こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
牧師=清貧というイメージを崩してしまうのが申し訳なくて、二年以上黙っていましたが、
当教会の説教は、NEX-EA50JHというハイビジョンカメラで撮影しています。備品じゃありません。牧師の私物です。
中古ですが、ティンデル聖書注解が全巻買えるくらい値が張りました(一冊も持っていません)。
清水の舞台から何度も飛び降りて、何かにぶつかって気を失ったあげく、夢の中にイエス様が出てきて何か言われました
Sonyのホームページからカタログ画像を拝借。実機は窓際に置きっぱなしなのでホコリだらけ、小キズだらけです しかし二年間で撮ったものといえば、説教録画くらい。いつも低ビットレートの設定で撮影していることに気づきました。
Youtubeにアップするのが目的なので、ハイビジョンで撮影しても変換に時間がかかるためです。
これでは猫にゴールド、豚にパール(ルー○柴風に)。実際に撮影しなければ、知識もつきません。個人伝道と同じですね。
というわけで、今回はちょっとがんばってハイビジョンで撮ってみました。
毎秒24フレーム、ザ・プログレッシブ・シネマ・モード発動です。
説明書を見ながら書いていて自分でも意味がよくわかりませんが、映画っぽく撮れるそうです。
気持ち、いつもよりハイテンションです。もっとも
いつもテンション高いと言われますが。
説教もいつものようにまた怒っています。映画のタイトルは「四十分の怒れる男」にしました。みんな、見てくれよな。
週報は
こちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』28章16-20節
16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
序.
神学生の頃、説教演習という授業で、この箇所から語ったことがあります。
「イエス様が地上で残された最後の言葉を聞きましょう」と前置きして語ったら、さっそく後で、指導教師から注意されました。
「イエス様の最後の言葉はオリーブ山、ここはガリラヤの山。聖書をよく読みましょう」。慌てて聖書を開いてみたらそのとおりでした。
イエス様が弟子たちの見守る中、天に昇られていった物語が、使徒の働き1章にありますが、それはエルサレムの近くにあるオリーブ山。
それに対してこのマタイ28章は、エルサレムからはるか離れたガリラヤ地方の、どこかの山。紛らわしいので混同してしまったわけです。
しかし今日の箇所がイエス様のお別れの言葉ではないとしても、私たちにとって一番大事な使命を託していることは間違いありません。
しかも興味深いのは、11人の弟子たちのうち、「ある者は疑った」とはっきり書いてあることです。
11人の弟子みんなが、復活のイエスに出会っても一つの心になっていたというわけではありませんでした。
しかしイエス・キリストはそれでも構わないとばかりに弟子たちに近づいてきて、力強くこう言われます。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と。
1.
何かを始めようとするとき、メンバーが一つの心になるというのは大切なことです。
しかし救い主イエス・キリストをこの世界に語っていく、ということに関する限り、私たちの一致よりも大切なことがあります。
それは、このイエス・キリストに与えられている「権威」だけを信頼して語っていく、ということです。
およそクリスチャンとして救われて、福音を伝えたくない、という人はいないでしょう。
福音を伝えたい、けれども語る力がない。勇気がない。機会がない。そういうなかで、なかなか伝えられないのではないでしょうか。
しかし、イエス様は言われます。あなた自身の力にすがって宣べ伝えるのではなく、ただわたし、イエス・キリストの権威のみにすがれ、と。
自分の信仰は未熟だ、聖書の知識もない、口下手だ、人見知りが激しい、そういうことはまったく伝道に関係ない、ということです。
キリストは「天においても、地においても、わたしに一切の権威が与えられています」と言われました。「キリストに一切の権威」。
それは、このイエス・キリストを人々に伝えようとする者は、キリスト以外に一切の望みや期待を持たない、という意味です。
ただキリストにだけ期待します。
言葉のわかりやすさだとか、人当たりの良さだとか、そのようなものが伝道の成功失敗を決めるのではありません。
いや、そもそも伝道に成功・失敗はありません。もし成功があるとしたら、それは伝えたかどうかであって、信じたかどうかではありません。
信じるかどうかは、神の領分です。しかし人の領分は、伝えたかどうかです。伝えて、鼻で笑われても、それでよいのです。
明治・大正期のキリスト教界の指導者で、ちょうど昭和元年になくなった、植村正久という牧師をご存じでしょうか。
彼の説教は「訥弁の能弁」と言われました。訥弁というのは、言葉がつかえたり、どもったりして、うまく伝えられないことです。
もちろん私も実際に聞いたことがあるわけではありませんが、聞き取りにくい説教であったのだろうと想像できます。
しかし植村の、その聞き取りにくい説教を通して、何千人という人々が罪を悔い改め、告白して、救われました。
それは、彼の説教が、訥弁と言われるほどの言葉のまずさを越えて、自分自身をさらけだし、
ただキリストの権威にのみ依存するものだったから、その欠けているところを満たしてくださる聖霊のみ力が働いたのです。
すべてのクリスチャンが植村のように偉大な業績を残せるわけではないし、残す必要もありません。
しかしこの人は救いを必要としていると思う人がそばにいたならば、ただキリストに望みをおきながら、彼のために、彼女のために祈る。
言葉をかける。時間をとって関わる。そして福音を何とかして伝える。それをイエス・キリストは信じるすべての者に願っておられます。
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