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2018.4.15「信仰は無条件降伏」(ヨハネ20:19-31)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今さらで申し訳ないのですが、イースターの日、教会員有志がイースター・リースをささげてくださったのでご覧ください。
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力作ですね。私の方はというと、風邪をこじらせてしまって、今回はマスクをつけながらの説教です。
お聞き苦しいところがありましたら、ご容赦ください。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』20章19-31節 

序.
 いまどきの言葉に「キャラが立つ」という表現があります。
新年度が始まるこの時期、学校や会社では「今年うちに入ってきたやつはキャラが立っているなあ」というような使われ方をします。
「キャラ」というのは「キャラクター」の略ですが、日本語に訳すと「個性」とでもなるのでしょうか、
転じて「キャラが立っている」というのは、個性的だからおおぜい似たようなのがいるなかでもおぼえやすいという意味になるようです。
この表現を借りると、トマスは、イエスの12弟子の中でもペテロやイスカリオテのユダと並んで「キャラが立っている」と言えます。
英語辞書で「トマス」をひくと、「疑いやすい人」という説明が出てきます。
あわてんぼうのペテロ、裏切り者のユダと並んで、疑心暗鬼のトマス、イエスの12弟子の中での問題児3羽ガラスと言ったところでしょうか。
しかしトマスが登場する場面は決してここだけではありません。
このヨハネ福音書の中で、トマスのセリフはこの20章を合わせて全部で三回出て来ます。
それをひとつひとつひもといてみると、トマスが決してただの疑心暗鬼の、あまり親しくなりたくないタイプの人ではないということがわかります。

1.
 トマスの最初の言葉はヨハネ11章、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」。
かっこいいですね。熱心党員シモンなんかよりよっぽど熱いトマスの姿が描かれています。
二回目の言葉は、最後の晩餐でイエス様が長ーい説教を弟子たちにしていたときに質問した言葉。
「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう」。
ほとんどの弟子にとって、大学の哲学講座レベルの話に、トマスはついてきていました。
 以上のふたつのことばからわかるのは、トマスは情熱的な面と、理性的な面の両方を持っていた弟子であったということです。
しかしその情熱と理性が、この最後の場面では裏目に出ます。
25節後半「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」。
 このことばを、多くの人々はトマスの疑いやすい性格を表すものとして受け止めてきました。
しかし、この言葉は不信仰から出たものではあっても、疑いやすい性格を表しているわけではありません。
トマスはイエスが弟子たちの前に現れたとき、そこにいなかった。なぜ一人だけいなかったのでしょうか。
これがイエスが死んで三日目によみがえられた当日であったこと、そして彼らはユダヤ人の追跡を恐れて一つ所に隠れていたことを考えると、
彼だけがその場にいなかった理由は用事があったとかではなく、彼が意図的に弟子たちの交わりから離れていたと理解すべきです。
イエスがユダの裏切りによって群衆に捕らえられたとき、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。
その逃げる者たちの中にはこのトマスもいた。彼は逃げ隠れながら、何度も自分に叫んだことでしょう。
かつてはイエス様と一緒に死のうとまで言っていた自分がなぜ、どうして。
その深い心の傷はトマスの心をかたくなにし、残された弟子たちと共に励まし合うという思いもすべて拒絶してしまったのでしょう。

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posted by 近 at 17:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ