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2018.5.20「『イスラエル』に立ち返る」(第一列王記18:20-35)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

 今週の礼拝は、私の母校である東京基督神学校、しかし今は発展的解消を果たし東京基督教大学大学院になりましたが、
その東京基督教大学の旧約特任教授である木内伸嘉(きうち・のぶよし)先生が礼拝説教をしてくださいました。
残念ながら、説教原稿も録画も公開の許可が出ませんでした。内容はタイトルから想像してください。

 今回、東京基督教大学の講演会のために来港(新潟市の場合、来県・来新と言わずに来港というそうです)してくださいました。
もう終わりましたが、講演会のチラシを貼っておきます。例によって制作者は私です。説教より得意分野になりました。
春をイメージしましたが、新潟の5月下旬ってもう夏ですね。かえって暑苦しいものになってしまいました。

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 チラシのプロフィールに書いてありますが、木内先生はそうそうたる経歴・業績を持ち、
今回改定された「新改訳2017」でも旧約主任を務めておられます。写真もちょっとコワモテです
私よりも10年先輩の先生方(90年代入学の50代)に聞くと、木内先生の印象はとにかく厳しくて泣かされたもの数知れず、だそうです。
しかし私が東京基督神学校に在籍していた頃の先生の授業は、ほとんど授業に関係ない漫談のようなものになっていました。

その劇的な変化はどこで生まれたのか。
今回、やはり東京基督教大学の出身であるK山先生も交えて一緒に食事をしたときに、
30年以上教えていて、人間の罪性を突き詰めようとする学生はほとんどいなかった」と言っておられました。
その大部分の学生に私やK山先生も入っているのかと顔を見合わせましたが、
後進の育成をあきらめたところから逆に自然体になったということでしょうか。
世の牧師たちにとって、牧会は結局、我欲の達成にすぎないんだよ」と、
まるで仙人のような諦観をもって開拓伝道に励んでおられる先生と色々話せて、私も刺激を受けました。

来週は、山形恵みキリスト教会の吉持尽主伝道師の説教です。
説教原稿と説教動画も、二ヶ月間限定で公開の許可が出ています。ご期待ください。
べ、べつにサボっているわけじゃないんだからね!週報はこちらです。


東京基督教大学の学生生活の紹介ムービー。シネマライクに作りすぎて、やや嘘くささが漂いますいい学校です
posted by 近 at 15:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.5.13「母のような父の愛」(ルカ15:11-32)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私の妻、ゆ○りはおとなしそうに見えて、じつはゴールド系が大好き。思い出の場所はドゴール国際空港。行ったことないけど

録画データの入った金ラベルのSDカード(↑こんなやつ)を隙あらば奪ってしまうので、最近とみに更新が遅れます。

 さて、今週の礼拝では二組の夫妻の献児式を行いました。
そのため今日の説教は両親に対する具体的な勧告になっています。
プライバシー保護のために、子どもたちの実名は△△、□□としたら、なんか虫食い算みたいな説教原稿になってしまいました。
さらにそれぞれのお父さんはじつの兄弟ですので、説教ではどちらも名字は○○という共通の伏せ字になってします。ああ、紛らわしい。
○○家の若奥様二人に証しをしていただき、それからそれぞれの赤ちゃんの頭に私が手をおいて祝福の祈りをしました。
若奥様方の証しもすばらしい内容でした。録画してありますが公開の許可をとっておりませんので、メッセージから想像してください。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』15章11-32節 

1.
 今日は○○△△くんと○○□□ちゃんの献児式を行いました。
先ほど、ご両親からそれぞれ証ししていただきましたが、ひとつの共通したテーマに感銘を受けました。
それは、△△、□□は、すでに私たちに十分なほどに恵みを与えてくれた、という感謝があふれているということです。
△△くんは今月1歳の誕生日を迎え、□□ちゃんは生まれてからようやく半年。
二人とも、まだ満足に言葉も話せず、立ち上がることもできません。しかしすでにふたりはとんでもなくすごい働きをしてくれている、
それは、家族を改めてひとつにする、という尊い働きであって、それはこの赤子二人を通して神様が与えてくれた恵みなのだ、と。
それはお母さんだけの感想ではなく、お父さん、そしてお姉ちゃんたちに共通した思いでありましょう。
 英語と日本語が混じった表現ですが、「DoingではなくBeing」とう言葉を思い出しました。
Doingとは、何かをすること。それに対してBeingとはそこに存在すること。
私たちは大人になればなるほど、Doing、何かをする、ということにばかり目がいきます。
定年になって昼間から茶の間で寝そべっているご主人に、「そこにいてくれるだけでありがとう」と目を細めてくれる奥さんはめったにおりません。
「そんなに暇なら、ちょっとは家事も手伝ってよ」。
これがDoingです。何かをするから、何かをしてくれるから、存在価値があるというわけです。
ところが○○家は(どっちも○○家ですが)、いまBeingのすばらしさに目覚めているのです。
△△くんは洗濯もできません。□□ちゃんはお掃除もできません。しかしそれよりも、もっと大きなことを家族に与えてくれている。
存在そのものが祝福であって、そこにいてくれるだけで、家族の思いをひとつにしてくれる、と。まさに子どもは神様からの祝福です。
 とはいえ、二人がこれから大人に近づくにしたがって、だんだんBeingからDoingのほうへと、家族の目線も移っていってしまうのですが、
だからこそ、いまこのとき、神様が△△と□□を私たちに与えてくれて、この子の人生は神様のものです、と告白する献児式が重要なのです。
願わくは、そこにいてくれてありがとう、というこのBeingの精神を、
△□さん(母親1)、○△さん(母親2)はそれぞれ□△君(父親1)と△○君(父親2)にも注いであげてください。

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posted by 近 at 22:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.5.6「毒麦のままでは終われない」(マタイ13:24-43)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
更新が遅くなり申し訳ありません。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』13章24-43節 

序.
 今日の聖書箇所は、「天の御国」についてのイエス様のたとえ話です。
しかし「天の御国」とは、信仰者が死んだ後に迎えられる、いわゆる「天国」のことではありません。
では、「天の御国」とは何でしょうか。それは「天」とついていても、じつは地上のことを言っています。
天の御国、それは、人が自分の人生を神様に明け渡す、まったく新しい生き方のことです。
神を心から信じるとき、私たちは人生の主導権を自分自身から神様へと譲り渡します。
今までは、私が大事、私の生活が大事、という人生だったのが、神が喜ばれることは何かということをいつも考えながら歩むようになります。
地上の世界に生きていながら、人生の目標はこの地上での成功や安全ではなく、天の父なる神へと向かうようになります。
それを指してイエス・キリストは「天の御国」、または「神の御国」と呼んでいるのです。
 私たちがイエス・キリストを信じるとき、私たちは地上の住人ではなく天の住人になっています。
肉体と生活は地上に置きながらも、すべての望みを天におくようになります。
だから人生に不幸が起きても揺るぎません。病気や事故を恐れて生きていく必要がありません。
そしてイエス様は、その天の御国に、人生の軸足を移した人は決して何があっても失望することがない、ということを教えてくださっています。
キリストの肉と血をかみしめる聖餐礼拝のこの日、天の御国に入れられた祝福を今一度おぼえていきましょう。

1.
 ある人が自分の畑に麦の種を撒きました。しかし夜のあいだに、敵が毒麦の種も撒き、やがて良い麦に混じって毒麦も生えてきました。
イエス様がこのたとえ話を通して何を言おうとしているのか、弟子たちにはまるでわからず、あとでイエス様に尋ねました。
するとイエス様の答えは明快でした。良い麦の種を撒いた、主人とは「人の子」、つまりイエス・キリストのことであり、「畑」とは全世界。
そして良い麦とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことである、と。
ある人は、この良い麦は伝統的・正統的な教会で、毒麦は統一協会やエホバの証人のような異端であると言います。
しかしみことばを注意深く読みましょう。畑はこの世界であり、畑に蒔かれたのは良い麦か、毒麦の二種類のみです。
キリスト教の中で良い麦、毒麦二種類に分けられるのではなく、この世界のすべての人々が良い麦か毒麦に分けられています。
良い麦とは、イエス・キリストを信じて永遠のいのちを得た私たち、そして毒麦とは、それ以外のすべての人々を指すのです。
誤解と批判を恐れずにはっきりと言うならば、毒麦とは、イエスを救い主と信じないまま、死んでいく、すべての人です。
悲しいことですが、キリストを救い主として信じないならば、たとえどんなにすばらしい人格の持ち主であっても、悪い者の子どもたちです。
悪い者とは悪魔のことであり、その子どもとは悪魔に人生を支配されている者のことです。
生まれつき人間は、悪魔に自分の人生をいいように扱われていることに気づきもしない、そして自分は自由だと勘違いをしています。
イエス・キリストを信じて新しいいのちに生きる者か、信じないまま地上のことしか見えていない者か。どちらの人生が幸いでしょうか。
人生のすべての問題の解決は、キリストを信じるところから始まります。
そこをぼかしたままでは、一時的に苦しみは去っても、ほんとうの解決はありません。
すべてが手遅れになる、世の終わりの刈り入れの時がやってきます。
その日が来るまでに、天の御国の子どもとなるか、それとも悪魔に引きずられて自らも滅びの火に引き込まれるか、選ばなければなりません。
教会に導かれているみなさんが、答えを引き延ばしたまま、永遠に答えを失うことがないようにと、ひたすら願います。

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posted by 近 at 00:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.4.29「1%が100になり、99%が0になる」(マタイ25:31-46)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先日、大学病院でたまたまCT検査を受けたら、主治医から「骨密度が相当に低い」と言われました。
なんでも「65歳相当」だということ。ちなみにいま46歳。どうりで最近、妙にからだが軽いと思ってたわ
牧師からひと言」でも少し触れていますが、私は14歳から約二年のあいだ、骨肉腫の治療のために抗がん剤を使用していました。
その副作用で骨が脆くなっているそうです。30年経ってようやく知らされた真実。前から軽かったのね
80歳くらいになれば年相応の骨密度に回復すると言われましたが、それ回復と言えるのか。微妙なところです。
 ちょうどこの日曜日は恒例の召天者記念会でした。
骨密度が低いから転倒しないように足もとに気をつけるのも大事ですが、それ以上に天を見上げて歩んでいきたいものです。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』25章31-46節 

1.
 「水戸黄門」「遠山の金さん」「暴れん坊将軍」。
すでに放送が終了して久しいものもありますが、今挙げた三つの時代劇は、ひとつのことで共通しておりますが、何でしょうか。
それは、初めの登場シーンで、彼らは善人、悪人の前に身分を隠して登場します。
しかし終盤では本当の身分を明かし、悪人にはさばきを、善人にはゆるしを与えるということです。
 もしこれらの時代劇がお好きな方がおられるようであれば、今日の聖書のお話もよくわかってくださると思います。
まさにこれらの変身もの時代劇の原型ともいうべきお話が今日のお話、イエス様は二度別の姿でやってこられます。
最初は優しい救い主として地上に生まれ、十字架にかけられて殺され、よみがえられたイエス様。
しかし次に地上に来られるときには、厳かに御使いを引き連れて現れる、さばき主として来られます。
神ご自身であるイエス様が、人として地上にお生まれになったのは、私たちのたちの罪を十字架で背負うためでした。
そして二度目に来られるとき、それは、いつかはわかりませんが、この地上のすべてが終わりを告げるときです。
ある日、突然に天の御使いたちを従えて、栄光に輝いた姿でこの地上においでになります。
世界じゅう、いや宇宙そのものが、キリストの栄光によって照らされます。
地球の裏側にいたからイエス様が来たなんてわからなかったとかいうことのありえない、そんな日がやってきます。
その日には、人類の歴史が始まってから生まれ死んでいったすべての人間がよみがえります。
いま生きている80億人だけでなく、気の遠くなるような数になりますが、あらゆる人間が一人残らずキリストの前に集められます。
そしてすべての人間が、イエス・キリストの前にふたつの列に分けられます。
羊飼いが、羊とやぎを選別するように、すべての人は永遠のいのちにはいる羊と、永遠の刑罰に入るやぎとして、はっきりと分けられてしまいます。

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posted by 近 at 10:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ