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第6回豊栄流茶会(新潟聖書学園バザー)

2018年4月30日(月・振替休日)、柏崎にあります新潟聖書学園のバザーに「第6回豊栄流茶会」を出店します。
ブログでは第1,2回目しか載せていませんが、サボっていただけで、茶会は毎年欠かさず参加しています。
開催はまだ先ですが、乞うご期待。 当日の模様は写真が届き次第、後日更新します。
ただしウチの茶会に出るとこうして写真を撮られてしまうので、事情のある方は近づかない方がいいカモよ
豊栄流茶会2018.jpg
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2018.4.22「われ、傍観者にあらず」(マタイ28:16-20)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
牧師=清貧というイメージを崩してしまうのが申し訳なくて、二年以上黙っていましたが、
当教会の説教は、NEX-EA50JHというハイビジョンカメラで撮影しています。備品じゃありません。牧師の私物です。
中古ですが、ティンデル聖書注解が全巻買えるくらい値が張りました(一冊も持っていません)。
清水の舞台から何度も飛び降りて、何かにぶつかって気を失ったあげく、夢の中にイエス様が出てきて何か言われました
NEX-EA50JH.jpg
Sonyのホームページからカタログ画像を拝借。実機は窓際に置きっぱなしなのでホコリだらけ、小キズだらけです

 しかし二年間で撮ったものといえば、説教録画くらい。いつも低ビットレートの設定で撮影していることに気づきました。
Youtubeにアップするのが目的なので、ハイビジョンで撮影しても変換に時間がかかるためです。
これでは猫にゴールド、豚にパール(ルー○柴風に)。実際に撮影しなければ、知識もつきません。個人伝道と同じですね。
というわけで、今回はちょっとがんばってハイビジョンで撮ってみました。毎秒24フレーム、ザ・プログレッシブ・シネマ・モード発動です。
説明書を見ながら書いていて自分でも意味がよくわかりませんが、映画っぽく撮れるそうです。
気持ち、いつもよりハイテンションです。もっともいつもテンション高いと言われますが。
説教もいつものようにまた怒っています。映画のタイトルは「四十分の怒れる男」にしました。みんな、見てくれよな。
 週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』28章16-20節 

序.
 神学生の頃、説教演習という授業で、この箇所から語ったことがあります。
「イエス様が地上で残された最後の言葉を聞きましょう」と前置きして語ったら、さっそく後で、指導教師から注意されました。
「イエス様の最後の言葉はオリーブ山、ここはガリラヤの山。聖書をよく読みましょう」。慌てて聖書を開いてみたらそのとおりでした。
イエス様が弟子たちの見守る中、天に昇られていった物語が、使徒の働き1章にありますが、それはエルサレムの近くにあるオリーブ山。
それに対してこのマタイ28章は、エルサレムからはるか離れたガリラヤ地方の、どこかの山。紛らわしいので混同してしまったわけです。
 しかし今日の箇所がイエス様のお別れの言葉ではないとしても、私たちにとって一番大事な使命を託していることは間違いありません。
しかも興味深いのは、11人の弟子たちのうち、「ある者は疑った」とはっきり書いてあることです。
11人の弟子みんなが、復活のイエスに出会っても一つの心になっていたというわけではありませんでした。
しかしイエス・キリストはそれでも構わないとばかりに弟子たちに近づいてきて、力強くこう言われます。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と。

1.
 何かを始めようとするとき、メンバーが一つの心になるというのは大切なことです。
しかし救い主イエス・キリストをこの世界に語っていく、ということに関する限り、私たちの一致よりも大切なことがあります。
それは、このイエス・キリストに与えられている「権威」だけを信頼して語っていく、ということです。
およそクリスチャンとして救われて、福音を伝えたくない、という人はいないでしょう。
福音を伝えたい、けれども語る力がない。勇気がない。機会がない。そういうなかで、なかなか伝えられないのではないでしょうか。
しかし、イエス様は言われます。あなた自身の力にすがって宣べ伝えるのではなく、ただわたし、イエス・キリストの権威のみにすがれ、と。
 自分の信仰は未熟だ、聖書の知識もない、口下手だ、人見知りが激しい、そういうことはまったく伝道に関係ない、ということです。
キリストは「天においても、地においても、わたしに一切の権威が与えられています」と言われました。「キリストに一切の権威」。
それは、このイエス・キリストを人々に伝えようとする者は、キリスト以外に一切の望みや期待を持たない、という意味です。
ただキリストにだけ期待します。
言葉のわかりやすさだとか、人当たりの良さだとか、そのようなものが伝道の成功失敗を決めるのではありません。
いや、そもそも伝道に成功・失敗はありません。もし成功があるとしたら、それは伝えたかどうかであって、信じたかどうかではありません。
信じるかどうかは、神の領分です。しかし人の領分は、伝えたかどうかです。伝えて、鼻で笑われても、それでよいのです。
 明治・大正期のキリスト教界の指導者で、ちょうど昭和元年になくなった、植村正久という牧師をご存じでしょうか。
彼の説教は「訥弁の能弁」と言われました。訥弁というのは、言葉がつかえたり、どもったりして、うまく伝えられないことです。
もちろん私も実際に聞いたことがあるわけではありませんが、聞き取りにくい説教であったのだろうと想像できます。
しかし植村の、その聞き取りにくい説教を通して、何千人という人々が罪を悔い改め、告白して、救われました。
それは、彼の説教が、訥弁と言われるほどの言葉のまずさを越えて、自分自身をさらけだし、
ただキリストの権威にのみ依存するものだったから、その欠けているところを満たしてくださる聖霊のみ力が働いたのです。
すべてのクリスチャンが植村のように偉大な業績を残せるわけではないし、残す必要もありません。
しかしこの人は救いを必要としていると思う人がそばにいたならば、ただキリストに望みをおきながら、彼のために、彼女のために祈る。
言葉をかける。時間をとって関わる。そして福音を何とかして伝える。それをイエス・キリストは信じるすべての者に願っておられます。

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posted by 近 at 22:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.4.15「信仰は無条件降伏」(ヨハネ20:19-31)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今さらで申し訳ないのですが、イースターの日、教会員有志がイースター・リースをささげてくださったのでご覧ください。
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力作ですね。私の方はというと、風邪をこじらせてしまって、今回はマスクをつけながらの説教です。
お聞き苦しいところがありましたら、ご容赦ください。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』20章19-31節 

序.
 いまどきの言葉に「キャラが立つ」という表現があります。
新年度が始まるこの時期、学校や会社では「今年うちに入ってきたやつはキャラが立っているなあ」というような使われ方をします。
「キャラ」というのは「キャラクター」の略ですが、日本語に訳すと「個性」とでもなるのでしょうか、
転じて「キャラが立っている」というのは、個性的だからおおぜい似たようなのがいるなかでもおぼえやすいという意味になるようです。
この表現を借りると、トマスは、イエスの12弟子の中でもペテロやイスカリオテのユダと並んで「キャラが立っている」と言えます。
英語辞書で「トマス」をひくと、「疑いやすい人」という説明が出てきます。
あわてんぼうのペテロ、裏切り者のユダと並んで、疑心暗鬼のトマス、イエスの12弟子の中での問題児3羽ガラスと言ったところでしょうか。
しかしトマスが登場する場面は決してここだけではありません。
このヨハネ福音書の中で、トマスのセリフはこの20章を合わせて全部で三回出て来ます。
それをひとつひとつひもといてみると、トマスが決してただの疑心暗鬼の、あまり親しくなりたくないタイプの人ではないということがわかります。

1.
 トマスの最初の言葉はヨハネ11章、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」。
かっこいいですね。熱心党員シモンなんかよりよっぽど熱いトマスの姿が描かれています。
二回目の言葉は、最後の晩餐でイエス様が長ーい説教を弟子たちにしていたときに質問した言葉。
「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう」。
ほとんどの弟子にとって、大学の哲学講座レベルの話に、トマスはついてきていました。
 以上のふたつのことばからわかるのは、トマスは情熱的な面と、理性的な面の両方を持っていた弟子であったということです。
しかしその情熱と理性が、この最後の場面では裏目に出ます。
25節後半「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」。
 このことばを、多くの人々はトマスの疑いやすい性格を表すものとして受け止めてきました。
しかし、この言葉は不信仰から出たものではあっても、疑いやすい性格を表しているわけではありません。
トマスはイエスが弟子たちの前に現れたとき、そこにいなかった。なぜ一人だけいなかったのでしょうか。
これがイエスが死んで三日目によみがえられた当日であったこと、そして彼らはユダヤ人の追跡を恐れて一つ所に隠れていたことを考えると、
彼だけがその場にいなかった理由は用事があったとかではなく、彼が意図的に弟子たちの交わりから離れていたと理解すべきです。
イエスがユダの裏切りによって群衆に捕らえられたとき、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。
その逃げる者たちの中にはこのトマスもいた。彼は逃げ隠れながら、何度も自分に叫んだことでしょう。
かつてはイエス様と一緒に死のうとまで言っていた自分がなぜ、どうして。
その深い心の傷はトマスの心をかたくなにし、残された弟子たちと共に励まし合うという思いもすべて拒絶してしまったのでしょう。

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posted by 近 at 17:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.4.8「教会とは何か」(第一コリント1:1-3)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
当教会では、今年の教会総会で将来の会堂建築を決議しました。これから教会員を対象に、会堂建築についての学びを始めます。
しかし会堂建築に関する参考書籍は決して多いとは言えません。今、私の手元にある本は、
田淵諭「教会堂建築−構想から献堂まで−」(新教出版社、2006年)
加藤常昭ほか「教会建築」(日本基督教団出版局、1985年)
長久清「教会と教会堂」(日本基督教団出版局、1991年)
手束正昭「信仰の表現としての教会建築」(キリスト新聞社、1990年)
くらいでしょうか。他にもいくつか建築関係の本がありますが、写真や図面ばかりであまり役に立ちません。
福音派からの教会建築に関する発信が待たれます。いのち○ことば社さんに期待です。
 上記の書籍の中で一番とっつきやすいは、200頁もあるのにほぼフルカラー!なんと豪勢な田淵諭氏の本でしょうか。
その「まえがき」にこんな言葉が書いてありましたので、紹介します。
教会堂の設計では建物を建てることに目がいきがちですが、それ以前に、教会堂建築を通して一人ひとりが「教会とは何か」ということを改めて考える機会を、主が与えてくださったということに大きな意味があります。
至言ですね。建つもよし、建たぬもよし、いずれにしても教会と信仰を見つめ直す、最善の機会になります。
今日の説教は、そんな思いを込めて準備したものでした。とはいえ求道者の方には難しかったかもしれません。反省。
期待していきたいと思います。会堂建築も、牧会も、人生も。週報はこちらです。

聖書箇所 『コリント人への手紙 第一』1章1-3節 

序.
 さる2月末の教会総会にて、将来の会堂建築を決議しました。あるクリスチャンの建築家がこのように言っています。
「会堂建設とは、建物を建てることではない。ひとり一人が「教会とは何か」ということを改めて考える機会を、主が与えてくださったのだ」と。
そういう意味では、私たちは「教会とは何か」ということについて、今までどれだけ考えたことがあったでしょうか。
そして私も考え込みます。今までどれだけ「教会とは何か」について語ってきただろうか、と。
これから一年間、この毎月第二週は、教会の来たるべき会堂建築のために、学び、分かち合い、祈る日とします。
礼拝でそのテーマに即した説教が語られたあと、礼拝後にはグループになって短く分かち合いをします。
そして昼食後はまたそれをもとにして分かち合いながら学びを深め、祈り、備えていきたいと願っています。
 さて、まず私たちは「教会とは何か」について、考えていきましょう。
「教会とは何か」ということを一番わかりやすく教えている聖書箇所はどこだろうかと考えたとき、今日の聖書箇所のほかにはないと思われます。
多くの人々は、教会と聞くと建物のほうを連想しますが、聖書が教えているのはそうではありません。2節をご覧ください。
「私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、
聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた」者たち、それこそが教会であるとパウロは言います。
この言葉の中から、教会について三つの大事なことを学びましょう。
第一に、教会とはイエス・キリストを救い主として信じ、その御名を呼び求めている人たちのことなのだ、ということ。
第二に、教会とは自分の教会だけではなく、世界じゅうの至る所でキリストの御名を呼び求めている、すべての人々を指しているということ。
そして第三に、キリストにあって聖なるものとされた人々のことなのだ、ということ。
「聖なるもの」とは神にささげられる聖なるいけにえとしてのクリスチャンを指します。教会は、自らを神にささげる者たちが集められたところです。

 定価5500円なのに、amazonでも残り一冊、16500円!間違えて購入した場合、責任は負えません。

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posted by 近 at 23:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.4.1「よみがえれ、わが内なるみことばよ」(ルカ24:1-12)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。イースターおめでとうございます。
ご近所に配るイースターエッグが余りまして、あとは牧師家で 処分 美味しく頂戴いたしました
急激な大量の卵摂取によるコレステロール値の上昇が心配です。これが十字架を背負うという生き方なのですね。うっぷ
 ところで、今回のメッセージの導入で「4/1とイースターが重なるのは62年ぶり、次は11年後」という話をしています。
いちいちカレンダーを調べたのかよ。暇だなあ。なんて思った人のために先に種明かしをいたしますと、
今橋朗『礼拝を豊かに』(日本基督教団出版局)の巻末に、なんと200年分のイースターの日程が掲載されているのです。
インターネットでもある程度検索はできますが、1900〜2099年までのイースターが一目瞭然なのは、アキラだけ。
なぜそんな長期にわたる一覧表を載せているのかは謎ですが、ありがとうアキラ先生。いくら長生きしても平気です。
ちなみに2099年のイースターは4/12です。ねっ、便利でしょ。週報はこちらです。

200年分のイースター一覧表を載せたいところですが、著作権侵害の恐れがありますので、本買ってください

聖書箇所 『ルカの福音書』24章1-12節 

序.
 イースターおめでとうございます。
先週は、イエス・キリストが十字架にかかる苦しみをおぼえる受難週でした。みなさんは先週をどのように過ごされたでしょうか。
とくに、今年は、3月の最後、いわゆる年度末と言われる一週間とこの受難週が重なってしまいました。
私に関して言えば、引き継ぎやら新年度の準備やらでばたばたしたなかで、今日のイースターを迎えてしまいました。
牧師になってから17回目のイースターになりますが、こんなに心の準備ができていないイースターは初めてです。
4/1という新年度の始まりに日曜日が来て、しかもそれがイースターという日はいったい何年ぶりなのだろう。
ふとそう考えて、カレンダーを調べてみました。じつに、同じような状況が起きた年は、1956年、62年ぶりのことでした。
こんなに忙しいのは初めてだわ、と思うわけです。牧師になるどころか、生まれてもいません。
しかし安心してはいけません。
前回から今年までは62年ぶりですが、次に4/1がイースターという日は、わずか11年後の2029年にやってきます。
次こそは、年度末という名の魔物に飲み込まれそうになっても、十分に心の備えをして4/1のイースターに臨みたいと、今から思わされます。

1.
 それにしても、カレンダーを調べながら思いました。
年度末なのは確かだが、それにしたってふだんから神さまと歩調を合わせて歩んでいけば、年度末のせいにしなくてもよいのに、と。
そうです。ほんとうは年度末なんていう魔物はいません。私自身の心と信仰のありようです。
今年のイースターが4/1にやってくることはずっと前からわかっていたのに、どうしてばたばたしているのか。
その答えも知っています。それは私の目が神のことよりも日常の生活のほうにばかり向いているからです。
ことあるごとにみことばに頼るよりも自分の判断に従って動いているから、みことばの恵みが生活の中からそぎ落とされているのです。
 今日の聖書箇所では、イエスさまに葬りの油を塗るために墓へと向かう女性たちが登場します。
このルカ福音書だけでなく、すべての福音書に描かれている光景です。
しかしその中でルカがとくに強調しているのは、「女たちはイエスのみことばを思い出した」という一文です。
確かに彼女たちはイエス様への愛を忘れていませんでした。信仰によって、命の危険を顧みず、墓へと向かいました。
しかし、その心のうちからは、みことばが抜けていたのです。
彼女たちの関心は、ほかの福音書で書かれているように、「あの墓の重い石の扉を、いったい誰が開けてくれるだろうか」ということだけでした。
あらかじめ彼女たちにイエス様自身がこう語っておられました。わたしは十字架にかけられたあと、必ず三日目によみがえる、と。
しかしその約束のことばが彼女たちの記憶の中からすっかり抜けていました。

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posted by 近 at 21:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ