祈りの力を信じています。
祈りの力を信じ、実際に体験することができるのは、クリスチャンの特権です。
私たちはなぜ「祈ってください」と頼むのか。あるいは他の人に対して「祈っています」と励ますのか。
それは、「祈り」がこの世の現実を変える神の力である、と本気で信じているからです。
これは世の人々にとっては愚かに見えます。しかし私たちにとっては神の約束です。
求道者のために、別帳会員のために、他の教会のために、隣町の一軒一軒のために、私たちは名前を挙げて祈っています。
神は、私たちの祈りを取るにたりないものとは決して言われません。
どんな小さな祈りも、神の御前でかぐわしい香としておぼえられています。
そしてイエス・キリストがゲツセマネの園で弟子たちに語った言葉からも、私たちは祈りの力を学ぶことができるのです。

1.
 エルサレム郊外にあるゲツセマネの園で、イエス・キリストは弟子たちに言いました。
36節、「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
そしてイエスは弟子たちの中からペテロ、ヨハネ、ヤコブの三名を選び、彼らを連れて園の奥に入っていかれました。
この三人は、12人の直弟子たちの中で自分たちだけが選ばれたことに誇らしく思ったでしょうか。
いいえ、彼らは決して見たくはなかった、イエス様の姿を見るハメになりました。
まるで神の子にふさわしくない、弱々しい言葉をはくイエス様の姿を見ることになりました。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と。
 今、目の前にいるイエス・キリストは、彼らの知っているイエスとは明らかに違いました。
パリサイ人に対しても一歩も引くことのなかった神の御子が、まるでおびえた子犬のように悲しみもだえられています。
主は三人に懇願します。「ここを離れないでくれ。わたしといっしょに目をさましていてくれ」。
日本語の翻訳では味気ない命令口調に聞こえるかもしれません。
しかしここで主が語られている、弟子たちにすがりつくイエスの姿から目をそむけてはなりません。
私をひとりにしないでくれ。わたしと一緒に、目をさまして祈ってくれ。
そのようなイエスの姿につまずきを覚える人もいるかもしれません。
だとしたら、その同じつまずきを、この三人の弟子たちも感じていたことは確かなことです。

続きを読む
posted by 近 at 20:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.3.11「信じ続けること」(ルカ8:40-42,49-56)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
もうあと一回になりましたが、今年度は二週間に一回、村上教会の奉仕がある日は教会に泊まって月曜日に帰ってきていました。
年内はよかったのですが、1〜2月はとにかく大雪。一晩泊まっただけで車が埋もれているということもざらでした。
しかし2月も終わりになり、ようやく春の気配。教会の玄関から見える光景を撮影する余裕も出てきました。
狙って撮ったわけではないのですが、たまたまアングルが定点観測みたいになったのでご紹介します。
DSC01157.jpgDSC01172.jpg
左が2/25(日)、右が二週間後の3/11(日)。2月末の雪景色の方が、陽光が差していて明るい感じがします。
いよいよ4月からは、主任牧師を迎えての本格的なスタートです。お祈りください。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』8章40-42,49-56節 

1.
 41節、「するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである」。
ここで私たちが忘れてはならないのは、ヤイロにとってイエス・キリストに助けを求めることは文字通り命がけの行為であった、ということです。
ヤイロは会堂管理者でありました。
そしていわばこのとき、ヤイロの上司にあたるエルサレムの祭司長や律法学者たちはイエスを危険人物と見なしていました。
ヤイロがイエスに助けを求めた姿は、すぐに数百キロ離れたエルサレムにまで伝えられるでしょう。
そしてそれによってヤイロが地位、財産、人間関係、多くのものを失うことになるのは間違いありません。
しかし彼にとって、娘の命はそれらすべてをかき集めても足りない、かけがえのないものでした。
そのために彼は人々が注視する中、人波をかきわけてイエスの前に出てきたのです。どうか私の娘を助けてください、と。

 長血の女性の信仰も確かにすばらしいものでした。しかし彼女には逃げ道がありました。
イエスの着物にさわり、そのまま人波に紛れて何事もなかったかのようにその場を去ることができました。
しかしヤイロはそうではない。彼は自分の逃げ道を自ら塞いでイエスのもとにやって来ました。
娘がいやされても、いやされなくても、彼の取った行動はエルサレムの祭司長たちの怒りを買うでしょう。
しかしそれでも彼はイエスの足もとにひれ伏した。ここに、すべての人にも当てはまる真理があります。
もしイエス・キリストの救いを得たいと思うなら、安全なところに隠れたままではならない、イエスの前に出てこなければならないのです。
長血の女性も、イエスの前に出て、真実を打ち明けたときに、病だけでなくたましいの救いをも得ました。
ヤイロもまた、イエスの前にひれ伏し、自分のすべてを明らかにしたところから救いの道が開けていったのです。
もしあなたがイエス・キリストから永遠のいのちを受け取りたいのなら、まず立ち上がらなければなりません。

続きを読む
posted by 近 at 21:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.3.4「逃げるは恥への逆戻り」(ルカ8:40-48)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教タイトル、しばらく前に「恋ダンス」で一世を風靡した『逃げるは恥だが役に立つ』(逃げ恥)のパクリオマージュです。
といっても、ドラマも原作も一回も見たことはないんですけどね。私にとってガッキーは永遠に新垣勉です。オ〜ソ〜レミ〜ヨ〜

 それはさておき、村上教会はいよいよ後任牧師、確定です。双方の教会総会で承認されました。今週もう荷物が届きます。
とはいえ理事会の最終承認、3月下旬の教団総会での人事発表までは名前を出せませんが、お祈りいただきありがとうございました。
1年9ヶ月の代務(兼牧)、あっという間でしたが、たくさんのことを学ばせていただきました。会堂建築で寿命が十年縮まったわ
献堂式はガッキー(ツトムのほうね)を呼びたいところですが、建築費で積立を使い果たしてしまい、お金が足りません。
でも新しい先生はテノールこそガッキーに及びませんが、クラリネットの腕前はなかなかですよ。あれ、これでバレちゃったかな。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』8章40-48節 

1.
 今日の聖書箇所は、イエス様に近づいたふたりの人物が登場します。
ひとりは会堂管理者ヤイロ、そしてもうひとりは12年の間長血をわずらっていた女性です。
まことに対照的な二人です。ヤイロは社会的地位の高い会堂管理者でしたが、この女性はその病気ゆえに社会から隔離されていました。
ヤイロは娘が生まれてから12年間、父親として最も幸福な期間を過ごしましたが、この女性はその12年間、長血で苦しみ続けました。
ヤイロは正面からイエス様の足もとにひれ伏しましたが、女性は後ろからイエス様の背後に近づき、着物のふさにさわりました。
しかしここまで対照的なふたりですが、ひとつ共通しているのは、苦しみの中でひたすらイエス様に助けを求めた、ということです。
今日はこのふたりのうち、長血の女性の姿を学んでいきたいと願います。人生を変えるのに必要なのは、時間でもお金でもありません。
イエス様だけが私を助けることのできるという信仰に裏打ちされた、心からの叫び、ただ一つです。

 長血の病というのは、血の漏出が止まらない、一種の婦人病です。しかし苦しみは、その痛みそのものではありません。
旧約聖書の教えでは、長血の病にかかった女性は汚れているとみなされました。
彼女に触れる人はみな汚れ、人前に出ること、公の礼拝に加わることも許されませんでした。
この病にかかった者は、神から切り離され、のろわれた者とみなされる、そんな病であったのです。
しかし彼女は、危険を冒して群衆の中に紛れ込みました。ただ、イエス様に触る、そのことだけのために。
それは命がけです。もし誰かに自分のことを気づかれたならば、いったいどのような罰を受けるかわかりません。
医者からも見放された私。社会からも隔離された私。公の礼拝からも締め出された私。
だがそんな私でも、イエス様の着物に触ることでもできれば、きっと直る。救われる。解放される。

 彼女は、確かな信仰を持っていました。だからこそイエス様も、この後で「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。
しかし、着物にでも触れれば、という、一念岩をも通すという信仰も、その陰には保険のような態度が隠れていることを無視できません。
後ろに近寄って着物のふさにそっと触ったのは、どうしてでしょうか。47節のことばがすべてを物語っています。
「女は、隠しきれないと知って」。隠そうとするのは後ろめたさがあったからでした。
イエス様を含め、もし誰かにとがめられそうになったときにはいつでも逃げることができるために、後ろからさわったのです。

続きを読む
posted by 近 at 22:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ